第102話 生死分かつ一線
【前回までのあらすじ】
西池袋市街を駆ける阿邪尓那媛。栲猪の危機に彼女はついに迷いを捨て、何を置いても彼の力となるとの決意を固める。
しかし、戦場はその決意をあざ笑うかのごとく、非情な現実を彼女に突き付けるのだった。
栲猪と我捨、妖同士の死闘に決着の時が訪れる――――!?
◇◇◇
――――空気を裂く鋭い音と、それに続く衝撃。宙を舞うのは砕かれたアスファルトの黒々とした破片に、その下から巻き上がる目の荒い土煙。
「クソ、コイツは少し……いや、割とマジで不味いんじゃあーねェのか!?」
その煙の中から、誰にともなくぼやきながら転がり出たのは……ひとりの若い男。裸の上半身は細かい生傷と
「でかい図体のクセに、速いッ!
言い終える間もなく、男は跳躍する。すると一瞬の後、細身の身体があった場所は細かい棘を生やした槍とも
「死角も! 隙も無えッ! これなら人の姿の時のほうがずっとマシだったぜーッ!」
ひび割れたアスファルトの路面を無様に跳ねながら、男は――――【がしゃ
……一対一の死闘が始まってから、わずかに数分。巨大な蜘蛛の正体を現した
人間の姿に変化していた時から驚異的な運動能力を誇っていた栲猪。しかし、さすがに数十倍以上の体躯に巨大化してしまえばその機動力も衰えるのではないか?
我捨がそう考えたのも無理はない。実際に、栲猪は先程までのような糸による機動を行わなくなった。妖力で生み出した蜘蛛の糸とて、あの巨体をぶら下げるには無理があるようだ。
たとえ糸の強度・粘着力が足りたとしても、支えるべき根元が持たない。自然石の岩盤と異なり、コンクリートの壁面は簡単に
しかし、栲猪にはそれを差し引いても充分な……いや、過分なまでの運動性が備わっていた。八本の脚を巧みに操ることで、巨体に似合わぬ俊敏な動作を可能にしているのだ。
それが彼の恐ろしい程に積み重ねられた戦闘経験と相まって、まるで背中に目があるかのような無駄も油断も隙も無い立ち回りを見せている。
考えてみれば、変化した姿であれだけの手練を見せる栲猪である。それが本来の姿での修練を怠っているはずは無い。
現により小さく小回りの利くはずの我捨が一方的に振り回されているのは、単純なスピードでは測れない地力の差が表れた結果と言えるだろう。
「畜生! 速いだけならまだしもパワーに至っちゃ数段上。一発でも喰らえばこっちは致命傷なんだぜ! 割に合わないったらねェ!」
我捨の主な武器である肩口から生えた骨腕も、今は左側の一本だけとなっていた。先程強引に仕掛けた際にねじ切られたのだ。
もちろん、妖力を用いて再生することはたやすい。しかし我捨はあえてそれをしなかった。
理由は二つ。再生したところで大して状況は好転しないだろう事と……“奥の手”の維持が次第に厳しくなってきたためである。
――――奥の手。それはこの戦闘中、我捨がその手の中で練り上げていた妖力の塊の事である。
絶大な威力を持つが故に、準備に大量の妖力と時間を要する術。それでいて、スタンバイ状態で長時間維持する事もできない……要は使いどころが難しい
術が完成するまで軽く時間を稼ぎ、準備完了と共に一発で決めるのが我捨の当初のプラン。だが、実際はその準備が終わった後も……彼は栲猪に近づけずにいた。
この術には威力を追及した結果、効果範囲が心もとないという欠点がある。それでも人ひとり程度のサイズなら余裕ではあるのだが、今の巨大化した標的相手にはいささか不十分と言わざるをえない。
うっかり急所を外しでもしたら、それは目も当てられない結果になる……性質上、この術に二発目はあり得ないのだ。
「クソ……早くブチ込んで楽になりてーのによォ!」
そしてこの術を維持し続けることは、すなわち彼自身の命を削ることに等しい。すでに完成し臨界状態にある妖力の塊は掌の皮膚を焼き、肉を焦がし、さらにその奥までもを
限界まで、あと数分もない。それを越えてしまえば、我捨には勝利も生存の目すらも無くなることだろう。
「へへ、絶体絶命……って今日何度目だァ? 厄日にも程があるってモンだろうに!」
しかし。降り注ぐ豪雨のような攻撃を懸命に避けつつも、妖の男が前進を止めることはない。このままでは手詰まりであると知りつつも、
……奇妙な『確信』が、彼を突き動かしていた。
それは我捨が、今の人間の
「これ以上は間違いなく死ぬ」という一線が、感覚的に理解できるのだ。
元来死霊、怨霊の類いである【がしゃ髑髏】。自身の生死に
以来、どんな窮地においても彼は生還し続けた。それは【憑依】を果たす事によって得た絶大な妖力のおかげでもあるが、力でどうにもならない状況を的確に回避する事が……迷いなく逃げに徹する判断を下せてきたのが大きかったのだ。
――――死の一線を見極める力。裏を返せば、
「まだだ……まだここは"死線"じゃねえ。限界ギリギリまで粘ってやるぜッ!」
とは言えその限界も近い。我捨が勝利するためには、地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸のごとき、か細い勝機を引き寄せなければならない。
ならないが、しかし……それを掴めるとは、そもそもそんな勝機があるのかすら定かではないのが現実だ。
いまだ"死線"は見えてこない。自身の直感に絶対の自信を持つ我捨ではあったが、今回ばかりは流石にそろそろ疑わしく思えてくる。
「……まあ、ツイてねえ日ってのは有るしな。だいたい蜘蛛相手に蜘蛛の糸を期待するってのにそもそも無理が――――」
だが、転機は唐突にやってきた。
この戦場に向かって、近づいてくる者がいる。それを伝えたのは音でも気配でもなく、我捨が持つ【がしゃ髑髏】の生命感知能力だ。戦闘中であっても、特に高速で接近してくる存在に対しては鋭敏に働くのだ。
――――こんな場所に近づこうなんて奴は、術者か妖くらい……四方院の娘か? いや、これはあいつの"色"じゃねえし方向も逆だ。他の術者ってのも無えな……ヤツ等にそんな余裕はない筈だ。
池袋を襲う怪異の中心、それは東池袋のあの六十階ビルに他ならない。ただでさえ事態が切迫している今、中心地を外れたここに応援の術者が来る可能性は低いだろう。
ましてや、四方院樹希は現状最強の霊装術者なのだ。むしろ術者たちは早く切り上げてこっちに来て欲しいと願っているのではないか?
「あの気取ったお嬢様が『助けて』とでも言えば別だろうが……ハハっ、それも無えか」
そうなると、残る可能性は……妖。先程置き去りにした
――――妖気は抑えているようだが、速いな。どうやらもう……迷いはねえようだ。
思考が進むにつれ、我捨の口角は次第に吊り上がり、それは笑みを……邪悪そのものを想起させるような
――――いいぜ、来い。さしずめ
ぎざぎざの歯をむき出しにした笑みを巧みに隠しつつ、我捨は栲猪へと跳躍する。今までのように隙を狙うのではなく、誘導するための動き。
来客を出迎えるための最適なポジションに、自身と相手を入れておくためだ……無論、そうと悟られぬように。
――――アイツが来るのは、当然栲猪のヤツの加勢に入る為だ。こちらの味方をしてくれる程、親交を深めたつもりは毛頭無いからな。
栲猪はまだ、阿邪尓那媛の接近に気付いていない。巨大になった身体が巻き起こす騒音が、建物の裏から響く足音をかき消している所為か。
薙ぎ払う蜘蛛の脚の軌道から逃れつつ、我捨は再び大きく距離を取る。
「これで準備は――――整った!」
顔を上げ、まっすぐに栲猪と目を合わせる。このとき初めて、栲猪は我捨が「笑って」いる事に気付いた。
そして、その掌に……
「栲猪イィ! これが俺様の切り札だ! よけられるモンならよけてみやがれェーッ!!」
右手を高く掲げ、我捨が
「何……だと!?」
栲猪には、我捨の意図が解らなかった――――当然、何か奥の手を隠しているのは読んでいたし、今までの攻防がそれを当てるための隙を探してのものだった事も、彼は理解している。
だからこそ、解らないのだ。ずっと隠していた切り札をあっさり明かした事が……それこそ必殺の瞬間まで存在を隠し通すべきものを、何故あんな間合いの外で見せたのかが。
遠間で使えない術だからこそ、必死にこちらの懐を狙っていたのではなかったのか?
「追い詰められての無謀な特攻か。我等の戦いにこんな愚かな結末を望むとは……失望したぞ、【がしゃ髑髏】の我捨!」
しかし、不意に耳に飛び込んできた足音が……すべての疑問に一瞬で決着を付けていた。
「栲猪殿ッ!」
我捨との間に、割って入るように飛び込んできた人影。それを見た時、栲猪の眼には終幕までの棋譜がハッキリと映っていた。
己の命運が尽き果てる音を、栲猪は確かに聞いたのだ――――――――。
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