第100話 想い、彼方に馳せて

【前回までのあらすじ】


 裏切りの妖・栲猪に樹希の秘術が炸裂した。響き渡る轟音と衝撃……しかし駆け付けた我捨の前で、栲猪はその正体である巨大な蜘蛛の姿を現すのだった。

 深い傷を負ってなお戦意衰えぬ強敵に対し、我捨もまた震い立つ。


 一触即発の西池袋市街。その激突の地を目指すひとつの影があった。

 苦悩を抱え走る、その者の名は――――!



◇◇◇



 ――――女は、走っていた。走っている筈であった。だが踏み出す足は鉛のように重く、彼女が本来出せる速さの半分にも至らない。


「何故だ……何故、どうして私はッ!」


 黒一色に白いラインが入っただけの古風なセーラー服に身を包んだ、長い黒髪の女。とは言え、学生服の下にあるはち切れんばかりの豊満な肉体は明らかに成熟した女性のものであり、本来この服を着るような年頃の娘にはそぐわない色気をかもし出している。


 漆黒の装いに映える白磁のような顔。鮮やかな朱が差された目元、口元。多少の違和感はあれど……それを指摘するのは野暮であると思える程、美しい女。


「何を躊躇ためらう……何を迷う!? やるべき事など、とうに決まっていただろう!」


 しかし美しいはずの顔は苦悩に青ざめ、唇からは己を責める言葉がとめどなく溢れ出す。すべてが終わる前に、戦場へ……今も激しい闘いが続いているだろうそこへ、行かねばならない。脅迫じみた使命感だけが、彼女を走らせていた。 


「決着はこの手で着けると……その覚悟は、出来ていた筈なのにッ!」


 ――――女の名は、阿邪尓那媛アザニナヒメ。彼女の使命は同じ土蜘蛛一族の裏切り者、栲猪タクシシを討つ事。


 けれど、彼女は……


「どうしてなのだ、栲猪殿……何故、何も語って下さらぬ。私の事を、まだあの頃のような若輩者だと思っておられるのか――――!」


 重い足取りと裏腹に、想いだけがはやる。

 その阿邪尓那媛の脳裏には、幼い日に見た面影が……一族最古参の将として立つ、かつての栲猪の姿がよみがえっていた――――。



◇◇◇


 ――――それは今より、ちょうど十年程前の出来事であった。


「……はっ! とう! せいっ!」


 早朝の霧深い山中に、鋭い掛け声が響く。


「どうした。我に拳を当てるなら、今以上に深く踏み込まねばな!」


「はっ、はい!」


 道着をまとった少女が、自分の倍ほどの背丈の男に果敢に挑んでいた。繰り出される拳も、蹴りも、彼女のような歳の子供が放つものとは思えぬ程にはやい。


「えいっ! りゃあっ!」


 しかし、その猛攻を男は涼しい顔で受け流していた。よく見れば、その足は一歩もその場を動いていない。男は上体だけで、少女の苛烈な攻めを凌いでいるのだ。


 親と子程……いやそれ以上の年齢差を考慮してもなお、男の技量は相当の極みに達していると言えるだろう。


「これで全力か? その程度では先代の【阿邪尓那媛】に遠く及ばぬぞ!」


「くっ……うりゃあ!」


 焦った少女の大振りの一撃を、男は軽く手首をひねって受け流す。すると少女の身体は勢いのままふわりと宙を舞い、一回転して背中から地面に叩き付けられた。


「かはっ! ま、参りました……」


「フフ、心の動揺がそのまま技に表れておる。阿邪尓那アザニナよ、まだまだ精進が足りぬな」


 大の字にのびてぜえぜえと荒く息をつく少女。それを見下ろす初老の男こそ、土蜘蛛八将の一角にして歴戦の武人、栲猪であった。


「……とは言え、子供には少々厳しい修行だ。立てるか?」


 いまだ起き上がれぬ少女に手を差し伸べる男。深いしわが刻まれたおもては厳しくも穏やかだ。


 だが……阿邪尓那と呼ばれた少女は目の前に差し出された掌を見るなり、顔を真っ赤にしてはね起きる。


「そ、それには及びません栲猪どの! 私のごとき若輩に直々に稽古をつけていただき……こ、光栄であります!」


 栲猪は数々の戦を生き抜いてきた一族屈指の強者。彼女のような若い土蜘蛛にとっては雲の上の存在だ。その手を取るなど、恐れ多いにも程がある。

 彼女が土蜘蛛八将の名を……【阿邪尓那媛】の名を継ぐ者でなかったら、稽古どころか口を聞く事すら叶わなかったかも知れないのだ。

  

「そういつまでもかしこまることは無い。若い衆に技を伝えるのは先達の務めというものよ。特に【代替わり】を終えて間もないお前には、早く将の名に相応しい力を身に付けて貰いたいからな」



 ――――【代替わり】。それは、限られたあやかしだけが持つ極めて特殊な能力のひとつである。


 基本、妖には人間のように決まった寿命というものが存在しない。成長することはあれど、老化することはないのだ。

 彼等は何十年、何百年の時を生き続け……その年月に応じて妖力を高め、より強大な存在へと己自身を進化させていく。


 しかし、そんな彼等とて死と無縁ではない。歳を経て力を得た者ほど、それを脅威と見なした人間達によって討伐される危険も増すからだ。


 さすがの妖とて、殺されれば死ぬ。昨今ではそれに加え、環境破壊等によって住処を追われ……生命を維持するのに最低限の霊力を得られず枯死する者も多くなった。


 限りなく永遠に近い命を持ちながら、遥かに短い寿命の人間に追われ数を減らし続けていく。皮肉にも、それが妖の現状であった。


 だが、腐っても【妖】である。超常の妖力を持つ彼等にとっては、死さえも絶対とは限らない。それを如実にょじつに表しているのがこの【代替わり】なのだ。


 ……死した妖の名と力を、新たに生まれた妖が引き継ぐ――――言わば同種内での輪廻転生。過去に討伐されたはずの妖怪が現代においても度々目撃されているのは、この【代替わり】による怪異なのだろう。


 その生において得た力を、次代に託す……妖がこの二十一世紀まで生き残り、人類との抗争を続けていられる理由の一端はそこにあった。


 倒そうと、またいつかよみがえる――――その理不尽こそが、妖という存在の根源的な恐怖に繋がっているのだ。


「【代替わり】ですか……正直、私にはまだ実感がないのです。こんな私が、栲猪どのと同じ八将のひとりだなんて」


 少女が阿邪尓那媛の【代替わり】と認められたのはつい先日のことだ。

 【代替わり】が発現する時期には個人差があり、産まれた時点でそれと分かる場合もあれば、彼女のようにある程度成長してから力が目覚める事もある。


「たしかに妖力ちからは増しました。けれど、使いこなせているとはとても……栲猪殿のおっしゃる通り、まだまだ先代には遠く及びませんよね」


 がっくりと肩を落とす少女。【代替わり】と言っても、すべてを受け継ぐ訳ではない。名と妖力以外は、風貌や大まかな気性程度がいいところ……先代の記憶も人格も、今の阿邪尓那媛にとっては聞かされた知識以上のものではないのだ。


「そう気を落とすな。受け継いだ力に身体の成長が追い付いていないだけだ。いずれ先代の妖力はお前の身体に馴染み、完全なものとなるだろう……それまでは地道に体術の研鑽けんさんに励み、戦いの勘を養うことに注力すれば良い」


 年の功であろうか。栲猪はその戦働いくさばたらきだけでなく、後進への指導にも長けていた。ここ数百年程の間にも幾多の土蜘蛛が彼の元で学び、一人前の戦士となっていったのだ。


 現在の八将に至っても、その半分は彼の弟子である。土蜘蛛一族にとって、栲猪の存在はまさしく屋台骨に等しいものだった。


「……あの、栲猪どの」


 そんな老武人に、少女は思い切って声を掛けた。ここしばらくの修行で、老武人の気性や距離感が分かってきたのもある。

 折角の機会なのだし、と……彼女は以前から聞きたくても聞けなかった質問をぶつけてみる事にしたのだ。


「何だ? 容赦してくれという話ならば、聞けぬぞ」


「いえ、その……あの、先代の【阿邪尓那媛】って、どのような方だったのですか?」


 それは、新たにその名を継いだ彼女にとってもっとも知りたい事であった。【代替わり】の儀式の際に教えられたのは、歴代の阿邪尓那媛が務めた役割等の極めて断片的な情報に過ぎず、それだけでは先代がどのような妖であったかまでは分からない。


 誰かに聞こうにも、彼女の周囲にそれを知る者は居なかった。土蜘蛛の中には、先の大夜行以前からの生き残りはほとんど残っていなかったからだ。


 先代阿邪尓那媛をはじめ、八将の半数までもが討たれた激しい戦……その時代を知る者とこうして二人きりになる機会は、今後もそうそうあるものではないだろう。


「同じ八将であった栲猪どのなら、当然知っておられますよね? 受け継いだ名にふさわしい妖に近づくために、ぜひご教授願いたいのです!」


 ――――「そうか、ならば教えてやろう」と快く、もしくは「何故、そんな事を知りたい?」と逆に問われるか。

 しかし、栲猪の答えは……少女が予期せぬものであった。


「…………」


 それは、沈黙。彼女の問いを聞いた途端、老武人は天を仰いだ姿のまま凍り付いたように動きを止めた。

 身長差と角度のせいで、その表情は伺い知れない。


 自分は何か、言ってはいけない事を言ってしまったのか? 知る限り、栲猪が少女の問いにこのような反応を見せたのは初めてだ。


「栲猪……どの?」


 息が詰まるような長い沈黙に耐えられず、少女が遠慮がちに声を掛けた時。


「……済まぬな。少し、余計な事まで思い出してしまったようだ」


 そう言って向き直った彼の顔は、いつもと変わらぬ穏やかな笑みをたたえているように見えた。


「先代の阿邪尓那媛か……無論、知っておるとも。先代もその前も、更に前の代の者までも。八将に限らず、今迄散っていった一族の……数多あまたの戦士達の事もな」


 しかし、その眼は笑ってはいなかった。少女に向けられた双眸そうぼうは、遥か彼方……ここではない、どこか遠くを映しているようだった。


「彼等の名も、顔も声も……我は覚えている。ああ、忘れることなど出来はしないとも。この命尽き果てるその日まで、きっと――――」



 嚙み締めるように語る、男の横顔。そこには、刻まれた皺よりも遥かに深い哀しみが満ちていたように、少女には思えたのだ…………。

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