裏綴 八月二十五日、廃ホテルにて 前編
とある心霊特番を任された新米ディレクターの私に茶封筒が届いたのはまだまだ残暑の厳しい九月半ばであった。
茶封筒には東京都M市の「安藤紀之」からだとある。住所から考えるとアパートに住んでいるのだろうか。中には薄いケースに収まったDVDが一枚だけ。DVDには「八月二十五日、廃ホテルにて」と油性ペンで書かれている。ほかに何か手紙があるわけでもない。
住所以外の連絡先も何もないこの宅配物にいたずらだろうかと一瞬疑いを持ったが、スマホで調べてみれば実際に住所のアパートはあったし、なんなら「安藤紀之」という人物も実在するようだった。彼のアパートからそれほど離れていないところにある大学の学生だそうだ。彼の所属するゼミのチームが学生コンペで最優秀賞を取ったという話が大学のニュースに載っていた。
ならDVDを見てから連絡をとっても良いかと考えた。特番で扱うに足るものでなければ適当なお礼と謝罪の手紙を同封して送り返せばいいし、良いものであれば使わせてくれとこれまた手紙を送ればいい。
私はちょうど暇そうにしていたアシスタントの女性を呼び寄せて、DVDデッキの電源を付けた。
「あんどーう! カメラ回ってるかぁ?」
若い男性の声がこのDVDの始まりであった。雑音を挟み、どこかの山中の様子が映される。
「よーし!」
ガタガタと画面が揺れて、サムズアップした一人の男がうつる。背格好から考えて、彼はおそらく安藤紀之の友人だろう。
「えー、これから幽霊が出るという廃ホテルを取材したいと思いまーす! 安藤、ホテルアップにして!」
カメラは安藤紀之の友人から斜め上へ。木々の間から少し汚れたクリーム色の建物が見える。ツタが這ってはいるが、見える範囲に限れば、窓ガラスが割れているなんてことはない。
場面が変わる。車の中のようだ。画面の上の方で交通安全のお守りが揺れている。
「えー、まずは近くの村で廃ホテルの噂について聞いてきたいと思います。」
ガサガサと紙か何かを漁る音の後、さっきとは違う声――安藤紀之だ。
「噂の廃ホテルはK山の脇を通る県道から少しのぼったところにあるホテルで、バブルのときに建てられた後、数年で倒産しちゃったそうです。」
K山というのは聞いたことがあった。なぜホテルを建てる必要があったのか、と問い質したくなるほどに周りに何もない場所のはずだ。
暗転
次に映されたのは平屋の民家だった。表札には「木村」とある。
「木村さーん! 安藤ですー!」
しばらくして、人の好さそうな中年男性がガラス戸から出てきた。その直後、カメラは男性の顔を映すのを避けるように下向きになる。
「あのホテルの話だったよね?」
「はい。よろしくお願いします。」
民家の中に移動する。少し日焼けした畳のみが映る。
「あのホテルはなぁ……」
陶器か何かを置く音が三回。安藤とその友人のお礼の言葉が挟まれた。女性の声、そして離れる足音。
「最上階の客室で自殺した人がいるって噂が立ったんだ。実際はなかったらしいけどなぁ。ないに等しかった客足なんてそれでぱあだ。気の毒なもんだよな。」
飲み物をすする音。
「そもそも、なんであんなところにホテルを建てようって話になったんだろうな。赤城さんも何を考えてたんだか……」
「赤城さん?」
「あそこのホテルが立ってる土地の持ち主だった人だよ。」
「赤城さんにお会いすることってできますか?」
中年男性は小さく息をつく。
「死んじまったんだよ。あそこが倒産してすぐに。自殺だったって話だけど、本当かどうかは……」
暗転
「今日は実際にホテルに入ってみたいと思います! ちゃんと許可は貰ってきたんでご安心くださいっ!」
ホテル前の駐車場から撮っているようだ。蝉の声がうるさいのを気にしているのか、語尾を強調するようにしゃべっている。
建物は廃ホテルという言葉から想像してよりもきれいだった。最初映ったときの通りに下の方までそれほど荒れた様子はない。廃ホテルなんて言うと、不良が集まって窓ガラスを割ったり、落書きをしたりでひどい有様なのが普通だと思っていた。しかも彼らが話していた通りならここは幽霊がでると噂されるレベルのものだと思っていたのだ。正直に言えば、拍子抜けだった。
「幽霊はこのホテルの最上階に出るとの噂で、下の県道を車で通ってく人たちが窓際に立つ何かを見たというのがネットで出回っている噂の内容です。」
安藤の声が入る。この日も変わらず安藤がカメラを回しているようだ。
安藤の友人が裏口のカギを開ける。ギィと音を立て錆が目立ち始めた扉が開かれた。中途半端に開けられたロッカーや雑誌が置きっぱなしにされたベンチが映される。
「ここは更衣室?」
スタッフオンリーの文字が書かれたプラスチックの板を安藤が拾い上げる。
「っぽいなぁ。」
床の塗装はところどころ剥がれ、下のコンクリートが見えている。ドアの下やベンチの足元の擦れがひどいのだから、これは廃業になる前からのものなのだろう。
雑音と手振れが続く。部屋を出て移動を始めたようだ。
「えー、ここがロビーです。」
どこからか入り込んだのか、落ち葉が隅にたまっている。椅子は重ねて壁際に寄せられている。かつてはこのロビーを輝かせていたであろうシャンデリアも床に放置されたままほこりをかぶっている。
「安藤、この後は噂の客室と他は……」
彼らは壁に掛けられた案内を映しながら確認を始めた。
残念ながら少し離れて撮っているうえ、そこまで画質が良いわけではないので、あとからパソコンで拡大して見ても部屋の詳細までは分からないかもしれない。
「暗くなる前にはここ出たいし、最上階と一階のレストランと地下の大浴場くらいじゃね? あとは流し見でさ。」
「そうだなぁ。あとは時間が余ったらでいっか。」
「エレベーターは当然使えませんので、階段で移動しまーす。」
地下へ向かって動き始めた。階段にしかれたカーペットはところどころ染みができているうえ、掃除しきれていないのか埃もそれなりに見える。
うまく撮れていなかったのか、ノイズが走る。次に映されたのは真っ暗な廊下で懐中電灯を顎にあてて顔を下から照らす安藤の友人であった。
大浴場の前で安藤の友人は笑いながら女湯の暖簾を懐中電灯の明かりで照らす。
「行こうか。」
引き戸が上手く動かせないらしい。何度か力を込めて数センチ動かしたところで、安藤の友人は振り返って手を差し出した。
手振れと雑音。
「がんばれー」
安藤が交代して戸を開けることにしたようだ。
彼らは頑張って開けたのだが、中は特に変わったものはない。自然光などあるはずもなく、懐中電灯のみを頼りにする何の面白みもない暗いだけの映像が続いた。
次に映されたのは少し明るい廊下だった。閉め忘れたのか、換気のためかはわからないが、一つ窓が開いていた。ロビーの落ち葉はここ入り込んだのだろうか。
「客室は十です!」
彼らはすぐ横の客室のドアを開けた。二つのベッドはマットレスだけで、シーツはしかれていない。
「えー、カビ臭いです。」
その後、次のフロアに移るたびに一応廊下と最初の部屋のみが映される。どこも何の変哲もない。多少変わったものといえば、エレベーターホールにあったもうすでに終売した懐かしい缶ジュースだろうか。
暗転
「次が例の部屋がある階です。」
映された客室の扉は三つのみ。続く廊下もないことから、大きめな部屋が少しあるだけなのだろう。三つはどうということのない和洋室だった。
しかし、不自然に映さないようにしていたらしい最後の部屋は全く違うものだった。
「ここに間違いないなぁ。」
ドアにはどこかのお寺か神社のお札が隙間をふさぐように数えきれないほど張ってあったようだが、誰かが無理に開けたようで、それらはねじ切られている。
「いやあ、これは曰くつきっぽい感じでいいなあ。」
安藤の友人はテレビ越しにもわかるくらいわくわくした様子でドアノブに手をかけた。
「じゃあ、開けます!」
ドアは少しきしみながら開いた。
部屋の中は予想以上に整っていた。ほかの部屋とは違い、布団もシーツもある。それどころかほこりも積もっていない。
「これはこれで不気味な感じで。」
誰かが定期的に手入れをしているのだろうかカーテンなどの布製品もきれいなままであった。ドレッサーの鏡も、木々が外に見える窓も磨かれている。
「このまま泊まれそうなくらいだな。」
その言葉の通り、アメニティすらも揃っていた。
寝室から浴室に移る。
「なんだこれ?」
懐中電灯で照らされたタイルの上には小さな祭壇のようなものが置いてあった。
「神棚とかそんな感じな気がする。」
安藤は一度カメラを洗面台に置いた後、スマホで何かを検索しているようだった。
しかし、神棚とは少々言い難いものである。何かに例えるなら魔術的な祭壇だろうか。少なくとも神棚と言われて想像するような壁に設置されたあの棚のようなものではない。
「これだけ?」
その後、部屋を一通り見て回った彼らだが、あの祭壇以降変わったものは見付からなかった。当然、噂の幽霊もいない。
暗転
レンズの蓋をつけたままのようで映像は真っ暗なままだが、音声だけは録音されている。
「――ってください。」
「よし……続きお願いできますか?」
一息ついて安藤に続いたその声は前に出てきた中年男性とはまた違う男性の声で、タバコを吸う習慣があるのか、それとも日常的に大声をだしているのか、ガラガラとした少し不快なものであった。
「うちのばあさんから聞いただけど、隣の村の巫女さんが置いてったらしいなぁ。実物見たことはないけど、前に写真だけ見せてもらったよ。さっき見せてもらったやつと同じやつな。」
痰が絡まるような咳をする。
「元の持ち主が一応お祓いしてくれって言うもんで、村の誰かが手配したんだと。」
「お祓いですか。でも、なんであれを残したままだったんでしょうか? それにお札とか。」
「さあなぁ……そこまでは聞いてないな。ばあさんももう死んじまったし。詳しい話を聞きたいなら、隣村の巫女さんに聞くしかないな。それと、札はあそこのホテルの従業員がやったって話だ。で、それを巫女さんが無理やりこじ開けたらしい。」
ずいぶんと怪力な巫女さんだな、と男性は笑う。
「ああ、そういえば……部屋、きれいだったろ? あれ、ときどき清掃会社だかなんだかが入ってるっぽいな。何でかは知らねぇけど。」
暗転
「重っ……」
安藤の友人の声の後、カメラが地面に転げ落ちた。
「やっべぇ……傷は……? 大丈夫かな……? あー、このくらいなら安藤も怒らないよな。」
転がったカメラが持ち上げられ、安藤の友人の顔が映される。何かを爪でこするような音の後、ようやくまともな映像が始まる。
彼はもう一度あのホテルを訪れたようだった。しかも今度は一人のようだ。
音声はほとんど独り言のようなものが続くだけで、さっきまでの二人で撮っていた投稿用の映像というわけではないようだった。
地下、一階、二階と順繰りに一部屋一部屋カメラがまわされる。隅々とではなく、入り口から十数秒だけ。一部屋一部屋何か目に見えておかしなものがないのか確認しているのか、それとも何もいないことに安心したいのか。
呼吸音と声に出された部屋番号、変わり映えのしないホテルの部屋が続く数十分続く。途中一度だけ暗転が挟まったが、その一度きりである。
件の部屋の前に再び彼はたどり着いた。
「……よし。」
ドアノブにかけられた手が映る。
「やっぱり何もない。」
声で彼が心底安堵したらしいことは分かる。
そして浴室にも向かった。扉を開けると前に映った時と何も変わらない祭壇があった。カメラは最初よりもずっと祭壇の近くに寄せられる。
不意に後ろの方から何かが倒れる音がした。それに驚いた彼はカメラで祭壇を倒してしまう。何かが割れる致命的な音。短い呼吸が彼の焦りをよく表していた。
そのあとは彼が急いでホテルから出るまでの乱れた映像と音が続く。何度か階段で躓くが、どうにか転ばずに壁に手をついて体勢を直す。
ようやく彼がホテルのロビーから飛び出したとき、映像は唐突に終わった。
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