第28話



 紅科は真面目な顔をして松山と少年たちの間に立ち、稚武に向かってきりりとしたさまで言った。


「稚武、風羽矢。あんたたちを傷つけるつもりはないわ。ここできちんと養生してほしいと思っている。だからそれまで、熟田津にきたつから外には出ないでほしいの」

「どういうこと」


 訊ねた風羽矢は気づいていた。この屋形を取り囲んでいる大勢の男たちの緊張した息遣いに。彼らはたぶん松山の部下だ。稚武が剣を抜けば、よそ者の自分たちを殺す気で飛び込んでくるに違いない。


 ようよう気分を落ち着けたらしい松山は、銛を下げて仁王立ちして言った。


「お前たちが都からやってきた秋津軍の一員であることは知れている。そっちの若者が、都ではやんごとなき男子とされていることもな」


 松山が眼差しで指したのは稚武だった。稚武は強い目で返した。


「なぜわかった」

「ユモリさまがそのようにおっしゃったからだ」

「答えになってない。誰だよ、ユモリさまって」

「あたしのことよ」


 紅科が答えた。その隣で、松山が鼻を鳴らす。


「ふん。では、お前の足らない頭でも分かることを教えてやろう。先日、東の越智評おちのこおりの方に秋津国の軍艦が何艘かやってきたそうだ。聞けば、姿を消した日嗣ひつぎ大泊瀬皇子おおはつせのみことやらを探しているとか。――律儀なものだ、こんな小僧のために振り回されて」


 稚武は膝をついたまま、無言で松山を睨み上げた。隣の風羽矢はいくらか訝しんで眉根を寄せていた。


「知っているなら、なぜ僕らがここにいることを軍に知らせないんです。伊予は秋津国に従っているはずでは」


 松山は笑った。嘲るような冷たい笑いだった。


「愚かなことを言う。そのように愚かだから、我らは秋津には従わんのだ。お前らがいったい何を持っているというのだ? 子供がたった二人きりで、何もできはしないではないか。力のない支配者ほど目障りなものはない。いい機会だ、ここで己の無力さ加減を思い知るんだな、皇子さま」


 かわって紅科が真摯に言った。


「お願いだから、あたしたちに逆らわないでちょうだい。悪いとは思っているのよ、あんたたちを帰さないこと。それに、伊予は秋津国に従っているわ。けれど、ここ――熟田津だけは事情が違うの」

「……お前らは一体、何者なんだ。ここはどういうところなんだ?」


 答えたのは松山だった。


「物知らずは命取りだ。せめて教えておいてやろう。――ここは熟田津の里。伊予の西の果て。秋津の領土の中で最も倶馬曾クマソに近い地だ。……だから我らの仲間の中には、半分倶馬曾の血をひく者が多い」


 少年たちはハッと目を見開いた。紅科が懇願するように言った。


「だからなの。あたしたちは秋津にも倶馬曾にも味方できない。……あんたたちを軍に返せばすぐに戦になるんでしょう。それは、できないのよ」

「そのうえ、この土地を戦場にされるのはごめんこうむる」


 松山は憤然として腕を組んだ。


「我らは秋津に従うわけでも倶馬曾に従うわけでもない。下らん争いに巻き込まれてはたまらん」

「じゃあ何に従うというんだ、あんたらは」

くにかみさまだ」


 少年たちは眉を曇らせた。国つ神というのは、あまかみ――つまりすめらぎが、やまとを統治する以前に、この地を支配していた土地神のことだ。そののちに天照大御神あまてらすおおみかみの孫である瓊瓊杵尊ににぎのみこと高天原たかまがはらから倭の地に降臨し、国つ神の長・大国主命おおくにぬしのみことを屈服させて国を譲り受け、現在の大王おおきみ家につながるのである。


 敗者ともいえる国つ神に従うということは、つまり。


「皇の支配に抗うということか」

「我らを支配するだけの力量がお前にないということだ」


 松山は眉間に深くしわを刻んだ。


「わしらとて、以前は秋津にも倶馬曾にも心から従順していた。両国が手を取り合えないかとあらゆる可能性を探し回ってな。――だが、今から十七年ほど前の戦で、ここは戦場にされた」


 彼の視線がふっと落ちた。


「ひどいありさまだったよ。美しく豊かだった熟田津は墓だらけになった。そしてそれっきり、皇からは何の手当てもない。これで以前のように大人しく支配されていろと言うのか、馬鹿らしい。しかも懲りずにまたどんぱちやらかそうとしている。こんな子供に将を任せてな。気が違ったとしか思えんぞ」

「実際に戦の指揮をとるのは熟練した腕前の将軍だ。俺だってここを戦地にしたいわけじゃない。もとから、武力をもっての戦いは最小限にとどめるつもりだ」


 稚武は真剣な眼差しで言った。


「俺は、倶馬曾の陽巫女ひみこと直接話をしようと思っている。倭を一つにするために」

「……ほう」


 松山は何か感じるように声をもらしたが、すぐに険しい目つきに戻った。


「だが、口では何とでも言える。現実に矛や弓を手にして戦うのは、皇子さまとは無関係な下人たちなのだからな。お前にその一つの命の価値が分かるか。王宮でぬくぬくと育ち、威張り散らすしか能のない奴に、本当にそのようなことができると思っているのか」

「できるかはわからない。けれど俺はやる。やってみるだけの価値はあると思う」


 稚武は迷いなく言った。


「俺にだって死なせたくない奴はいる。陽巫女にだってきっといるはずだ」

「……ふん」


 松山は測るような目で稚武を見た。稚武は強気でその目を受け止める。沈黙のうちに、風羽矢が口を開いた。


「松山、さん。あなたは勘違いをしている。稚武はあなたが思ってるような、みんなにかしずかれて育った奴じゃないんです。孤児として、出自を知らないままに三年前まで泊瀬はつせという田舎で暮らしていたんです。僕と一緒に」

「まさか」


 松山は愕然として風羽矢と稚武とを見比べた。風羽矢は眉を下げて続けた。


「それに、僕たちを育ててくれた家の兄が、一兵士として軍に入っているんです……大切な家族です。彼の命が軽いなんて思っていません」


 風羽矢は目に涙を浮かべた。というのは、その桐生の安否が気遣われたからだった。同じ船に乗っていたのだ。……考えたくないが、無事でいると思えるほど風羽矢は楽天家ではなかった。それは稚武も同じだ。


「俺たちを軍に引き渡してれ。……願いします。桐生兄が無事に助けられたのかどうか、確かめなくちゃいけないんだ」

「無事よ」


 確信のある声で言ったのは紅科くしなだった。彼女は少年たちに凝視されながら、何かに集中して聞き入るようにぽつりぽつりと言った。


桐生きりゅうという…泊瀬の里長の家の長男は、仲間の船に助けられたそうよ。……彼は今……安芸あきにいる。つるぎの主の皇子みこを探しているのですって。他の兵士たちと一緒に」

「ほう。それはよかったな、小僧。ユモリさまのおっしゃることに偽りはないぞ」


 呆然とする少年たちに、松山は初めて怒りのない声音で言った。


 二人とも聞きたいことは同じだったが、先に声を取り戻したのは風羽矢だった。


「紅科。……君は、巫女?」

「ええ、そんなようなものよ。みんなはユモリの巫女と呼ぶわ」


 紅科はにこりと気安く答えた。


「あたしは神の声を聞くの。伊予の国つ神――愛比売えひめさまの御声をね」

「我らはその御声に従うのだ」


 松山は担いで持ってきた魚を下ろし、緊張を解いたように片手間で話した。


「お前らのような都人でも、人間は人間だ。全ての意味でな。弱っているなら捨て置くことはできん。これでも食って精をつけろ」


 口にはしなかったが、稚武の皇子にあらざるべき不遇な生い立ちに、彼は多少なりとも感化されたらしかった。怖い顔をしておきながら、きっと根はお人よしに違いない、と稚武と風羽矢は思った。だが、こちらもあえて口には出さない。


 稚武は己の興味がわくところに逆らわず、松山が下ろした魚を覗き込んだ、魚は大きく、人の足よりも長かった。


「なぁなぁ、おっちゃん。これは何ていう魚だ。こんなの、都の川にも泊瀬の川にもいなかった」


 いきなり親しげに訊ねられて、松山は面食らった。紅科も目をぱちくりさせ、それからすぐにくすくすと笑いだした。


 稚武ってこういう奴だ、と風羽矢は思わず渋い顔をしたが、自分もこの巨大魚の正体が気になったので、いそいそと相棒の隣についた。それから稚武と一緒になって松山の返答を待った。


 二対の期待に満ちた目で見つめられ、松山は調子を狂わせられたようにしゃがみこんで答えた。


「これはかつおだ。川にはいない。海にだけいる魚だ。そんな事も知らんのか」

「知らなかった」


 二人は素直に感動の声を上げた。


「これって美味しい?」

「ああ、うまいぞ。……しかたない、わしが直々に調理してやろう」


 言う松山はむしろ嬉しそうだった。こうしてすぐに他人の心を掴んでしまうのは稚武の性分であり、才能だった。人見知りするたちの風羽矢は、自分がその恩恵に度々あやかっているのを承知していた。

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