白羽の矢が立つ
「加藤せんせーい!」
パタパタと上履きをならしながら、一人の女子生徒がグレーのカーディガンを羽織った女性に駆け寄る。
「ああ、渚さん。」
「先生、詩織が帰ってくるの! それでね。二人で夏祭りに行くって約束してて。えっと、それで……なんか怖い話教えてください!」
詩織は渚の友人で、一年前までこの中学校に通っていた。もちろん、当時二人の担任であった加藤も詩織のことはよく覚えている。
「なんで怖い話なのかしら?」
「えっとねぇ、詩織と百物語をしようって約束してるんです。明後日に加奈と千鶴も呼んで。」
百物語、言わずと知れた怪談会のスタイルの一つだ。
「そうね。何がいいかしら、まあここで立ち話というのもなんだから、そこの教室で話しましょうか。」
加藤は近くの教室を指差してそう言った。
教室に夕日が差し込む。明日から夏休みだというのに――いや、明日から夏休みだからこそだろうか――どこかの教室で騒いでいる生徒の声が廊下に響く。
「私が知っている怖い話ねぇ。そうねぇ……せっかくだから、この湖守にまつわる話にしましょうか。」
「湖守にまつわる?」
「ええ。湖守にまつわる……湖守の夏祭りにまつわる話ね。」
夏祭り――湖守祭は毎年七月に山の麓にある神社で開かれる祭だ。
「湖守祭はもともと豊穣の神に生贄を捧げる儀式だったの。」
「人身御供?」
加藤は頷く。
「ちょうど、渚さんくらいの十四、五歳の女子を捧げるの。もちろん、ずっと昔の話よ。それこそ、車なんてないし、湖守という名前すらなかったころのね。でもねぇ……この時期になると 捧げられた少女たちの怨霊が祭に遊びに来ている少女をあちら側に連れて行ってしまうとか……」
「ひえっ! せんせ、怖いって。」
渚は笑いながらそう言った。
「あとはねぇ。また、これも湖守祭にまつわる話なんだけど。」
「ええっ。また?」
「うーん。それ以外というと、先生、トイレの花子さんくらいしか話せないわよ?」
加藤は渚が頬を膨らませながらも黙ったのを見て、話を続ける。
「湖守祭で狐のお面をつけている人を見たことはあるかしら?」
「……隣の家のおばあちゃんがつけてたかなぁ。」
「今じゃあつけている人はほとんどいないみたいね。いてもおばあさんやおじいさんくらいかしら? その狐面はね、豊穣の神であるお狐様に食べられてしまわないように、『私は貴方様の仲間ですよ。』って示すために身につけていたそうよ。狐面をつけていない人はお狐様に食べられてしまうんだって。」
「狐面、かっこいいじゃん。なんで、なくなっちゃったんだろ。私、つけてみたかったなぁ。」
加藤はクスクスと笑いながら、「そんなものよ。」と返す。
「私が知っているのはこの程度ね。あとは他の人にでも聞きなさい。」
渚は下校後、母親に一声かけてから、湖守祭へ向かった。祭は今日から二日間だ。
こんなにもこの町には人が住んでいたのかと思ってしまうほどの人がいつもは静まり返った神社の境内にいる。屋台は祭での定番といったものが並ぶ。
渚は財布から小銭を取り出しつつ拝殿へと向かう。
手水舎で手を洗ってる時だった。渚は手水舎の奥に人影を見たのだ。
そこには細い道があり、その先には小さな古い社がある。そして、そのさらに奥には山へ続くこれまた古い道があった。夏になると地元の子どもたちが肝試しをしては怒られるというのが恒例であった。渚も小学生の頃、同級生と山に入って両親にしこたま怒られた。
その人影は動くことなく、その道の途中に立っていた。冷静であったのなら、少なくとも一人ではその人影には近づかなかったはずなのだが、そのときの渚はどうかしていたのかもしれない。
「どうかしましたか?」
渚は人影に声をかける。その人影は渚に気がついたのか、ゆっくりと振り返った。影の加減であまり見えていなかった全身が現れる。
少女だった。渚とそうは変わらないだろう。セーラー服、そして、一番目立つのはその少女が身につけていた狐面だ。
「えっと……具合でも悪いんですか?」
振り返ったまま何も言わない少女に渚は困惑する。
「大人の人、呼んできましょうか?」
渚はそう言って参道へと戻ろうとする。すると、少女は手をぐいと摑み、首を振った。白い狐に阻まれてその表情は見えない。
「大丈夫なんですか?」
狐面の少女はそれを肯定するかのように頷く。そして、ゆっくりと渚の手を引き、祭の喧騒へと向かう。
狐面の少女はどこか楽しげにふらふらと屋台を見て回る。渚の手は離さずに。まわりの参拝客は二人のことを気にしている様子はない。まるで、映画のワンシーンに入り込んだような感じだった。どこか現実感がないのだ。ふわふわとそこに浮いているような。
「誰かと一緒じゃないの?」
渚は自身と手を繋いでいる狐面の少女に声をかけた。
屋台の途切れた境内の端だった。屋台の明かりと提灯が急になくなったせいで、一層暗く感じられる。あと一歩暗闇に足を踏み入れれば、自分が消えて無くなってしまうような暗さ。
狐面の少女は首をかしげる。屋台を見て回っているときと同じく、彼女は何も言わない。顔を見せようともしない。
「……えっと。」
渚は困っていた。会話が成立しないどころか、何もしゃべらない、表情もわからない、そんな人相手にコミュニケーションをとったことがない。
狐の目は渚を捉えたままだった。
「……ねえ、お賽銭まだでしょ?」
話題に困り、視界の端にとまった賽銭箱を指差し、そう言った。
「だから、一緒に、ね? 私もまだだからさ。」
狐面の少女はそこから動こうとしない。渚が手を引いて賽銭箱に向かおうとしても、彼女はぴくりとも動かない。まるで、水底の重い岩に括り付けられているかのように動かないのだ。
狐面の少女が賽銭箱へと顔を向ける。その拍子に濡羽色が揺れた。狐面の少女は渚に向き直ると、手を引っ張る。向かう先をなぜか渚は理解している。
狐面の少女と最初に出会った細道、その奥の社の前で少女は名残惜しそうに渚の手を離した。渚はゆっくりと奥へと進む。砂利が小さな音を立てる。それ以外は葵の耳には入ってこなかった。古い社。それは渚が思っていたよりもずっと立派だった。
一揖二礼二拍手一礼一揖
一個一個の動作を確かめるようにゆっくりと渚は動く。
渚が参拝し終えるのを待っていたのだろうか。狐面の少女は参道の脇に立っていた。
狐面の少女が渚の手を握る。確かめるかのように撫でるように指でなぞったり、指を絡めたり、解いたり。冷たい手だった。渚はそれを温めようと、自分の手で少女の手を包む。
お面の下の少女は、その外見と不釣り合いな、まるで母親が赤ん坊に誕生の祝福をするかのような慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。それでいて、瞳はどこか他の色も見せている。
渚は少女の瞳に誘われるまま一歩近づく。渚の暖かい赤と彼女の冷たい紫が一瞬だけ触れて、離た。
翌日、町の駅に一人の少女が降り立った。片手には二、三泊用のスーツケース。少女は改札の向こうに見知った顔を見つけ、小走りでその元へ向かう。
「加奈、千鶴! 久しぶりぃっ!」
三人の少女は互いに手を握りしめる。
加奈と呼ばれた少女がスーツケースを持つ少女に抱きついた。
「詩織、会いたかったぁ。」
詩織は大袈裟にため息をついた。それを千鶴がにこにこと笑って見ている。
「私の家に泊まるんでしょ? 早く行こう。で、お昼食べたら中学校寄らない?」
「行く行く。加藤先生まだいる? それとも、もう産休?」
詩織たち三人は駅から千鶴の家へ向かう道中、思い出話や最近の話、例えば彼氏はできたか、だとかそんな下らない話で盛り上がった。
「そうだ、お昼は学校の近くのカフェに行かない? 最近できたんだ。」
「おいしいんだよ。特にケーキが絶品!」
「休みだし、もしかしたら中学の他の連中もいるかも!」
加奈と千鶴は交互に言う。
中学校は静まり返っていた。今日は部活の練習もないようだった。
加藤は仕事が一段落つくと、ぐいと背伸びをし、目を校庭に向ける。すると夏の日差しを避けるように日陰をあるく三人の少女が加藤の目に入った。
「加藤せんせーい!」
加奈は加藤に気がつくと大声を張り上げ、ぶんぶんと手を振った。
「せんせーい!」
詩織も声を上げる。千鶴はその後ろで控えめに手を振った。
「久しぶりねぇ。」
加藤は詩織を見て言う。
「お久しぶりです!」
少し照れ臭そうに詩織は笑う。その横から、ひょいと加奈が顔を覗かせる。
「先生、先生。ちょっと、耳貸して。」
加奈は加藤の耳に口を寄せる。
「なんか怖い話のネタない? 二人には内緒でさ。今日、百物語やってみようってことになってるんだけど、ネタが足りなくて。」
加藤は詩織と千鶴を他の先生の元へ向かわせ、加奈を連れて職員室を出た。
「そうねぇ……ここの夏祭りにまつわる話なんてどうかしら?」
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