第65話・結婚破棄

 以前は、アキのフロアの内部を見せてほしいと言い出せる雰囲気ではなかったが、あの口づけのあと、一度だけ見せてもらった。


 ホールの左手は書庫で、アキとラセンが集めた重要な書籍や膨大な記録が整然と収められている。こちらは私も入ったことがある。


 その右手にある居住空間に初めて足を踏み入れた。

 ラセンはおらず、大きな白い両扉はアキ本人が開けた。ふたりきりだった。


 内部は、絵画がいくつもかけられたいわゆる古典的な宮殿と高級ホテルのスイートルームが融合している印象を受けた。


 壁側は五階と同様に金に塗られた木の柱と紺色の漆喰の壁に金縁の絵がかかったり、弧がクロスした天井には物語が肉筆で描かれている。


 大理石のタイルの通路を挟んだ窓側は近代的で、外に面した壁は床から天井までガラスになっており、それがフロアの奥まで一枚のまま続いている。


 こちらは部屋ではなく空間をゆるくパーテーションで区切り、通路に対してオープンで、スペースごとに、広いリビングを作ったり、リラックスするための一人用の長いソファがあったり、軽食を取るテーブルと椅子があったりする。


 壁側の古典的な部屋は思ったよりも明るい。

 光に満たされた通路の明かりを、壁にさり気なく装飾のように作られた縦長の窓から取り入れているからだ。

 ゆったりとした広さのバスルームやシャワールームもこちら側にある。


 ベッドルームも古典的なサイドにあり、落ち着いた深緑の壁の部屋だった。

 クイーンサイズのベットのカバーはそれよりも明るいグリーンだ。草花の模様が同じ色で織り込まれている。


 アキは私から離れ、通路に立ったので、余計に顔が熱くなり、少し覗いただけですぐあとにした。


 だが、我にかえって、心が冷えた。


 はじめは私の魔力を利用するために褥(しとね)を分けられることを屈辱に感じたが、それゆえ醜い傷のあることを知られることはないと自分の置かれた状況を納得させてきた。


 だが、今のアキは私を魔力を利用するためだけにそばに置いている訳ではなく、私にはあの女につけられた醜い傷があることも知っている。


 ふたつの障害がなくなったことで、私はさらに苦しむことになった。


 アキを愛している。


 アキがこの体につけられた醜い傷、正確に言えば言葉の意味まで理解しているのかはわからない。それを問う勇気はない。


 仮にアキがその意味を知らなかったとして――。


 私は愛する人におぞましい秘密を持たねばならない。それに耐えられるだろうか。


 なにより、私を抱くことでアキまで汚れることになる。


 アキを愛するほど、決して抱かれてはいけないと必死になるのだ。


 なんと重い十字架を私に背負わせたのだろう、愛流は。






 エレベーターを降りると、ホールから居住空間へ入る両扉が無人のまま開いていた。


 入るか引き返すかで迷ったが、せっかく作ったスープなので、片手をトレーから放し、ノックして中へ入った。


 今回はアキだけではなくラセンも一緒におり、後ろめたい気持ちになることもない。


 フロアを貫く大理石の通路を進んで姿を探す。すると、下半身をバスタオルで巻いただけのアキが別のタオルで短く整えた髪を拭きながら、すぐ先にある壁側のシャワールームから出てきた。


 私に気づかぬまま、ラセンが奥のクローゼットを開けて身につけるべき清潔なシャツを選ぶのに体を向ける。


 背中を見せた。


 私の手から力が抜け、滑り落ちたトレーが床に打ちつけられる。


 薄いスープの皿が大きな音で割れた。


 ふたりが気づき、こちらを見た。


 私は呼吸に苦しんで息を大きくした。


「昨日、帰らなかったのは……。愛琉を抱いていたから……?」


 何かの間違いだと思った。


「嘘でしょ……?」


 アキはいったん目をそらしたが、また私に視線を戻した。


「なぜ、わかった?」


「背中に、“愛琉”って漢字が爪跡で書かれている」


 アキは観念し、すこし笑う。


「愛琉、この世界に来たんだ……」


「憂理」


 なだめようと私へ一歩、足を踏み出す。

 私は退(ひ)く。


「異世界から来た女だと知って抱いたんでしょ? 私が復讐したい女だとわかったんでしょ? 私の体を誰にも愛されない醜いものにした女、私のプライドをズタズタにして絶対に復讐すると決めていた女なのに、私の仇なのに、どうして……?」


 私の頬を涙が伝い、震える声はだんだん大きくなってアキを責めた。


「どうして私を裏切ったの……!?」


 アキは白けている。


「お前を愛していると言ったことを本気にしていたのか。私は強い魔力をもつことでお前を利用していただけだ。その魔力が通用しなくなった今、お前は不要になった。だが、私は皇帝になることをあきらめていない。皇帝にはべるあの女から、そのために必要な情報を聞くことにした。即位した暁には妃にすると約束し、指輪を渡した。価値がある女だ。快楽も得られる」


 私は胸が張り裂けそうになり、さらに数歩あとずさった。


 アキの左手に金の指輪はもうない。


 私も左手の薬指から指輪を抜く。


 それを床に叩きつけ、目の前にいる知らない男に返した。





 <続く>

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