第51話

 稚武は階段を使うのも面倒で、ひょいと廊に飛び上がった。これでもう四つ目の殿舎だ。必死に風羽矢の気配を探すも、空振りが続いている。


 ひとけのない廊に立ち、稚武は周囲を見回した。もうすっかり暗くなってしまっている。


(妙だな……)


 予想からはずれ、宮の奥側の殿には人影がなかった。いくら稚武が無防備にたたずんでいても、見咎める声は飛んでこない。


 暗闇がしんとするだけで、何の気配も感じられなかった。冷えた秋風がわずかに肌を滑っていくだけだ。


「風羽矢」


 たまらず名を呼んだ。


「いないのか、風羽矢」


 やはり、闇が沈黙を返すのみである。


(この殿にはいないのか……)


 稚武は腰の剣に手をやった。この剣が反応を見せないということは、やはり風羽矢は近くにいないのだろう。


(けれど……)


 この都のどこかにいるのなら、そろそろ何か感じるものがあってもいいはずではないか。神器同士が強く呼び合い、何かしら導く力が働いてもよさそうなものだ。しかし、剣はかすかな響きさえもっていない。


 物寂しい予感が胸をよぎった。まさか、風羽矢は日向には――


(そんなはずはない)


 ふるふる、と弱気な思考を振り払う。


(風羽矢はきっとここにいる。愛比売さまが言っていたんだ。間違いない)


 『玉』の主は倶馬曾の都、その華やかな宮殿の奥にいると、伊予の姫神は語った。厳しいぶん、偽りのない神だ。疑う余地がない。


 稚武は一つため息をついた。


 それにしても、なぜこの殿には人がいないのだろう。しかもよく見ると、中は荒れ放題だった。物は散乱し、いたるところにひびが入っている。阿依良軍によって首長が追放され、それから手つかずなのだろうか。


(どっちにしろ、女王の権威が失われたのは確からしいな。……秋津にとって、今こそが攻める好機かもしれない)


 それにもかかわらず、風羽矢の奪還を優先させようとしている自分。皇子失格といわれても言い訳できないだろう。――しかし……


 いくら考えても仕方ない、と稚武は振り切った。ここまで来たなら、とにかく風羽矢を助け出さなくては。


(次の殿に行く前に、もう一度だけ確かめておこう)


 そう思って剣を取り出し、巻いてあった厚布をめくったときだった。


 一瞬の決断で、稚武は横に飛びのく。同時に天井から降ってきたのは、小刀を手にした子供だった。


「ほう……」


 振り下ろした刃をよけられた男の子は、しかし満足そうに微笑んだ。ずいぶんと大人びた笑みである。着地した拍子に身を低くしたが、踊る瞳で稚武をとらえながらゆっくりと立ち上がった。


 稚武も身構える。


「なんだ、お前」

「なんだとは心外。わしもお前と同じじゃ」

「同じ?」


 眉をひそめる稚武に、やはり男童は悠然と微笑んでいる。


「同じ、盗人じゃ。空になったこの殿を物色しに来た」

「俺は盗人じゃないぜ」

「うむ、知っているとも」


 かみ合わない答えが返ってきた。困惑するしかない稚武を、子供は明るい瞳でまじまじと覗き込む。


「わしはずっと天井にいたのに、お前、気がつかなかった。阿呆かと思ったが、そうでもなかった。命拾いしたな」


 聞いていると、どうもこの子供の言葉は片言だった。しかし倶馬曾訛りとはだいぶ違う。もっとたどたどしい、しかし秋津の都言葉に近い言い様なのだ。そして、服装は明らかに倶馬曾の子供のものではなかった。それどころか、倭のものでさえなかった。けれども、稚武にはかすかに見覚えがある。


(確か、石上いそのかみで……)


 その時、稚武の思考を遮って、呼子の笛の音が鳴り響いた。そしてそれに続く、衛兵たちのざわめき。


「ちっ……」


 思ったより早い、と稚武は顔を歪めた。もしや、あとの二人に何かあったのか。


 すぐさま駆け出した稚武であったが、男の子がついてきたことにぎょっとした。しかも稚武は本気で走っているのに、その子は気張っている様子もみせず、当たり前の顔でぴたりと隣についているのだ。


 子供は目を細め、年相応の無邪気な笑みを浮かべた。


「逃がしてやろうか」

「あ?」

「わしはお前、気に入った。ここでつかまったら殺される。惜しいぞ」


 不気味ささえ覚えて、稚武は眉根を寄せた。思わず立ち止まる。


「盗人というなら、ガキ、お前のほうが早く逃げるべきだぜ。それに俺はまだ、この都に用があるから―」


 行けない、と言おうとしたのを遮って、子供はきょとんとした。


「お前、情報遅いか。ここは倶馬曾の都と違う。遷都した。今の都、阿依良という」

「なんだって」


 稚武は鋭く聞きとがめた。


「本当か、坊主」

「坊主ではない。わしはユキニじゃ」


 ぶすっとして子供は名乗った。そうしてから、にやりと笑う。


「いざとなったら表門に走って来い。待っておるぞ、秋津の若君」


 秋津、と呼ばれて、稚武は立ちすくんだ。そのわずかな間に、目を見張るすばやさで子供は駆け去っていってしまった。


「待て、おいこらッ」


 しかし稚武には、わけのわからない子供を追いかけている暇はなかった。


 騒ぎの中、殿舎の横から走り出てきたのは、衛士たちに追いかけられている桐生だったのだ。広い肩には咲耶が担がれている。


「おっ、稚武!」


 つっ立っている弟の姿を認めた桐生の顔が、にわかに明るくなる。


「いいところにいた」

「何やってんだ、桐生兄。見つかったのかよ。鈍くさいな」


 しかめ面で言って、稚武も追いかけっこに参入した。土煙を巻き上げながら怒声を上げて追ってくる衛兵たちは、しだいに数を増してくる。


 全力で逃げ走りながら、桐生が言った。


「鈍くさいとはなんだ。お前こそ、風羽矢はどうした。見つからなかったのか」

「ここにはいないみたいなんだ」


 稚武は眉を下げた。


「うかつだった。今、都になっているのは阿依良なんだと。剣もうんともすんともいわないし、風羽矢はここにはいないよ」

「……無駄足だったってわけか」


 桐生ががっくりとしたと同時に、とつぜん正面に兵たちが躍り出てきた。矛を構えられ、稚武と桐生は足を止める。見ると、夕方に叩きのめした裏門の番兵もいた。


「逃がさんぞ、賊め」


 恨みのこもった目で、ひたいに大きなこぶをつくった彼は言った。


「刺青のない白い肌、耳慣れぬ訛り……それに、その桜色の勾玉は、このあたりでは見かけないものだ。――しかるに、さてはお前ら、秋津の回し者だな」

「うーん。弱いわりに、なかなか勘がいいじゃないか、おっさん」


 腹をくくった稚武は不敵に笑った。


「だけど、ここは通してもらう」


 勢いよく厚布をほどくと、稚武の剣はまぶしく光り輝いた。まるで、力の解放に喜び勇むように。白銀の光がはじけ、宮を覆い尽くすかと思われた。


 稚武は剣でもって戦おうと思っていたのだが、その必要はなかった。神器のまぶしさに、衛兵たちは悲鳴を上げて逃げ去っていく。わずかに残っている者もいたが、彼らは腰をぬかして逃げるにも逃げられないのだった。


「今のうちだ、走れ」


 予想外の剣の活躍に戸惑いながらも、稚武が一番冷静だった。衛士たちと同様、鋭利な光から目を守ろうとしていた桐生だったが、我を取り戻すのは彼らより早かった。稚武が走り出したのに遅れまいと駆け出す。


「今の光はなに」


 ずっと後ろ向きに桐生に担がれていた咲耶は、怯えたような声で叫んだ。だが答えを待つ間もなく、青ざめてさらに問う。


「あなた――あなたたち、秋津人だったの」


 桐生は困ったように微笑むだけだった。稚武は呆れた、それでいてあっけらかんとした調子で言った。


「だから、後悔しても知らないって言ったのに」


 咲耶はカッと頬が燃え立つのを感じた。


「は、離して。下ろしなさいよ、馬鹿、野蛮人っ」

「馬鹿はお前だ。ここで離れてどうする。とっくに俺たちの仲間だと思われてるぞ、お前も。……ったく、文句を言うなよって言っておいただろうが」

「じょっ……冗談じゃないわ!」


 咲耶は本気で暴れだした。秋津の民は野蛮で、恐ろしくて、人を人とも思わない振る舞いをするのだ。その仲間と見なされることなど、我慢ならない。秋津は倶馬曾の敵でしかないのだから。


「暴れるなよ、咲耶。危ないだろう」


 桐生は大きな手で咲耶の両足を押さえ、身動きを封じてなおも走った。


「放して、放して。誰か、助けて!」


 声の限りに叫ぶ咲耶を無視して、桐生は稚武に尋ねる。


「どうする。この調子じゃ、いくら逃げても時間稼ぎにしかならないぞ」

「――表門へ出よう」


 すっきりしたように大人しくなっている剣を抱え、稚武は言った。表門は、今走っている大路を真っすぐ行った先にある。


(あのガキを頼るわけじゃないけど……)


 どこまでも不審な、ユキニと名乗ったあの男児を信用することはできない。しかし今は、他に逃げ道もなかった。小路には詰めかけた兵たちが溢れ、だが稚武たちに飛びかることもできずに道を塞いでいる。後ろからは怒号が迫ってくる。


「何とかなる。とにかく今は、捕まってやってる暇はないんだ」


 やがて表門の篝火の灯りが見えてきた。門の柱についた番兵たちは、ものすごい数の衛士に追われている二人の青年、そして彼らに担がれながら喚いている少女の姿にたじろぎ、あとずさった。おかげで行く手を阻まれることなく、稚武たちは表門を飛び出した。


「ええい、何をしとるかッ」


 先頭を切って侵入者を追っていた隊長が怒鳴る。そして部下を引き連れ、門から走り出た。しかし、もはや賊の姿は見失われ、宮の外にはぽつぽつと火の灯りの影があるだけだった。


「むぅ……」


 髭の濃い隊長は苦々しく顔を歪め、「探せ!」とわめき散らした。そして自分も鷹のような鋭い視線を飛ばして練り歩き、少しもしない間に小路の隅を進む馬車を見つけた。


「や、や、そこの馬車、待て」


 ギィギィと音を立てていた車輪が、ぴたりと止まる。


「なにごとでありましょう?」


 出てきたのは、幼子の手を引いた女だった。指をくわえたその子も彼女も、鮮やかな濃い原色の衣を身にまとっていた。大陸渡りの衣裳である。


 髭隊長は内心ひどく驚きながら、こほんと一つ咳払いをして言った。


「実は今、秋津のやからが忍び込んでいたようでな。悪いが、荷を改めさせてもらうぞ」

「まぁ、それは大変」


 女はおっとりとしたさまで眉をひそめた。


「どうぞ、車の中を調べてくださいませ。そのような者が紛れ込んでいたら困りますもの。なんて恐ろしい」

「おぬしらはあれか、大陸渡りの……」

「しがない歌舞を奏する者ですわ」


 にこりと微笑んで女は言った。


 倭には見られないつくりの大きな車を覗き込み、髭隊長は納得したようにうなった。中には歌舞を披露するための衣裳や楽器、仮面などが山のように積まれていた。――ちょうど、中に誰か隠れているように。


 念のため、いくらか衣をめくってみる。そして鼻の大きな仮面に手が伸びたとき、指をしゃぶっていた男児がつぶやいた。


「呪われるよ」

「なに」


 触れかけた指先を跳ね上げて隊長は叫んだ。男児はぼんやりとした、間抜けな面で言った。


「その仮面に触ったらねぇ、呪われるんだよ。宋の国の鬼の面だもん。一生とり憑くよ」


 けたけた、と子供は笑った。気味が悪くなり、髭隊長は車から身を離す。もとより大陸の連中は薄気味悪く、正体が知れない奴らばかりなのだ。


「調べは済みましたかい」


 いつの間にか、後ろに男が立っていた。どん、と背中があたり、ぎょっとして振り向くと、見上げるほどの大男だった。見れば、似たような体格の男が後ろにもう二人もいた。彼らもこの楽団の一員らしい。


「あ、ああ……、もういい」


 情けない虚勢を張って隊長は言った。


「呪われた面など、倶馬曾に持ち込むな。用が済んだなら早く出て行け」


 吐き捨てるように言って、彼は足早に宮の方へ引き返して行った。


 それを静かに見送って、馬車はまた動き始める。そして日向の城壁から出たところで、一気に駆け出した。手綱を引いているのは、三つ子の大男のうちの一人である。


 ぼけっとした表情を装っていた男児は、にっと利発なさまで笑った。そして「呪われた面」を、衣の山からはずす。正確には、そこに隠れていた少年の顔から。


「どうだ、助かっただろう、秋津の若君」


 色鮮やかな生地に埋もれていた稚武は、決まりの悪い顔で男児を見つめる。その横へ、さらに奥に押し込められていた桐生と咲耶が顔を出した。呼吸が苦しかったためか、頬を赤くして息をしている。


「なんなのよ――どういうことなの、いきなり」


 誰にともなく、咲耶は怒鳴った。


 稚武たちは、日向の宮の表門を飛び出した瞬間、ぬっと現われた大男たちに手足をとられ、何を言う間もなくこの車の中に放り込まれてしまったのだった。さらに押さえけられ、大量の衣に埋められて、身動きができずにいたのだ。


「助けられたら礼を言うものだぞ」


 子供は得意げに言った。果たしてこの状況が助かったと言えるのか怪しいものだ、と思いながらも、稚武は小さく頭を下げた。


「ありがとう、とりあえず礼を言っておくよ」

「うむ」


 満足そうに頷く彼は、今度は、顔を真っ赤にしている咲耶をじっと見つめた。彼女からの礼を待っているのだろうか、と稚武は呆れた気持ちでいたのだが、子供は目を丸くしながら言った。


「おや、よく見れば、姫巫女ではないか。生きていたのだな」

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