第二部 ようこそ! 天御神楽の園へ
第1話 白い闇の中で
季節が弥生から卯月に移ろうとする、初春の夜。我は久方振りに人里近くまで出向く事になった。
理由はひとつ。ある男の求めに応じる為だ。供をひとり連れ、定め記された場所……ある湖の
湖と言っても、それは自然に生じたものでは無い。人間達が川をせき止め、窪地に水を溜め込んで造った人造の湖。
己の利益の為に自然のあるべき姿をも捻じ曲げる……傲慢なる人の業。
今歩いている道さえも、コンクリイトなる砂岩で覆われた自然ならざる物。時代の流れとは言え、矢張り受け入れ難いものだ。
濃い霧の中を、湖へと進むと……やがて灰色の道がすぱりと途切れ、足元に暗い水面が広がる。そこに映り込んだのは、薄青色の衣に身を包んだ長髪の男。
人の姿に身を
力の消費を抑え、かつ色々と便の良い姿と言えば、結局人の姿が最良となる。
「なんか、なんも見えねえっスけど、本当に来るんですかねェ」
背後から霧を搔き分け、黒い人影が近づいて来る。白髪にして痩身、前を開け放った短い上衣の下にサラシを巻き、所々傷んだ黒革の洋袴を穿いた男。
「ソイツ、
ゆらゆらと体を揺らしながら歩み寄るその顔は土気色で、一見して生ける屍の様な印象を受ける。しかし……不揃いな前髪の下で爛々と輝く眼が、それは誤りだと告げている。
「興味あるんスよねェ~。旦那自らが出向かなきゃならねェ様な……化け物に」
鮫のようにぎざぎざに尖った歯を剝き出しにして、にやりと笑う――――“死”の気配を纏った、不吉なる男。
「…………少し黙れ、
へいへい、と形だけ恐縮するこの男こそ、今は数少ない人間への“憑依”を果たした妖……【がしゃ
「それに……その格好は何だ。まるでやくざ者ではないか。これから主の客を出迎えるというのに……」
「あ? もしかして俺のスカジャンに文句があるんスか? 折角旦那をリスペクトして……ほら」
くるりと背中を向け、上衣の背に描かれた細緻な竜の刺繡を見せる我捨。
「ドラゴンっスよドラゴン! ぶっちゃけ中国製なんスけど、東洋の竜なら間違いって事は無いっしょ!」
まるで子供の様にはしゃぎながら、何とかという上衣の自慢をする姿は……人、妖を問わず三桁近くを殺めてきた者とは思えない。
――――しかし。
「…………旦那、気付いてますかい? 霧で見えねぇけど、一匹近づいて来やがる」
「無論だ。そもそもこの霧は我が生み出した物……見えずとも中の様子は手に取る様に分かる」
「コイツぁ、人間のニオイだ! 面倒くせェ、殺っちまっていいっスか?」
特別な探知能力がある訳でもないのに、接近してくる者の種族まで特定している。しかも発見後の選択肢の頭に――――“殺す”が来る。
これでも一応、伺いを立てるだけマシになったものだ。拾ったばかりの頃は、不用意に近寄る者を無言で切り刻んでいたのだから。
「控えよ我捨。こんな夜中にこの深い霧に踏み込んで来る者だ。何らかの故あっての事だろう……と、なれば」
「待ってくれよ旦那! それじゃあ、御頭の客ってのは……」
その者は霧の中を迷うでもなく、真っ直ぐこちらへ向かって来る。白い闇に影が浮かび、人の形を取る。
「――――よう。待たせちまったかな?」
現れたのはつば広帽を目深に被った、薄茶色の長衣の男。背の高さは人としては長身の我と変わらないが、厚みはその倍は有る。
人の言うところの“
「久しいな……【幽玄の君】」
「おう、最後に会ったのは十四、五年前だったか? そいつは確かに久し振りだな、【
我を妖と知りながら、
実の所、我もこの男の事を良く知っている訳では無い。いや、多少知っているからこそ、余計に解らないのだ。我が主に仕える様になって既に四百年余り。その間、奴に会ったのはほんの数度に過ぎない。
だが、その期間は数十年、時には百年以上も空いている。ただの人間がそれ程の寿命を持つ筈が無い。何らかの術を用いて延命を図っているのだろうが、我が知る限り……人間の術にその様な物は存在しないのだ。
時代によって身に纏う衣は変われども、奴は今と同じ顔、同じ体躯を保ち続けている。悠久の時を経て在り続ける――――幽玄なる男。
我が主、東の妖頭領をして一目置かせる“人間”。 それが……【幽玄の君】なのだ。
「ところでそっちの、やけに殺気立った眼でこちらを睨んでいる彼は君の護衛かい? 初めて見る顔だけど」
「あぁ? 何だ……
背後に居た我捨がゆらゆらと肩を揺らしながら歩み出る。上衣に両手を突っ込み、前のめりになって顔を突き出す、正にやくざ者の仕草だ。
「スゲエ化け物が来るって聞いたから、ワザワザ出向いてやったってのによォ~」
【幽玄の君】の眼前、触れんばかりの位置に立ち、下から
「ただの人間たァな…………ガッカリだぜ」
刹那、ひょうと空を切り裂く音と共に【幽玄の君】の帽子が宙に舞った。
「チッ」
そう吐き捨てた我捨の腹からは、一本の白い針が突き出していた。先端を鋭く尖らせた……骨の針。【がしゃ髑髏】が得意とする、骨を操る技だ。
「怖いなぁ、危うく串刺しにされる所だったよ」
と、まるで他人事の様に言いながら、落ちた帽子を拾い上げる【幽玄の君】。その帽子のつばはぱっくりと裂けていた。
「初見で避けるかよ……案外、食えねェ奴だな」
「我捨、そこまでにしておけ」
我は見ていた。我捨の骨針がその顔面を襲うより一瞬速く、【幽玄の君】が半歩身を引いていたのを。見てからでは避けられぬ間合で、たった半歩。最小限の動作で躱している。
いや、まるで最初から攻撃される事を……その手段まで知っていたかの如く、無駄のない動き。
只者ではない。それは解る……しかし、その力の底がまるで見えない。我捨の一撃を敢えて制さなかったのは、奴がその力の片鱗でも現す事を期待したからだというのに。
使いの者ではなく、我自らがこの場に出向いた理由もそこに有る。主に近づく得体の知れない者の正体を、我なりに掴んでおきたかったのだが……
「へっ、分かってますよォ。うっかりで済むのはひと太刀までっスからねェ」
悪態をつく我捨を下がらせ、我は底知れぬ男と向き合った。
「済まない、【幽玄の君】よ。此奴は何分血の気が多くてな」
「ああ、構わんさ。若い奴はこのくらい元気な方がいい。けどな、その……【幽玄の君】ってのは止めてもらえないか? 流石にこの時代、“君”なんて呼ばれるのは少々……こそばゆくてな」
確かに、“君”というのはこの国に
「では、何と呼べば良い?」
「そうだな……普通に幽玄で構わんよ。偉そうな呼び名は、私の様な風来坊にはふさわしくないからね」
――――幽玄か。人間は下らない事にこだわるものだ。己が何と呼ばれるかなど、妖にとってはどうでもいい事だというのに。
「では幽玄よ、そろそろ聞かせては貰えないか……我々をこんな所に呼び出した訳を」
この男が持ち掛ける話は、常に妖にとって利のある物だった。故に主は奴を重宝し、破格の待遇を持って迎えたのだ。
……しかし。
「そうそう、それね……なぁに、ちょっとした野暮用さ。あんた達にとっても悪い話じゃない」
妖にとって利のある話。それはいい。だがこの男にとって、それが何の利になるのかが読めない。奴は何故、何の為に妖に手を貸すのか。
「少し……探し物に付き合って欲しいのさ」
にやりと口元を歪めて笑う、底知れぬ男。目深に被った帽子の下の表情に、一体何が隠されているのか。
それは暗き湖の底の如く、深く
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