第16話 イン・ザ・アンダーレイヤー 3
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―― 十秒、経った
睨み合い――この永遠に似た沈黙が始まってからの時間だ。
低層のどこか。
地上部、中層などで見られるぽっかりと建造物の合間にあいた様な広場。
いずれ消える隙間でしかない。
低層で言えば、そこは人々の憩いの場所になる。酷く狭い低層では、こういった場所では誰であっても拒まれない。
――しかして、彼らは間違いなく招かれざる客だ。
そこは、先まで生きていた者と残骸と瓦礫に塗れていた。
生者は睨み合う二人だけ。
方や、黒影、無貌――つまるところケンゴ/狩人。
そして、もう片方。筋骨たくましい金髪の男。
今は都市迷彩を全身に這わせていて、光を呑むような黒に染まっている。
その無機質な瞳の奥で、傷んだ金髪の男は刻まれた傷の数々と損傷度合いを確認しながら思っていた。
早まった、と。
視線の先にある威圧は、あまりにも男の手に余った。
無貌、黒影。
顔なき影はじっと此方の出方を伺っていた。
表情がない。何よりもその脱力したような構え。
男はそこから威圧しか感じることができなかった。
――普通ではない。
暗がりに身を埋めてきたその男ですらも、そう思っていた。
男は、チャイニーズマフィアの暗部、その一員だった。
暗殺誘拐恐喝――人の想像がつく限りの悪逆を男は成してきた。
組織の命令のままにそれを己の至上としてこなすのが男の人生だった。
父を知らず、母を知らず、愛を知らず、罪を知らず。
腐敗と汚泥の冷たい抱擁の中で、息絶えようとした彼を救ったのが組織だった。
冷たい地獄から、文字通りの燃え焦がすような地獄。
救われた先にあったのもやはり地獄だった。
けれど、男はそれを悔いることはなかった。
――此処には生きる意味がある、と。
人を殺す術、人を活かす術、人を苦しめる術、人を攫う術。
悪徳を学んだ。
これが組織の為になると、その基礎を成せると。
只々、その為に男はそれだけを学び、知った。
父と呼べるものを、母と呼べるものを、罪と罰を知った。
やはりと言うべきだろうか。
――それでも、愛だけは知らなかった。
知る必要が無かった。
きっと知る必要があれば、組織は男に愛を与えただろう。
愛を以て、人に仇なすことを組織が男に望んだなら。
組織が望んだのは暴虐だった。
男の躰が今のような鋼へとすげ替えられたのは、男が二十歳を超えた頃だった。
多国籍企業郡が世界を席巻し始め、世界構造の変革が進む頃のこと。
組織も生き残るのに必死だった。
資本の時代に有用性を示そうとするのは、人だけではなかった。
ある科学者が齎したものだった。
どこかの企業郡のどこかの研究所のお抱えだったのだろう。
きっと組織がとてつもない大金を用意したのだろう。
――――やはり、男は知らない。
眠り醒めれば嘗ては彼方にあって。もう戻ってこないことは男にもわかった。
だが、男に生身への執着はなかった。
あったのは、もうあの冷たさを感じる必要がないことへの感動だった。
凍獄は遠く、記憶の最果てを通り越したということに。
それからも男の日々は闇にあった。
……しかし。
その男でも、この無貌には恐怖に似た感情を抱かざるを得なかった。
――解らない。
復讐するべきは、あの白貌の
なのに、今眼の前に立ち塞がるこれは一体何なのだ。
男は狂乱の中にいた。
無機質な顔面に、それを押し込んでいた。
冷静と狂乱。相反する感情が男の内部に吹き荒れていた。
だからか。
機関銃、12.7mmの殺戮の旋風が無貌へ、狩人へ、ケンゴへと牙を剥く。
――我慢ならなかったのだ。
男は今、我慢するということを捨てていた。
組織が頭を失い、崩れ去ろうとしている中。男は復讐に駆られていたのだ。
彼にとって、組織とは父であり母だった。
それを無残に引き裂かれ、止める者を失った彼はようやく感情を得ていた。
――悲嘆。
――絶望。
何よりも深かったのは――殺意だ。
男は殺すということに殺意を持ったことがない。
彼にとって人も家畜も変わらないからだ。
組織に与えられた任を実行するのに殺意は不要だった。
今になって男は人に立ち戻っていた。
冷たいあの路地が、腐敗と汚泥の抱擁が男の後首に指腹をゆっくり這わせていた。
その幻触から逃れるために、男は殺意を強く意識する。
――だから殺意を迸れば、銃口は容易く唸った。
ケンゴ/狩人は自身を追う銃口から逃れるように真横に駆ける。
追従する弾丸はただ、地をえぐり、建造物に穴を開けていく。
薙ぐように、大雑把に。
ケンゴ/狩人は回避を意識する。
駆けて、疾走って――
陽の届かない低層特有の日中から点いている街灯は、隅々まで照らす程の出力がない。
だから、此処は薄暗い。
そこを駆ける黒影の彼を一瞬でも見失えば――。
鮮血が、多量の
――こうなる。
暗視や熱感知といった
神経系の
――――しかし、それは先まであった攻防で男も理解している。
銃弾では、この大雑把な機関銃で捉えられるタイプではないと分かっていた。
重く機械塊が床に落ちる。
男の右腕が肘から落とされたのだ。
ケンゴ/狩人の腕は、既に
目にも留まらぬはこのことだろう。
このまま行けば首が落とされる。
首が落とされても、魂を、思考能力を一片のチップに移乗した男は止まらないだろう。
頭にあるのは予備で囮だ。
だが、視界を失う。
男の
他の
斬り刻まれ、失意のままに鉄片へと成り果てるのは必定だった。
――空を貫くような風切りが鳴った。
躰で避けれる距離ではない。
首を横に倒していた。ケンゴ/狩人の横目に映ったのは何か細く、尖ったもの。
――斬り落とされた腕から伸びた
更に横から脇腹の方へ迫る圧――感知と同時にケンゴ/狩人は前に出た。
――――掌が空を掴む。
男の視線に驚愕が乗る。
懐、のまた懐。
加速が乗ったそれは男の躰を揺らし、確実に阻害した。
――男は、回避に移らざるを得なかった。
後へ跳ね、残った機関銃で牽制。体勢の悪いまま放つ為、出鱈目。
だが、距離を取るのには十分だった。
――さて、この男の武装だが些か派手ではないだろうか?
機関銃。12.7mm。それを二丁。
ああ、それは暴力的で対象を粉微塵にできるだろう。
確かに、彼の役割は殺戮にして暴虐――けれど同時に暗殺や誘拐も役割範囲だ。
誘拐なら当初の通り、これを隠せばいい。
――――銭湯に居たときのように。
そう。そういうことだ。
彼の腕は変形――否、変身する。
ごく自然に。元々、そうであったように。
機関銃から、既に腕に戻したそれを新たな姿へと変化。
――直後、男はケンゴ/狩人へと
絶叫めいて唸る片腕=
甲高い一振りを前にして、ケンゴは――
空を斬る絶叫は、そのまま地を砕く。
他連的に走る刃の圧で大気が荒ぶ。もうもうと吹き上がる砂煙。
怯まず、ケンゴは男の首を刈り取るように右横薙ぎ――火花、金属と金属が打ち合う音が高く鳴る。
男の片方、斬り落として空白にした筈のそこに出現していたのは
いつの間にか、落ちていた
――恐らく、自在に動かせる
――それで手繰り寄せ、
ケンゴ/狩人は
再び、睨み合い。
腕が再構築される。不完全だった腕の結合部も既に十全。
機を伺う。
開いた距離をどう縮めるか、それを互いに思考する。
一歩踏み出せば、ケンゴは詰められる。
二歩踏み出せば、男は詰められる。
先を取るか後を取るか。
先は、男が
なら次は――?
――直後、蛇の顎門が大きく開かれた。
男の反応は、それに追いつかない。
男の一歩は、ケンゴ/狩人にとっての二歩。
ケンゴ/狩人が先手を取ると決めた以上、それは許されない。
遅れて男が反応――やはり遅い。
脚に鋸歯が喰らいつく=表皮が抉られ、飛び散る赤。
痛みは無いが、確実に来る死に男の瞳に一抹の恐怖めいた感情が浮上する。
――その一抹の恐怖が、彼の死因となった。
釣られて、
そこに、ケンゴ/狩人が居た。
低い視点。這うような体勢の無貌の奥から見える瞳が、無機質な男の双眸と交錯。
――刹那、決着。
交錯の果て、男は力なく膝から崩れ落ちた。
血払い。
踵を返して、ケンゴ/狩人は男の元へ向かう。
カツリ、ブーツが路面を叩く。
男はゆっくりと身動ぎする。鋼の躰が言うことを効かなかった。
――ケンゴ/狩人との交錯によって、男の躰の隅々にある神経路が斬り裂かれていた。
偶然か、それとも狩人としての彼の本能が導いた必然か。
足音は死神のそれ。
男の死は足音が止んだ時に齎される。
カツリ、ブーツが路面を叩く。
焦燥が、男の無いはずの脳髄を焼いた。
男は死を直面して、回帰しようとしていた。
――戻っていく。
溢れていた殺意、絶望、悲嘆。
首筋に触れていた指腹が、喉仏に回されていた。
締め付けられていく。躰が動かない以上、引き剥がせない。
息が詰まる――呼吸などしていないのに。
凍獄が、無くなったはずの脳髄から黄泉帰ろうとしていた。
カツリ、ブーツが路面を叩く。
無貌と双眸が再び、交錯した。
死は、顔がなかった。
男の無機質な瞳に、感情の波が広がっていく。
間髪入れず、断頭台の刃は振り下ろされた――――。
――――殺す。
殺意が空間に迸った。
「ッ!!」
ケンゴ/狩人に驚愕が走る。
白刃取り。動かない筈の男の両腕が断頭の刃を空に抑えていた。
――割れる。
無機質な瞳に感情が広がっていた。
そう。
明確な死を前にした男は、凍獄の果てから鋼の躰を経て、今この時、本当の意味で人に成った。
そして、巨大に膨れ上がったのは――唯一つ、純粋な殺意。
そして、膨れ上がり、爆発した殺意の間欠泉が呼び起こすのは唯一つ。
――割れる。
男の頭が割れていく。
まるで羽化するように。
雛が、生まれいでるように。
テクスチャーが剥がれ落ちるように、一枚ずつ小さな欠片となって。
男の頭が罅割れていく。
その奥に、何かが見えた。
視認と同時、ケンゴ/狩人の腕に力が篭もる。
生まれる前に、
けれど、生まれ出る喜びに、生み落とす喜びに歪む男の瞳と口端が万力を、躰の駆動限界を凌駕した力を与える。
反射的にケンゴ/狩人の腕へ、躰へ力が篭もる。
しかし、悲しいかな。
その万力はケンゴ/狩人を凌駕していた。
前述した彼のスタイル――速度。今はまだ、彼にはそれだけしかなく。
これを止める術をケンゴ/狩人は持たなかった。
割れた――。
――本能のままに
――発狂/羽化――。
路面が無残無残と砕け散り、散らばった死骸達は奇っ怪な悲鳴を上げて四散。跡はクレーターと化す。
ケンゴ/狩人は衝撃波に煽られ、吹き飛んだ。
空で回転、体勢制御の末、なんとか膝と腰を曲げて中腰で着地。
視線の先。吹き荒れた精神波動が収束。羽化したソレがその姿を見せた。
端的に言うならば――やはり、異形。
人の卵を破っていでるものには、大きく、大きく翼を広げた。
鋼の刃が幾重も重なったような風であった。それが一対、しゃらんと鳴る。
それに挟まれるようにしてあるのは――傷んだ金髪の少年。
真っ黒な、白が欠片もない双眸を裂けんばかり広げた少年。
矮躯には、胸にしろ脚にしろ薄皮一枚しか無いかのように肉が無く、夏を迎えたというのに酷く寒々しい印象があった。
だから、ぽっこりと大きく出た腹が目立っていた。
翼を広げた後、
「ピーピーガー」
異形の少年はカサついた唇をゆっくり広げて。
「ガーピーガガーガー」
そう、
機械的で前時代的な音。いや、鳴き声なのかもしれない。
異形の鳴き声は止まない。不気味に音は反響する。
羽撃こうとしていないのを見た限り、それは飛ぶということを知らないのか、それとも飛べないのか。
そう、目や翼を大きく広げ、声を上げる様は何かを求めるような。雛鳥が、親鳥を呼ぶような様。
つまり、それは誰かを呼ぶ動作――。
――いや、違う。
ケンゴ/狩人/■■は動作の意味に気づいた。
あれは呼んでいるのではない、
接敵は一瞬。
繋げさせない。
ケンゴ/狩人は、異形が何処に繋がろうとしているのかは理解していない。
理解を先置いて、刃は空走る。
真っ黒な瞳に刃が反射して――背中が映った。
刹那、ケンゴ/狩人の躰は壁に叩き込まれていた。
衝撃と痛みと現実がケンゴ/狩人の脳へほぼ同時に叩き込まれた。
視界がブラックアウト。遅れてきた痛みが視界を逆に広げた。
世界が明滅する。
――追いきれなかった。
全身に突き刺さる瓦礫片、背中から広がる鈍痛。
味わっている場合ではない。
思い切り両腕で瓦礫を突いて、空へ――ケンゴ/狩人の居た場所に細脚が突き刺さる。
粉砕――冷や汗が額に浮かび――目が合う。
ケンゴ/狩人を異形は見ていた。その真っ黒な瞳がじっと逸らすこと無く。
まずい――思った矢先、異形の姿が霞んだ。
視界の不良ではない。
実際にそこから消えていた。残像が異形の後を追った為、滲んだように見えたのだ。
後はもう、直感が冴えたとしか言いようがなかった。
切り払う。
二撃、三撃、四撃――数えるのが馬鹿らしい程。
着地の頃には、ケンゴ/狩人は息を荒く吐いていた。
伝う汗は熱く、躰の火照りは確かな体力の摩耗を嫌でも感じさせた。
全力機動。
足場の無いそこで行われた刹那は、ケンゴ/狩人に恒常的な全力駆動を強いていた。
音もなく降り立つ異形。
その姿は生まれ落ちたときから変わりはない。
摩耗は欠片も見えない。
黒々と光る瞳は今も何処かを視ている。
小さな口からは未だ、あの奇っ怪な音は溢れ続けていた。
止めなければならない――焦燥が脳髄を焼く。
――訳がわからない。
脳裏に渦を巻くのは、理解不能。
唯の異形でないのは分かっている。
確かに、あの瞳は黒く殺意に濁っている。
異民を呼び込み、結びつくほどの殺意。尋常ではない。
だが、他の異形と違って欲望や願望だけに引き摺られていない。
何か指向性があった。
人為的なものをケンゴ/狩人は感じていた。
そして、この感情は誰のものだ。
それもまた、彼に渦巻く理解不能の一つ。
だが、考察する時間はケンゴ/狩人にはなかった。
こちらの都合など知ったものかとばかりに異形は地を蹴る。
その加速はもう影としか認識ができない。
ならば。追いつけないのならば、それ相応の対処をすればいい
じゃらりと蛇腹剣を展開――身に纏う。
纏うというのは、刃が彼の体のすぐ側を満遍なく刃が覆うということ。
これは盾だ。
この刃は、弾丸や光を斬る。斬り捨てられる。
あの人を人と思わない壮絶な砲撃をも斬り捨てたのだ。
これにだって対応できる。
そう、彼は慢心した。
――瞬間。刃、圧砕。
ありえないと彼は桜吹雪が如く散る残骸雨の中、目を見開いた。
……彼は知らなかった
狩人の合一化を、完全なる殺戮機関に成り果てていない彼には知らぬことだった。
いや、それを経たとしても知らぬだろう。
人の手を以て人界に生み落とされた狂気そのもの。
人が異形を真似て、手近にあるものを持って生み出したもの。
彼ら被験者もそんなことは知らないだろう。
それは今、異形となった。
新種の異形。
その猛威は、狩人も知り得ぬことだった。
ただ、■■だけは知っていた。
だが、声は届かず。
それは見ているしかできない。
破片散る中、異形は邪悪に嗤った。
響く哄笑。
今この瞬間、明確に立場が入れ替わったことを示していた。
殺意の極点、それは振り上げられた細脚にある。
凝縮された殺意は、雷鳴の如き轟音を上げ、暴威となり世界を砕いた――。
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