第46話
(ここが、海の下……)
闇の中で静かにつぶやく。
なぜ、わたしは闇にいるのだ。独りきりで。
水の下とはこれほどまでに深く、暗かったのか。何もない。誰もいない。
わたしは黒い海の底に呑みこまれて果て、二度と陽の国に浮き上がることはできないのか。我が魂は常闇に囚われて永久をさまようのか。このまま、このまま……
愛しいわたしの姫との約束を、違えてしまうのか。
――ならぬ。それだけはならぬ。あれを独りにはできぬ。
参ろう。海を飛び、川を上って、再び陽の国に。
我らの誓いを果たすため。再び、愛しあうために。
* * *
風羽矢は静かに目蓋を持ち上げた。
磯の香りが鼻の奥に残り、まだ波の中にいるような心地がしていた。けれど、どうやら、地べたがある上に寝かされているようだ。それどころか、紅科の屋形の寝具よりもふっくらとした布団がかけられていたものだから、唐突に気づいた瞬間にがばりと飛び起きた。
(どこだ、ここ……)
一瞬、
「まぁ、やっとお目覚めになりましたのね」
驚いたことに、枕元に女性が座り込んでいた。若く、たぶん風羽矢と同じ年頃だろう。嬉しそうに目を細め、彼女は頬を染めて微笑んだ。
「ご気分はいかが? もう半月近く寝込んでいらしたものだから、ずいぶんと心配しましたの」
「……君は、だれ?」
激しく混乱しながら、風羽矢は訊ねた。訊ねておいて、答えを待つより先にせわしなく周りを見回す。当然のごとく、いつも隣にいるはずの相棒の姿を探したのだった。
少女は、石上の都の貴人が着ているような、ふわふわとした細やかな衣をまとい、上品なさまで笑っていた。
「どうか落ち着いて。ふふ、安心なさって下さいな。ここは
「倶馬曾」
思わず大声で叫んだ。
「クマソって、あの倶馬曾国? なんだってそんなところに。――いや、それより稚武は……」
名を呼んでからハッとした。やっと、彼と離れた経緯を思い出したのだった。
風羽矢は全身の血が引く思いで、自分の胸元を見下ろした。そこには、
「……どうして……なんでだ。僕は海に落ちたはずなのに、助かりっこなかったのに……僕は、生きているのか?」
「生きていらっしゃいますわ、もちろん」
微笑んで少女が答える。
「なぜ――」
風羽矢はおののくように叫んだ。
「なぜ、なぜ生きているんだ! この玉は呪われている、僕は禍なんだ。死ななきゃいけなかったのに、死ねばよかったのに、あのまま」
「なんてことをおっしゃるの」
少女は驚き、哀しそうに言った。
「わたくしはずっと待っておりましたのよ。あなたと再び見える日を。あなたが目覚め、海を越えてわたくしのもとに来てくださる日を」
風羽矢は大きく体を震わせながら少女を凝視した。
「それに、禍だなんてとんでもない。あなたは救い主です。大切な、この国の王となるべきおかたなのですから」
前置きなく言われ、風羽矢は虚をつかれてしまった。
「僕が……なんだって?」
「王です。倶馬曾の新しき王。そしていずれは、倭の大王となられるお人ですわ」
きっぱりと言い切る彼女に、風羽矢は困惑しきって瞬くだけだった。それから、頭の中で何度も反芻し、見上げるようにして小さく言った。
「言っている意味が、よく分からないのだけれど……」
「あなたは、この
風羽矢は眩暈がする思いだった。
「なぜ……。どうして、君はそんな事が言える」
「『どうして』? いやだ、忘れていらっしゃるの」
くすくすと笑って彼女は言った。
「これは約束されていたことではありませんか。もうずっとずっと昔に。前世から。わたくしたちは一つの
風羽矢は無言で目をむいて彼女を見た。少女の瞳は静かに潤み、だが微笑んで風羽矢を映していた。
「お兄さま。……わたくしはずっと、この地でお待ちしておりました。こうしてお会いできる日を、どんなに待ち望んでいたことか。まさか、『
「……僕の……いもうと……?」
ぼうぜんとつぶやく風羽矢に、彼女は頷いた。一筋の涙をこぼしながら。
「お兄さまはご存じなかったのですね。――
(紅科のお母さんのことだ……)
口にはしなかったが風羽矢はさとった。
少女は涙をたたえ、温かな胸に風羽矢を抱きしめた。
「『剣』のそばを離れ、海に抱かれたことで、やっとお兄さまはお目覚めになった。『玉』の力に導かれ、わたくしのもとに来てくださった……。遠い約束を、きちんと果たしてくださいましたのね」
彼女は愛しそうに、優しく風羽矢の勾玉に触れた。
「さぁ、我らの怨みを晴らすときが来たのです。あなたは救いの王として立つ。汚らわしい秋津の大王家の血を滅ぼして」
夢を見るように語る妹に、風羽矢はぎくりとして喉を震わせた。
「……そういうことなのか。君が、僕に、皇を滅ぼせというんだね」
「ええ。それこそがわたくしたちの使命。血の絆、さだめという名の約束ですわ。やってくださいますね、お兄さま」
「僕にはできない」
期待に輝く瞳から目をそらし、風羽矢は青くなって言った。
「僕に……稚武を殺せるはずがない。――それに、僕は王になれるような人間じゃないよ。人の上に立つなんて無理だ」
「まぁ」
少女はかわいらしい瞳をいっぱいに見開いた。
「お兄さまは、本当におかしなことをおっしゃる。お忘れですの? あなたは
風羽矢はかたく目をつぶって首を振る。
「倭に王が必要なら、稚武がなればいい。稚武のほうがふさわしい」
「……稚武とは、
穴穂皇子、と大王の名を呼ぶ声は、ぞくっとするほど冷たいものだった。見やると、語る双眸も切っ先のように鋭く光っていた。
「そのような卑しい子のことなど、早くお忘れくださいな。その者こそが禍です。わたくしとお兄さまを滅ぼし、倶馬曾を滅ぼし、果ては倭を滅ぼす。穴穂皇子と、その子こそが呪われているのです。お兄さまが戦わなくては、倭の民はみな殺されてしまいますわ」
「稚武はそんなことしない」
「いいえ」
風羽矢がいくら声を大きくして言っても、きっぱりと否定されてしまう。
「いずれ、稚武はあなたを滅ぼしにやってくるでしょう。呪われた『剣』をたずさえて、わたくしたちを破壊しにやってくる。汚らわしい、偽りの皇子。その男はお兄さまをおとしめ、まんまと日嗣の座を奪ったのですよ。お兄さまは騙されていたのですわ。ずっと、ずっと」
「……やめてくれ……!」
風羽矢は両耳をふさぎ、震えてうずくまった。
恐ろしいことに、彼女の華やかな声音は、少しずつだが確実に風羽矢の心に滑り込んできた。鎖に囚われ、蝕まれていくのを風羽矢は感じた。胸の奥が、楔を打ち込まれたように痛む。
彼女はさらに言った。
「どうか、あなたの身に流れる尊い血の記憶を思い出して。わたくしたち兄妹の、大王家への怨みを。本当なら、あなたこそが皆にかしずかれ、父と母と、国中の民に愛されて育つはずだった。日嗣として、幸せが約束されているはずだった……。それを打ち砕いたのは今の大王、そしてその子である
「でも、僕は……」
風羽矢は弱々しく反論に出ようとしたが、言葉が見つからなかった。そのうちに、彼女がにこりと笑った。
「いいのですわ。お兄さま。ひどくお疲れのようですから、しばらくはこの宮でゆっくりお休みください。そうしているうちに、きっとわかります。民がどれほどお兄さまを頼りにしているか……いかに、あなたが必要とされているか」
風羽矢は黙り込んでうつむいた。たった一人の妹だという彼女の瞳は、見つめていたら吸い込まれそうで怖かった。
「まぁ……お兄さま、顔色がよくありませんわ。どうぞ、安心してお眠りになって。わたくしがちゃんとおそばにおりますから。……これからはずっと、おそばにおりますわ」
青い顔の風羽矢を再び寝台に寝かせ、彼女は言った。
握られた手がひんやりとして、風羽矢は不思議と心地よく感じた。とろとろと意識が溶けていく。けれども、また眠ってしまう前に、どうしても訊ねておきたいことがあった。風羽矢は眠気を振り切り、小さな声で言った。
「君――君の名前は?」
少女はすこし哀しげに微笑んだ。
「本当の名など、とうに失われてしまいましたわ。けれど……周りの皆は、わたくしをヒミコと呼んでくれます」
「ヒミコ」
横になったまま、風羽矢は息を呑んだ。
「じゃあ――じゃあ、まさか、君が倶馬曾の女王?」
「いいえ、違いますわ」
いたくあっさりと彼女は否定する。
「倶馬曾には女王などおりません。お兄さまが男王として立つのですから。わたくしは、陽の大王であられるお兄さまをお導きするだけです」
「けれど……僕は、倶馬曾は陽巫女という女王が治めていると聞いていたのに」
戸惑いながらも強くまどろみに引き込まれていく風羽矢に、ヒミコは軽やかに笑って答えた。
「そんなもの、とうの昔に滅びましたわ」
罪を知らぬような無垢な笑みだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます