第97話 未完の秘術
【前回までのあらすじ】
裏切りの妖・栲猪の恐るべき強さを前に、やむを得ず共同戦線を張る樹希と我捨。
しかし必殺の雷術の直撃も、宝具【火鼠の皮衣】によって阻まれてしまう。
この状況を覆すには、我捨が持つという切り札に賭けるしかない。釈然としない思いを抱きつつも、樹希は栲猪を追って罠の待つビルの谷間を行く。
何としても栲猪にダメージを与え、我捨の待つ地上に叩き落とさなければならないのだから――――!
◇◇◇
――――漆黒の翼がはためき、冷気を帯び始めた昼下がりの空気を切り裂いていく。
「……
今や一面の暗雲に覆われた空の下。わたし……四方院樹希は
「まったく、簡単に言ってくれるわ……普通に一撃当てるだけでも一苦労だってのに!」
速度を上げ追いつきたいのは山々だが、そう簡単にはいかない。先ほどから奴が逃げる先――――ビルとビルとの間に、幾本もの細い粘着性の糸がランダムに張り巡らされているためだ。
恐らくは今のこの状況を予測し、事前に仕掛けて置いたものなのだろう……栲猪はその間を器用にすり抜けて進んでいく。
それも糸を避けているという動きの違和感を一切感じさせずに、である。こちらとギリギリつかず離れずの距離を保っているのも、わたしが糸に引っ掛かった際いつでも逆襲に転じられる様にだ。
追いかけているつもりが、逆にじわじわと追い詰められている。
今、窮地にさらされているだろう灯夜たち……時間稼ぎを続ける栲猪を倒さない限り、彼らを助けには向かえないのだから……!
『どうなされるおつもりですか、お嬢様。糸を
……そう。雷華の言う通り、四方院の誇る攻撃雷術の大半は栲猪のまとう宝具【火鼠の皮衣】によって無力化されてしまう。
唯一、衝撃特化の
『かと言って通常の打撃では論外。あの速さの相手に空中で連撃を当てるのは無理がありますし、何よりあの受けの技を使われては打つ手無しです』
先程、我捨の攻撃をはね返した回し受け。あれがまた厄介だ。必殺を狙う重い一撃ほど、容易に反応され受け流されるのは必至だろう。
「……まさに完全無欠ね。術も打撃も効かないんじゃ、倒しようがないわ」
恐るべし、土蜘蛛の将……考えれば考えるほどに、こちらの手札の頼りなさを思い知らされる。
『先刻我捨の指摘した通り、栲猪には【
「“
手持ちのカードを組み合わせて打てる手は、これが限界。『人生は配られたカードで勝負するしかない』という言葉があるが、そんな運命に
「となれば…次のカードを引くだけの話よ!」
新しい手札を、引き加える――――それはすなわち、今までにない戦術を即興で実戦投入することだ。
『お嬢様、まさか!』
「……使うわ。“
――――四方院家に伝わる雷術、【
衝撃特化の鳴雷をはじめ、閃光特化の
他七種の雷術と異なり、黒雷が対象とするのは術者の肉体そのもの。全身の神経に限界まで大電流を流すことで、身体能力及びその反応速度を爆発的に向上させる事ができるのだ。
「黒雷の身体強化があれば、わたしでも栲猪の反応を超えるスピードが出せるわ。それなら例の回し受けも使えないはずよ」
『ですが、あの術は……』
雷華の思念が言いよどむ。想像した通りの反応だ……彼女の言いたい事も分かっている。
「ええ。わたしはまだ黒雷を完全に会得できていない。使いこなせるとはお世辞にも言えないレベルよ……そんな事、このわたしが一番よく分かっているわ」
身体強化と一言に言っても、実際にはそう簡単な話ではない。仮に今脚力が数倍になったとして、それで数倍速く走れるのか――――答えはノーだ。突然増大した力に感覚がついてゆけず、数歩と持たずに転倒するのがオチである。
身近な物で例えるなら、最新のスマートフォンをガラケーのチップに制御させるようなもの。体がいくら強化されたところで、それをコントロールするのが生身の精神である以上……爆発的に向上したスペックに対応するのは容易い事ではないのだ。
これこそが、黒雷が【ハ雷】最高難度の術と呼ばれた
四方院の長い歴史の中でも、この術を真に使いこなした者は両手の指の数にも満たない。黒雷とは……そういう術なのだ。
「だからこそ、今まで黒雷を使うシチュエーションは想定に入れてこなかった。あれを使っていられるのは数挙動がいいところ……そこから先は制御不能なのだから。姉様のように、何でも器用にとはいかないものね」
『お嬢様……』
わたしは、きつく唇を嚙み締めた――――けれど、今はそれに賭けるしかない。先代の巫女ほどの才に恵まれていないわたしでも、わずか数挙動の間ならあの高みに近づける。あの閃光のようにまぶしく、そして遠い背中へと……
「必要なのはただ一撃。今はその後の事を考えている時じゃないわ。妖のための御膳立てに全力なんて、正直
黒雷での攻撃の後、わたしはしばらく無防備な状態に
「しくじって
そうと決めれば、ためらう必要はない。わたしは黒翼で風を切り、一気に栲猪との距離を詰めにかかった。
……速度が上がれば当然、今まで余裕を持って見切れていた糸に引っ掛かるリスクも上がる。それでも二本、三本とかわしてぐんぐんと
「しまった!」
そう上手く事は運ばないと言わんばかりに、現れた横糸が黒翼を捕らえた。わたしの体は栲猪に届く寸前で見る間に減速し、強靭な糸の張力で反対方向に引き戻される。
引っ張られるままにビルの谷間を往復するうち、さらに数本の糸を巻き込んで……わたしはあっという間に黒翼をまとった
「……
それを待っていたように栲猪が反転し、ぶら下がる糸を切り替えつつこちらに迫る。
「来たわね、
――――けれど、待ち構えていたのはこちらも同じ。
「雷華!」
『了!』
瞬時にして、わたしを縛っていた糸の感覚が消えた。獣身通・虎鶫が解除され、黒翼が消失したためだ――――糸の罠に引っ掛かったのは、元より栲猪をこちらの間合いにおびき出す為。
わたしはその為あえて、黒翼にくるまる様にして糸を受けた……糸が翼にだけ張り付くように、細心の注意を払って。
「ほう、なら次はどう出る!」
しかし、
片足を突き出し、わたしを射抜かんと矢のごとく突っ込んで来る。
――――それもまた、狙い通りよ!
「四方院の雷術を……
薄暗いコンクリートジャングルが、まばゆいばかりの電光に満たされる。閃光特化雷術“若雷”――――いかに【火鼠の皮衣】と言えど、この光までは無効化できまい。
「むっ!」
しかし流石は古強者。光が炸裂する刹那、わたしは咄嗟に眼を覆う栲猪の姿を捉えていた。
『それでも、充分な隙は作れましたね』
そう。わたしの狙いはただの目くらましではない。威力は微弱ながらも、広い範囲に影響を及ぼすのが若雷の特徴。そしてその微力でも……
「何っ、我の糸が!」
……細い蜘蛛糸を焼き切るのに、不足はないのだ。
「直接攻撃だけが……雷術じゃないって事よ!」
自らを支えていた糸を失い、落ちていく栲猪。とは言え、このままおとなしく墜落してくれるような相手ではない。おそらくは数秒とかけずに態勢を立て直し、また糸を放って難を逃れるだろう。
――――ここから先は、新たなカードの引き次第。
わたしは体をよじって近くのビルの壁に取り付くと、肺の奥までひやりとした空気を満たしてから……唱える。
未だ完成に至らぬ、その術の
「四方院の名に
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