第2話 勇敢なる月《カマル・アッシャジューア》

 ハサンの亡骸なきがらを連れ帰ってきたトゥラン人傭役軍人マムルークたちを、カリーム人書記カーティブたちは罵倒した。


「何が草原の狼の末裔だ、ハサン様をこのような目に遭わせておきながらのこのこと帰ってきおって! 犬でも命を投げ出して主人を守ろうというものを、貴様らといったら――」


 声は徐々に小さくなっていった。黒々としたひげを涙が濡らす。


「ハサン様がどれだけ貴様らに目をかけていたことか……! 何万金貨ディナールも出して、貴様らにカリーム語とカリーム文化のしきたりを教えてやって、食事をとらせて寝床を与えて、大事に大事にしてやったのに、それをあだで返されるとは――」


 傭役軍人マムルークたちは何も言わなかった。普段だったら誇り高い彼らはこのような罵詈雑言など耐えられなかっただろう。けれど今は書記カーティブたちの言うとおりだと思っていた。

 自分たちは大恩ある国主アミールを死なせた。

 その上特にこれといった目立つ首級を挙げることなく城に帰ってきた。


 国主アミールハサンの愛した薔薇園のワルダ城は、隣国ナハルの国主アミールムハッラムの率いる敵軍に包囲されている。


 この状況を自分たちの不甲斐なさが招いたものだと認めていた。


 書記カーティブたちの男泣きが、広間を満たす。


「おやめなさい」


 女の落ち着いた声が響く。


「いくら嘆いたところでお父様はもうよみがえらないのですから」


 広間の中央、急ごしらえの寝台の上に寝かされた父ハサンに死に化粧を施しつつ、女――ザイナブが言う。

 顔の下半分を面紗ヴェールで覆っているので表情はわかりにくいが、目元はいつもと変わらぬ涼しい様子で、涙のあとは見えなかった。


「今後のことを考えましょう。この状況をどうやって打開するか、冷静に話し合うのです」


 ギョクハンは気を引き締めた。実の父を失ったザイナブが気丈に振る舞っているというのに、鍛えられた戦士である自分たちが泣き喚いてはいけないと思った。


「ザイナブ様――我らが『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』よ」


 書記カーティブの長が歩み出て、ザイナブのすぐそばにぬかずく。


「どうぞ我らをお導きくださいませ。貴女様だけが頼りなのです」


 ザイナブはその二つ名にたがわぬ勇ましい姿をしていた。鎖帷子くさりかたびらをまとい、腰には短剣ジャンビーヤをさげた上で、頭に頭布を巻いている。はっきりとした眉に大きな目の縁を強調する化粧を施しているところは妙齢の女性のものだが、その存在感の大きさは父ハサンをもしのいだ。


「弱気なことを言うのではありません。まずはあなたたちがしっかりなさい。大人の男たちがそのような様子では皆が不安がるでしょう」


 あたりの男たちを見回しながら立ち上がる。


「案ずることはありません。城には一年こもれるだけの蓄えがあります。今すぐどうこうということはありませんよ」

「籠城戦でござるか」


 今度は傭役軍人マムルークの長が口を開いた。


「計算上は一年こもれるといえども市街には数万の民が残されており申す。庇護を求め城に殺到し城門では圧死する者も出るありさま、そう長くはもつまい」


 ザイナブが応じる。


「冬になれば川の流れが変わります。彼らも撤兵するに違いありません」


 傭役軍人マムルークの長が一歩分詰め寄る。


「今は春にござれば」

「まずはあなたたちが気を引き締めていまだ我々が屈していないことを示しなさい。最初の仕事は落ち着いて食糧を分け合うことです」


 ギョクハンもまた一歩前に出た。


「打って出たいです」


 ザイナブがギョクハンのほうを振り向く。


「俺がハサン様のかたきを取ります!」

「ギョク」

「俺たち狼の末裔が全力を出せばどうということもありません! ナハルの連中を喰らい尽くしてムハッラムの奴に目に物を見せてやります、俺も今度こそ一番槍の役目を果たしてハサン様にムハッラムの首を供えたいです」


 何人かの傭役軍人マムルークたちは「そうだそうだ」「ギョクの言うとおりだ」と賛同してくれたが、ザイナブは頷かなかった。


「絶対になりません。ナハル軍は総勢三千騎と言われています。対する我らワルダ軍は一千五百です」


 ギョクハンは押し黙った。


「あなたたちは父が買った大事な命です、みすみす捨てる真似をするのはおやめなさい。城を守るのです。冬まで持ちこたえるのですよ」


 しかし本当に半年以上も耐えられるのだろうか。ハサンという将を失って士気が下がっている。一応緘口令かんこうれいを敷いてハサンの死を隠してはいるが、知れ渡るのは時間の問題だろう。


 もし城が落ちたら自分たちはどうなるのだろう。


 ムハッラムはハサンに忠誠を誓った自分たちを殺すかもしれない。


 あの男は残忍な人間だ。過去に別の城を落とした時には、城壁に串刺しにした兵士たちの遺骸を並べた、と聞く。

 あるいは生かして転売したり自分の駒にしようとしたりするかもしれない。

 いずれにせよ嫌だ。


 もし、城が落ちたら――ザイナブがムハッラムのもとにくだることになったら、どうなるのだろう。

 あの男のたくさんいる妻の一人に落とされるのだろうか。

 下卑げびた笑みを浮かべてザイナブを辱めるムハッラムの姿を想像した。

 絶対に、嫌だ。


 ザイナブは男たちの熱気に押されなかった。なおも毅然とした態度で「許しません」と言い続けた。


「援軍のあてがないわけではありません」


 男たちがどよめく。


「ならばすぐにでも――」

「ただし」


 ザイナブの声は凛としていて美しい。


「今からナハル軍の包囲を突破して派兵を要請する必要があります」


 嘆息が広がった。


 傭役軍人マムルークの長がさらに一歩前へ出る。


それがしが参る。必ずや援軍を引き連れてお戻りし申す」


 ザイナブは首を横に振った。


「いいえ、あなたには任せられません。あなたには城を守る者たちを指揮する務めがあります。明日からあなたたちを城壁に配備します、各人のちほど伝達する配置につきなさい」

「では誰が?」

「人選は私が行います。皆心静かに待ちなさい」


 そして、目を細めた。

 微笑んだのだ。

 その笑みが男たちをすっかり黙らせた。


「今日の戦闘で皆疲れたことでしょう。今夜はゆっくり休みなさい。皆の奮戦で向こうにも多少の損害が出ましたので、夜襲を仕掛けてはこないはずです。明日からの防戦に備えて、今は、ゆっくり休むのです」


 傭役軍人マムルークたちは床に手をつく礼をした。ギョクハンも先輩たちに倣って頭を下げた。


 ザイナブの優しい声、優しい笑み、優しい心遣いが身に染みる。

 そして思うのだ。

 この美しい月をナハル軍に渡してはいけない。ムハッラムなどに彼女を明け渡したくない。


 夜が明けたら、ギョクハンも城を守るために城壁へ赴くだろう。そこから連中に向かって矢を放つなり大石を投げるなりするのだ。

 長い戦いになりそうだが、ザイナブがいる限りがんばれそうな気がした。




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