柏木洋平の未来

 「どうだ、一週間は有意義な時間だったか」

 「何が有意義かはわからないが、まぁ、それなりだ」

 洋平はあっさりと言い放った。身体は一週間前と同じような状態で拘束されている。結局洋平は逃げることはせずに、むしろ事務所におもむいてやった。男は予想外の展開に驚いている表情と、逃げ回る洋平を楽しむことができなかったことを悔しむ表情の半々であったが、どうでもいいかという意識が強く現れて慈悲の目すらも向けずに身柄を拘束した。

 「興味半分できいてみるが、おまえはこの一週間、何をやっていたんだ? 金を集めているようには……みえなかったが」

 男はたっぷりの皮肉を込めてそう尋ねた。

 「ああ、僕はたしかに金集めなんてやっていない。別に大そうなことしていない。ただ、普段の生活を一週間過ごした。まぁ、しいて言えば、自殺志願者を助けたくらいか」

 「へぇ、おまえも最期の最期に役立ったというわけか。俺にはなんのメリットもないけどよ」

 もはやこの男も金の回収にはそれほど頓着とんちゃくしていなくて、洋平の悲愴ひそうな運命を今か今かと楽しみにしているようである。洋平はこの一週間で出会った三人の女性を思い浮かべた。あと七日間で死ぬことが確定した日、事務所から解放されたその数時間後、偶然通りがかった踏切で起こした行動によって命を救われた三人の女性。洋平と同じように死の狭間はざまを生きているような人たちだったが、洋平とは明らかに違うことがあった。それは、考え方次第で死をまぬがれることができるかどうかだった。洋平はもう手段がない。今日、必ず死は訪れるのだ。一方で、三人の女性はつらい経験に遭っていたものの、まだチャンスは残っているのではないか。洋平は、彼女たちと会ったときに、たしかに命のともしびのようなものを彼女たちの瞳に感じていた。

 「今日、おまえはここで死ぬ。俺が存分に楽しんだ末に息絶えるんだ。そのあと、おまえの死体を船で運んで、国外に送りつける。もう手配はすべて済んだ。あとは、俺がおまえを殺すだけだ」

 臓器売買をするというのに拷問ごうもんをしていいのだろうか、洋平は暢気にそんなことを考える。もしかしたら臓器売買という話も嘘であるかもしれない。ただたんに、男の趣味として行われている儀式なのかもしれない。遊び終わったら。法外の場所へ無造作に捨てる、そんなパターンが洋平の頭をよぎった。

 「今日のためにたくさん道具を取り揃えてきたんだ。金属バッドにペンチ、塩酸なんかもあるぞ。どんな声を出して泣きわめくのかな」

 不気味な笑い声とともに男がゆっくりと洋平に近づいてくる。洋平はもうどうにでもなれと自暴自棄になっていた。こんな運命をたどるなら、最初から生まれてこなければよかったかもしれない、そう洋平は思ったものの、すぐに思い直す。いや、きっと自分がいなければ、少なくとも三人の女性は死ぬことになっていただろう。それを救うことができただけでも、自分は生まれてくるべきだったのかもしれない。彼女たちは僕がすぐに死んでしまうことを訊いてどんな感情を持ったのだろう。なぜ死ぬのか、どこで死ぬのか、こと細かく尋ねられたことを思い出す。この事務所のことを話したとき、彼女たちの目つきが変わったような気がする。彼女たちは全員が全員、自分を死なせないと宣言していた。しかし、ことはそう簡単ではないだろう。まず警察はあてにならない。男のやり方は実に用意周到である。はたからみれば事件性はないに等しいため、警察に通報したとしてもまともにとりあってくれないだろう。そして、たとえ三人のうちの誰かがここへやってきたとしても、事務所周辺には男の部下が顔を並べているわけだし、部外者はここへたどり着くことすら困難だろう。

 彼女たちの気持ちはありがたかったが、運命に逆らうことはできそうにない。

 「さてと、そろそろ頃合いだし、始めるとするか。まずは何からしようかな。とりあえず、手の爪でもはがしてみようか」

 男が安っぽいペンチを手に持って、洋平へと近づいてくる。椅子のひじ置きに縛られた両腕は無防備にもほどがあった。

 「痛かったら思いっきり叫んでいいからな。まぁ、叫んだところで誰も助けにきやしないんだけどさ」

 男は卑劣ひれつな笑みを浮かべると、洋平の右親指にペンチをあてがった。

 洋平はこれから受けるであろう凄絶せいぜつな痛みを、ただ心の中で待つことしかできない、はずだった。

 「待ちなさい!」

 男はあからさまに身をびくつかせた。それもそのはずで、普通なら聞こえるはずのない女性の声が、事務所内に大きく響き渡ったからだ。どうやら、声の主は事務所のドアを押し破ってきたらしい。事務所の扉に背を向けて座っている洋平は、事務所に乗り込んできた者の正体を見ることはできなかった。しかし、声に聞き覚えがある。

 「洋平さんは返してもらいますよ」

 「まさか、洋平を殺そうとしていた人がお父さんだったとはね」

 洋平はさらに混乱することとなる。声の主は一人だけではなく、全員で三人だった。しかも、そのどれもに聞き覚えがある。

 「おまえら、なんでここに?! どうやってここまで来た?!」

 男はまだ事態を把握できていない様子で身体をこわばらせている。

 「簡単よ。私がいればね。なにせ、娘だから。そのことを組員に話したらすんなりと中に通してくれたよ」

 「詩音! おまえ、ただで済むと思うなよ! それに武井と山川まで、いったいなんでいるんだ」

 詩音? 武井? 山川? なぜ彼女たちがここに? しかもそろいもそろって。

 「ここにいる三人はね、みんなあなたにしいたげられていたのよ。そして、そこに座っているひ弱そうな男に、みんな助けられたの」

 沙月は声を大きく張り上げた。洋平は沙月の発言をうまく飲み込むために、あるひとつの仮説を立てた。その仮説とは、緒乃花が言っていた上司、沙月が言っていたボーカル、そして詩音の言っていた父というのは、だということだ。そして、その人物は、洋平にとって、暴力団の組長であり、今目の前でペンチを握っている男だ。

 「さぁ、おとなしく洋平さんを解放してもらいますよ」

 緒乃花は力強く意気込む。しかし、時間が経って気持ちの整理がついたのか男がやけに落ち着きを取り戻していた。

 「おいおい冗談だろ? ここまでたどり着いたことは褒めてやる。けどよ、おまえたち三人で何ができるっていうんだ? 俺もめられたもんだ。女三人がいたとしても、俺を倒すことは不可能だ」

 男はペンチを強く握りしめる。まるでひるむ様子もなく、女性に対しても情けはかけないといった姿勢だった。

 「特におまえら三人に負けるはずがねぇ。武井、おまえは俺の部下というだけで職場からは逃げられない。俺の権限でおまえはどうにでも処分を下せる。山川、おまえは裏口入学なんてしてねえのにボイスレコーダーがあるおかげで弱みを握られてる。詩音、おまえは俺の娘である限り、俺からは逃げられねぇよ、いくら暴力を振るわれていようが、さげすまれていようがな」

 男は数的不利な状況であっても余裕しゃくしゃくといった様子で鷹揚おうように語り散らしている。洋平もこの状況では彼女たちが不利だろうと感じていた。相手は暴力団のトップであるし、体格差、力量差があまりに違いすぎる。洋平はなんとか状況を打開しようと思ったが、手足が椅子に固定されていて、身動きをとることができない。

 「柏木、少しの間待ってろ。すぐ片付けるから」

 そして男は、右手にペンチを持ちながら、奇声を発して勢いよく彼女たちの所へかけだした。

 まずい。このままでは。

 洋平は予想していた惨事さんじから目だけでもらそうと、強くまぶたをつぶった。

 やがて、どしんとにぶい音が聞こえる。そして、低くうなる声が続く。だれかが思いっきり倒されたようだった。

 「すごい武井さん、やっぱりチャンピオンはちがうね」

 沙月と詩音はともに賞賛を口にしている。

 武井さん? チャンピオン? まさか。もしかして。

 「どう、容赦ない巴投げは。かなり痛かったでしょ。詩音ちゃん、ロープ!」

 「はい!」

 緒乃花と詩音は二人で何かを結んでいるらしい。後ろ向きに座っている洋平には事態の様子をみる手立てがない。洋平は声を発することもできずに目をきょろきょろとさせていると、足のロープがみるみるとほどかれていることに気付く。やがて、沙月が後ろから現れ、両手のロープをほどいた。洋平は自由になった両腕を相互にみる。

 「武井さん、そっちの方はうまくいった?」

 沙月が後方に振り返って声をかける。洋平も振り返った。すると、視線の先には、両腕を縛られて倒れている男と、それを押さえつけている緒乃花と詩音の姿があった。

 「このロープは頑丈にできているから、そんじゃそこらの力じゃ切れないと思うよ。蜘蛛の糸とは大違い」

 詩音が自慢げに言う。男は必死にもがいているが、まるで土から放り出されたミミズのようにその抵抗はむなしかった。

 「どうして……みんなここに……」

 洋平はずっと前から思っていたことを口にする。

 「話はあとよ。今はここから早く脱出しないと」

 沙月は緒乃花と詩音の元へと向かって走り出した。洋平もそれに続く。

 「お父さん、悪いけど、洋平は逃がすよ。お父さんの部下は物分かりがいいのか悪いのか、私に対してはかなり低姿勢で、私が嘘をつけば、事務所だって難なく抜け出せるんだから」

 どうやら前もって作戦を考えていたらしい。そして、その作戦は完璧にこなされそうとしていた。しかし、さきほどまでのたうち回って抵抗をしていた男は、すっかり動きを止めていて、やがてふてぶてしく声を出した。

 「まぁ、待てよ。今の俺には何もできないから、ここから逃げることは簡単かもしれねえな。でも、逃げてどうするんだ?」

 洋平は背筋が凍りつくような感覚を覚えた。たしかに男の言っている通りなのだ。今は逃げられたとしても、あの男が自由を取り戻せば、必ず仕返しにやってくる。今度捕まったら、彼女たちを含めてどんなむごたらしい行為をされるか。

 「俺はへまをしないタイプなんだよ。だから、警察に頼み込みに行ったって、相手にされやしない。現に、俺の表の顔は普通のサラリーマンだからな、そうだろ、武井」

 武井は呼びかけられたものの、声を発さずにいた。

 「逃げたきゃ逃げろよ。このロープさえほどいたら。すぐ捕まえてやるから」

 洋平にとっては強烈なおどし文句だった。抗うことも、ここまでかもしれない。

 「あなた今、へまをしないタイプだって言ったわよね」

 振り向きながら沙月は言った。やけに堂々としている。虚勢きょせいを張っているようにも思えない。

 「ああ、おまえだって、ボイスレコーダーをタレこみしたら、人生転落するにちがいないよな」

 「そうかもしれないわね。だけど」

 そう言いながら、沙月はポケットをがさごそとあさり始めた。そして、中から小さな機械のようなものを取り出した。

 「さっきの発言、丸ごと録音していたらどうなるかしらね」

 「おまえ……?!」

 男の顔色がみるみると青ざめていく。沙月は機械についていたボタンを親指で押した。


 特におまえら三人に負けるはずがねぇ。武井、おまえは俺の部下というだけで職場からは逃げられない。俺の権限でおまえはどうにでも処分を下せる。山川、おまえは裏口入学なんてしてねえのにボイスレコーダーがあるおかげで弱みを握られてる。詩音、おまえは俺の娘である限り、俺からは逃げられねぇよ、いくら暴力を振るわれていようが、蔑まれていようがな


 「ということだから、あなたも保身したいなら騒ぎ立てないほうがいいわよ。あと、これからさき、一生私の前に現れないでちょうだいね」

 「私も会社を辞めさせていただきます」

 「私は里親さがしをすることにしたから」

 三人が思いのたけを口々に言うと、事務所の扉から外へと出ていった。男はその場で倒れこんでうなだれている。最後に残った洋平は、すっと息を吸い込んだ。

 「返済完了だ」

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