第3話 めでたしめでたし

「よく帰ってきましたね」


 ザイナブが二人の耳元で囁くように言う。二人がそれぞれに「はい」と答える。


「お会いしたかったです」


 ファルザードの声に涙がにじんでいる。


「お会いしたかったです……!」


 ギョクハンは言葉が出なかった。口を開いたら泣いてしまいそうな気がしたからだ。自分は強い軍人の男だから、人前で涙を見せてはいけない。奥歯を噛み締めて耐えた。


 でも嬉しかった。


 ザイナブが、元気で、生きて、ワルダ城にいてくれる。


 彼女は自分たちの帰りを待っていてくれたのだ。


 今までのすべてが報われた気がした。


 たくさんのことがあった。

 ワルダを出てすぐナハル兵に襲われたこと、砂漠で盗賊に遭遇したこと、シャジャラで逃亡奴隷と戦わされたこと、ヒザーナで怒風組からアブー・アリーを守ったこと、同じく怒風組の組長であるケレベクと取っ組み合ったこと、大宰相ワズィールウスマーンを捕まえたこと――大変だと思ったこともあったが、何もかも今日この瞬間のためにあったのだと思えば何のこともなかった。


「顔を見せてください」


 そう言って、ザイナブが少し身を離した。ギョクハンもファルザードもまっすぐ立ち、ザイナブと向き合った。


 ザイナブの華奢な手、細く長い指が、伸ばされる。右手でファルザードの左頬を、左手でファルザードの右頬を包む。


「よかった。無事ですね」


 ファルザードが「はい」と頷いた。彼の目から大粒の涙が次から次へとしたたり落ちていった。


「怪我はしませんでしたか」

「はい」

「病気は? 風邪などひきませんでしたか」

「はい」

「自分のからだを安売りしたりなどしていませんね」

「はい」

「ギョクとは仲良くなれましたか」

「はい!」


 額と額を重ねるように軽くぶつけて、「よろしい」と言った。


 次に、ザイナブはギョクハンのほうを向いた。右手でギョクハンの左頬を、左手でギョクハンの右頬を包んだ。


「お前も無事ですね。本当によかった」


 ギョクハンはしばらくの間黙って、間を置いてから「はい」と頷いた。目の奥が熱い。


「怪我はしませんでしたか」

「はい」

「ちゃんと食事や睡眠はとれましたか」

「はい」

「無茶な喧嘩などしていませんね」

「それは……、いや、でも、全部勝ったので大丈夫です」

「こら!」


 ザイナブが笑う。


「ファルとは仲良くなれましたか」

「はい!」


 ギョクハンとも、額と額を重ねるようにして軽くぶつけ合ってから、「よろしい」と言った。


 手を離して、また、二人とまっすぐ向き合う。


「信じていました。お前たちは必ずやってくれると。ギョクハンの武勇、ファルザードの知恵。そのふたつがひとつになれば何事も解決できると私は確信していました」


 そして、「でも」と言って、自分の腹の前で両手の指と指を組んだ。


「心配はしていました。お前たちに無理をさせていないかと。必ず帰ってくるとは思っていましたが、いつ、どんな形で帰ってくるかはわからない。そういうことは、考えていました」

「ザイナブ様……!」

「そんなこと!」

「すべて杞憂に終わりましたね。よかったです。――手を出しなさい」


 ギョクハンもファルザードも、右腕を伸ばし、右手をザイナブに差し出した。ザイナブは二人の手をまとめて取って、自分の両手を重ねて、三人分、よっつの手をひとつにした。


「ありがとうございます」


 胸の奥に温かいものが広がる。


「私は、お前たちによって、救われました」


 歓喜が波のように押し寄せる。


「これからも。二人とも、元気で。二人で、協力して。ワルダで、がんばりなさい」

「はい!」


 後ろから声をかけられた。


「そろそろよろしいか」


 我に返って振り向くと、そこにアズィーズとジーライルが立っていた。

 ギョクハンは左に、ファルザードは右に、一歩ずつ引いた。

 アズィーズが前に進み出てくる。

 アズィーズとザイナブが、向き合う。


「貴女が『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』ザイナブ姫か」


 ザイナブは「はい」と頷いた。


「お初にお目にかかります、アズィーズ皇子。私がザイナブ・ビント・ハサンでございます。勇敢などと畏れ多い、ただ強情なだけの女でございますれば」

「貴女の活躍は多数お聞きしている」

「お耳に入れるほどのことでもございませんでしたでしょう。私はただ、ワルダにいる者を安心させるために耐えていただけです」


 アズィーズが、「だが」と言って、穏やかな表情でギョクハンとファルザードを見る。


「このように立派な従者が尊崇する主というものはなべて大人物なんだ」


 胸が高鳴った。


「畏れ入ります。この子たちは、私にとっては、百万金貨ディナールでもかえがたい宝物でございます」

「まとめて引き取りたい」


 アズィーズが自分の鎧と襟の間に手を突っ込んだ。そして、胸元から薄い小さな箱を取り出した。

 自らの手で開ける。

 箱の中では、磨き抜かれた大きな金剛石ダイヤモンドがぶら下がっている金の鎖が輝いていた。女性向けの首飾りだ。


「父からの押しつけではなく、改めて、私の口から言わせてくれ。結婚してほしい」


 ファルザードが「ザイナブ様の婚約者ってアズィーズ様だったのかよ!」と声を荒げた。ギョクハンも「おい待てよふざけんな」と叫んだ。ジーライルが人差し指を自分の唇の前で立てて「しーっ!」とたしなめた。


 ザイナブはしばらく黙っていた。光り輝く金剛石ダイヤモンドを見つめていた。

 ややして、顔を上げ、まっすぐアズィーズを見つめた。


「そうご命令なさるならば」


 その声は、挑むようだ。


「このたびは派兵、まことにありがとうございます。ここに貴方様がこうしていらっしゃるということは、外はもう鎮火するところなのでしょう。じきにワルダに平和が戻ります。貴方様の、そして皇帝スルタンサラーフ陛下のおかげです。深く感謝いたします」


 ザイナブは、力強い声で言った。


「その謝礼として私をお求めならば。いざ。参りましょう」


 アズィーズが苦笑した。


「戦に行くみたいだ」

「戦です。女にとっては」


 アズィーズは箱のふたを閉じた。右手で箱を持ったまま、左手でザイナブの細い右手首を持ち、ゆっくり、優しく、引いた。そして、ザイナブの手に、箱を押しつけた。


「そうしたら、貴女の身柄は手に入るかもしれないが、貴女の心は永遠に手に入らないだろう。私は家族には精神的なつながりも求めている。だから、今日は、ここで、帰ってもいい」


 すると、ザイナブは少しだけ表情を緩めて、箱を――金剛石ダイヤモンドの首飾りを、受け取った。


「貴女を諦めるつもりはない。貴女ほど次期皇妃にふさわしい女性はいないと思っているからね。だが、きっと、今はまだ早いんだ」


 アズィーズは、ザイナブから手を離した。


「結婚を前提に交際しよう。私は帝都から貴女に手紙を書く。これからは貴女に届くだろう。読んでくれるね? 私たちには互いを知る時間が必要だ」


 ザイナブは、今度こそ、頷いた。


「お受けします。お手紙を受け取るたびにお返事をしたためましょう」


 ジーライルが「よし!」と拳を握り締めた。


 アズィーズが振り向く。ギョクハンとファルザードの顔を見て、「君たち、おもしろくなさそうだね」と言う。二人揃って「ぜんぜんおもしろくねーよ」と言ってしまった。


「王子様がお姫様を助けて、城は平和を取り戻した。めでたしめでたしだ!」

「何にもめでたくねぇよ!」

「勝手にシメないでよ! うわあん!」






 総崩れになったナハル軍の本陣、中央の椅子に座っていたムハッラムが、地面に酒杯を叩きつけた。地面に葡萄酒の紅い色が広がった。


「アズィーズめ……! 何から何まで私の邪魔をしてくれよって!」


 無様に怒鳴る。


「大宰相ワズィールからの連絡はないのか!?」


 周りにいた兵士たちは首を垂れて沈黙を続けた。


「逃げましょう、国主アミール。じきにここにも敵兵が押し寄せてきます」

「うむ、うむ……やむを得まい」


 ある兵士が問うた。


「撤兵はいかがいたしましょう」

「捨て置け」


 ムハッラムは血走った目で答えた。


「最後の一兵たりとも戦い続けさせる。名もない一介の兵士と私の命を天秤にかけるようなことがあってはならん」

「しかし――」

「将とは生きてこそだ。私が生きていればナハルは不滅なのだ、いいな!?」

「残念だなぁ」


 声をかけてきた兵士が、兜を捨てた。


「そーいうこと言う人間はアズィーズ様はお好きでないよ」


 兜の下から見えた顔を見て、ムハッラムは目を丸くした。


「貴様、アズィーズの奴隷の――」

「覚えててもらえて光栄でーっす」


 大きく一歩を踏み込んだ。

 周りの兵士たちは何の対応も取れなかった。

 右手を広げてムハッラムの顔に向かって突き出した。ムハッラムの右目に親指が、左目に小指が突き刺さった。

 ムハッラムの絶叫が響いた。


「ここで死んでもらうね。あんたが戦死してナハル軍が解体されたら僕らはナハルの都を包囲しなくてもよくなるんで。無駄な人死にはアズィーズ様は望まれない」


 彼が「ねぇみんな」と問いかけると、周囲で唖然としていた兵士たちが息を呑んだ。


「こいつが死ねば、アズィーズ皇子は俺たちの家族には手を出さないんだな」

「やっちまうか……! こんな奴にこれ以上ついていけない!」

「負けるとわかってて兵士を戦わせ続けるような奴だぞ! 殺せ!」


 ムハッラムが「やめろ、やめろ!」と叫んだが、兵士たちはムハッラムに向けて槍を構えた。






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