第54話

 遠くから名を呼ばれたような気がして、稚武はふっと眠りから覚めた。ユキニが貸してくれた熊の毛皮にくるまり、木の根元にうずくまっていた彼は、冬の夜の寒さに身を震わせた。


 車の中ではユキニとリャン、そして咲耶が眠っている。屈強な体格の三つ子は火の番を交代で受け持っており、桐生はその炎の熱のそばで寝入っていた。


 稚武はまた眠ろうと眼を閉じたが、なんだか落ち着かずに立ち上がった。そしてふらふらと、特にあてもなく林に入っていく。用を足しに行くとでも思ったのだろう、火の番をしている男は何も言わなかった。


 しばらくはぼんやりしながらほっつき歩いていた稚武であったが、また呼ばれたような気がして、ふと空を仰いだ。星がきらめいている――そう思ったらもう、目を離せなかった。稚武はじっと、無言で夜空を凝視していた。


『西の空も同じかな』


 声が、聞こえる。東国の夜空の下で聞いた、風羽矢の声だ。


 星が流れた。


(風羽矢……)


 西の空も、同じだ。けれど隣に風羽矢がいない。それだけで、満天の星空はどこか物寂しく見えた。天をすべっていく流れ星が、涙のようだった。


 二人で眺めた空は、もうどこにもないのかもしれない。


「稚武」


 振り返ると、桐生が起きてきていた。彼は木に寄りかかるようにして、沈んだ表情で立っていた。


「どうしたんだよ、桐生兄」


 自分でも不自然だと思うほど、稚武は明るく言った。


「真夜中に起き出すなんて、年寄りのすることだよ」


 けれど桐生は笑わなかった。つられて、稚武も嘘くさい笑いを引っ込めた。


 日向を出てもう三度目の夜だが、こうして桐生と二人きりになるのは久しぶりだった。昼間は、稚武は車の中でユキニの遊び相手をしているし、桐生は御者台の方にいるしで、顔を合わせている時間もあまりなかったのだ。


 稚武は視線を落として言った。


「――知っていたんだな、桐生兄は。禍の王のこと」


 桐生はさらに眉根をきつくした。


「……悪かった」

「怒っているわけじゃないよ」


 無理してではなく、稚武は小さく笑った。


「わかってる。桐生兄は俺のためを思って、黙っていてくれたんだろう。そのくらい、いくら馬鹿な俺だってわかるよ」


 桐生はしばらく沈黙し、それから低く言った。


「どうするつもりなんだ、阿依良に行って……。そこで風羽矢に会って、どう決着をつけるつもりだ」

「……それは、わからない」


 かすれたような声だった。


「あいつが禍なんて……倶馬曾の女王を殺して咲耶の里を焼いたなんて、信じられない。 ――だから俺は、信じないことにしたんだ。この目で確かめるまでは。もしかしたら、『玉』は別の奴に渡ったのかもしれない。禍の王は別人だって、俺は思う。……俺は、風羽矢を信じる」


 明るい目で言った稚武に、桐生は「そうか」と低く答えた。


「けれど、稚武。もし風羽矢が『玉』を手放していたとしても、何事もなかったように秋津に帰れるとは考えるなよ。あいつにとって、お前や大王が両親の仇であることは変わらないんだからな。たとえ風羽矢が水に流したとしてもだ。大王が放っておくわけがない」

「俺が何とかするよ」


 稚武は厳しく言った。


「俺が二人を説得する。風羽矢はきっと俺のことを許してくれるし、大王にもきちんとお頼みする。わかってくれるよ、あの二人なら……ぜったい」


 甘いな、と桐生は顔をしかめたが、もうこれ以上言えなかった。言い過ぎれば稚武が壊れてしまうような気がしていた。


 長く、二人はお互いに黙りこくったままたたずんでいた。そして近づいてきた気配に顔を上げたのは同時だった。


「咲耶?」


 うまく木の陰にひそんでいたつもりの咲耶は、あっさり呼ばれて慌てた。けれど、しらばっくれるわけにもいかず、最悪のばつの悪さで二人の前に進み出た。


「どうしたんだ、お前もしょんべんか」


 からかって稚武が言う。すると咲耶は、無言で彼をきつくにらみ上げた。


 二人が目を合わせたのは、日向を出たすぐあと以来だった。これまでの阿依良に向かう車の中で、咲耶は隅で膝を抱えたまま、誰とも口をきかなかったのである。


 挑むような眼差しを向けたまま、咲耶は言った。


「あなたの『剣』は、本当にすめらぎ以外は持てないの?」

「そうだと聞いている。でも、片っ端からみんなに持たせてみたわけじゃないしな、詳しいことは俺も知らないよ」

「もう一度、わたしに持たせて」


 咲耶は落ち着いた声音で言った。


 仕方ないな、と稚武は剣を咲耶の前に置いた。咲耶は一度つばをのみ、それから試みた。しかし結果は、やはり蚊が山に体当たりしたようなものだった。


「気が済んだか?」

「……済んだということにしておくわ」


 力を込めすぎてしびれたのだろう、咲耶は両手を振ってしりをついた。何度か大きく呼吸して息を整え、座りなおして、悔しそうに稚武を見る。


 腹の底から不服そうに、咲耶は口を開いた。


「稚武、お願いがあるの」

「へぇ、秋津の野蛮人に?」


 つれないさまで言い返すと、咲耶は一瞬カチンと来たようだったが、どうにか抑えたらしかった。


「秋津は敵だけれど……あなたや桐生を悪い人だとは思わないわ」


 ごく小さな声で咲耶は言った。彼女は忘れてはいなかった。どれだけ桐生に親切にしてもらったか、慰めてもらったか。そして、稚武が花を降らせてくれた呼々ココの墓を。


 秋津の民は残虐で、鬼のようだとばかり聞かされてきた。だが、実際に目の前に立っている稚武たちは、どこをどう見ても鬼と一緒のものにはできない。それをいうなら、陽里を焼いた阿依良の奴らこそが鬼だ。


 咲耶は自分の見たものを信じることに決めた。


「二人はわたしを助けてくれたし、見捨てたりしなかった。だからきっと、悪い人じゃないと思う」

「それで?」

「『剣』の力を貸してほしいの。禍の王を討つために」


 稚武は少しも顔色を変えず、じっと咲耶を見ていた。測られている、と咲耶は思った。


「悔しいけれど、わたしに『剣』は振るえなかった。それがあなたと一つになって離れないというのを、何となく感じたわ。だから、あなたに頼むことにする。わたしと一緒に禍と戦ってほしい。倭のために」


 咲耶は勢いづいてさらに言った。


「倶馬曾にはもう一つ、神器の『鏡』あるはずなの。――わたしが鏡の主になるわ。だから、あなたの『剣』の力を貸してください。二つがそろわなきゃ、禍の王には勝てないんだもの」


 稚武は真面目な顔をして、やっと口を開いた。


「一つ訊ねたいことがある。お前は姫巫女だったというけれど、『鏡』のありかを知らないのか。宿主は女王じゃなかったのか?」


 咲耶は眉を下げて首を振った。


「『鏡』のありかは、陽巫女さまさえお知りでなかったわ。わたしに探せとおっしゃった……」


 顔を上げ、咲耶は強い眼差しで稚武を見た。


「そして、わたしのことを神器の主になるべき者だともおっしゃったの。だから鏡はわたしが手に入れる。必ず」


 稚武は視線を落とし、少しの間押し黙った。桐生は何も言わずに見守る。


 やがて、稚武はぽつりと言った。


「わかったよ」

「稚武」


 咲耶は目を輝かせてその名を呼び、桐生は眉を曇らせて呼んだ。


「『玉』の主が倭を滅ぼす気なら、俺だって放っておけない。――大王だってそうおっしゃった。禍の王っていうやつが破滅を呼ぶのなら、俺は戦わなくちゃいけないんだ……秋津の皇子として」

「稚武、それでいいのか」


 痛みをこらえるような表情の桐生を、稚武は見やった。


「咲耶の里が滅ぼされたのは事実だ。愛比売さまの言ったとおりになってしまった。このままじゃ秋津は……倭は滅びる。俺が食い止めなきゃいけないんだ。神器を破壊できるのは神器だけなんだから」


 稚武は口元だけかすかに微笑んだ。


「大丈夫……。確かめるまでは、信じない。風羽矢は無事でいる。俺はあいつを信じてる」


 自分に言い聞かすように、稚武は何度も「信じてる」と繰り返した。そして、穏やかな顔をして咲耶を見た。


「咲耶、神器は呼び合うんだよ。『鏡』がほしいなら、俺についてくるといい。俺の『剣』と禍の『玉』が近づけば近づくほど、『鏡』は強い力で呼び寄せられるはずから。お前が本当に主になるべき者だというのなら、『鏡』は間違いなくお前のところへ来るだろう。……たぶん」

「わかったわ」


 咲耶は明るく頷いた。けれど稚武はふいに鋭い目をした。


「そのかわり、一つだけ約束しろ。『鏡』を手にしたら、仇討ちなんかやめるんだ。禍はともかく、穂尊ホタカとかいうやつを相手にしてはいけない。神器は人に向ける物じゃないんだよ」


 咲耶は顔を曇らせた。


「いやよ。――『鏡』を使わなければいいんでしょう。穂尊はわたしが討つの、この剣で」


 言って咲耶は、懐の小刀を取り出した。呼々が遺した、陽里の戦士の懐剣だった。


 稚武は苦い顔をした。


「殺すとか、女が気安く口にするもんじゃない。仇を討つなんて人殺しの言い訳にしか過ぎないってことがわからないのか」

「言い訳なんかじゃないわ」


 咲耶は大きく言い返した。


「穂尊は悪い奴なのよ。死んで当然よ」

「わかってないな。憎しみで人を殺して、それでお前や、お前のふるさとの人たちが救われると思っているのか。お前の手が汚れるだけなんだぞ」

「放っといてよ」


 ぴしゃりと咲耶は叫んだ。


「稚武にはわからないわ。誰にもわからない、わたしの気持ちなんて。陽里のみんなの悔しさを、わたしが晴らすしかないのよ」

「馬鹿だな」

「馬鹿とはなによ」

「馬鹿だよ」


 諦めたように稚武はため息をついた。以前にも似たような会話があったな、と内心呆れた。いくら正論を押しつけようと、咲耶は聞く耳を持たないのだ。それは仕方のないことなのかもしれなかった。


「とにかく、無茶はするなよ。ユキニたちが、明日には阿依良につくだろうと言っていた。もし穂尊を目にしたからといって、猪みたいに突っ込んでいくんじゃないぞ。返り討ちにあうのは目に見えているからな」


 咲耶は頷かず、口をつぐんで不満げに稚武を見た。


「そうだな……もしも穂尊を見つけたら、まず俺を呼べ。どうしても許せないというのなら、俺がかたをつけてやるよ。もちろん神器の剣は使わずに」

「どうして」


 飛び上がるように咲耶は言った。


「稚武は弟を探しに行くんでしょう。穂尊とは何の関係もないじゃない」

「どうして、と言われたら……そいつが倶馬曾の偉い奴だっていうからさ。言っておくが、お前の仇討ちを肩代わりしてやるつもりは微塵もないからな」


 稚武はにっと笑ってみせる。


「忘れてはいないだろう、俺は秋津の軍を率いてきた大将だぞ。女王と和睦できればとは思っていたけど、どうやらまともに話ができるような奴じゃなさそうだからな、その穂尊ってやつは」


 咲耶は思わず身を引いた。そうなのだ――稚武は侵入者なのだ。倶馬曾に攻め込もうとしている、秋津の皇子。東国を恐るべき速さで攻め落としたという戦皇子なのだ。


「倶馬曾をどうするつもりなの」


 おびえきって咲耶は訊ねた。しかし稚武は、温和なさまで返した。


「みんなが困るようなことにはしないよ。俺は倭を一つにしたいんだ。秋津で待っていらっしゃる大王のためにもな」

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