■薄井の過去

「私は、『正義の味方になりたかった』からです」

 言ってしまった後で、琴子の反応を窺う。彼女は穏やかな表情で、こちらを見ていた。笑われてはいないようなので、続きを話しても大丈夫だろう。

「男の子って、誰でも一度は正義の為に戦うヒーローに憧れると思うんです。例に漏れず自分もそうでした」

 幼い頃は、兄とよくヒーローごっこをしたものだ。歳が五つ離れていたから、兄がいつも悪役をやってくれた。本来ならこれは父親の役目なのだろうが、物心ついた頃には他界していたので、兄が代わりにやってくれたのだと思う。

「大抵の人は成長するうちに落ち着いていくものなんですけど……どうやら自分は違ったみたいで」

 正義漢ぶっていた小中学生の頃を思い出すと、今でも悶えてしまう。あの頃は悪を倒すことが正義だと本気で信じていたから、それを実行に移す度に親や教師に迷惑をかけていた。鉄拳制裁をしたいじめっ子の家まで頭を下げに連れて行かれたのも、今では苦い思い出だ。

 高校生にもなると落ち着いてきて、ようやく自分の考え方が片寄っていたことに気付いた。正義の味方を志す気持ちに変化は無かったが、悪を倒すことだけが必ずしも正義とは限らないと知ったのだ。

 人々を助けることが正義であり、悪を倒すことは一つの方法に過ぎない。そう考えるようになった。

 ではそもそも悪とは何ぞや? と悩んだこともあるが、これは今でも継続中である。刑事をしていると『犯人=悪』という構図が念頭にあるのだが、時として誰が犯人で誰が被害者か判らなくなる。

 例えば過去にこんなことがあった。

 とある中学校の女子生徒が、校舎から投身自殺した。するとその日のうちに、彼女の父親が、学校に押し掛けて教師に暴行を加えたのだった。

 この事件では、薄井が父親の取調べを担当したのだが、彼の言い分はもっともに思えた。曰く、娘は虐めを受けていると担任に相談したが取り合って貰えなかった、再三に亘り懇願してようやく話し合いの場が設けられたが、逆に手口が狡猾になり潜在化した、以後は悪化の傾向を辿り、娘はじわじわと精神的に追い詰められ、ついに自ら死を選ぶこととなったのだ、なのに担任は手を尽くしたとうそぶき、あたかも自分に責任は無いかのように振る舞った、この悔しさがあなたに理解できるか――と。

 そんな彼に、薄井はこう告げることしかできなかった。すなわち「あなたの気持ちは理解できるが、暴力は犯罪だ。学校側から被害届が出ている以上、警察としてはあなたを犯人として扱わざるを得ない」。これを口にした時、自分は被害者の為に働いているのか、それとも法律の為に働いているのか判らなくなったものだ。

「薄井さん?」

 琴子の声で我に返った。そうだった、まだ話の途中である。

「すみません、ちょっと考え事を。どこまで話しましたっけ?」

「高校生にもなると落ち着いてきて、のあたりです」

 どうやら、知らず知らずのうちに考え込んでしまっていたようだ。

「失礼しました、続けます」

 薄井は居住まいを正した。

「高校二年の夏休みになると、そろそろ進路が気になってきますよね」

 実際、その通りだった。部活動ではインターハイに行けなかったから、薄井の夏は比較的早く終わったといえる。そうしてふと同級生に目を向けると、塾の夏期講習に行く生徒が多いことに気付いた。薄井の通っていた高校は進学校というほどではないものの、毎年約六割の生徒が大学に進学するという。残りは専門学校へ行くか、働くかのどちらかになるわけだが――

「自分はというと、何も考えてなかったんですよね」

 苦笑してしまう。高校生の頃に海外留学を決めた琴子とは大違いだ。

「自分が何をやりたいのか、何になりたいのか、自分でも解ってなかったんです」

 大学進学を希望する同級生が多い中で、薄井は何も決めていなかった。兄は公立の大学へ行き、卒業後は一般企業に就職。学費はアルバイトと奨学金でまかなったという。しかし薄井は借金を背負ってまで進学することに疑問を感じていた。母は学歴も社会では必要だからと言い、大学受験を勧めたが、母子家庭の経済事情を考えると素直に従う気にはなれなかった。

 かといって就職するにも、自分の希望する職種が無かった。教師に相談したところで、何がしたいのと問われたら答えられず、結局は何の解決にもならなかったのだ。

 自分は何をしたいのか、そこから考えなければならなかった。泳ぐのは少し得意だが、競技の世界で食っていくことはできそうになかった。スポーツクラブのインストラクターという選択肢もあったのだろうが、どうにもしっくりこない。読書は好きだが文章力はからっきしだ。特技を仕事に生かせない以上、高卒の身では肉体労働か単純作業、或いはアルバイトからの社員登用が関の山に思われた。

 こうして考えるばかりの毎日が過ぎていった。貴重な青春時代の夏休みを浪費している自覚はあったが、自分でもどうすればいいのか分からなかった。

「そんな時にテレビを点けたら、映画がやってたんです」

 今にして思えば、あれは天啓だったのかもしれない。スーパーマーケットでのアルバイトから帰宅して、本当に何となく電源を入れただけなのに、ちょうど本編が始まるところだったのだ。

 作品のタイトルは〈踊る大捜査線 THE MOVIE〉。織田裕二扮する熱血刑事、青島俊作が警察組織のしがらみに翻弄されながらも、自分の信念に従い犯人を追う姿には、激しく心が揺さぶられた。

「あー、それ知ってます。有名な台詞がありましたよね、確か」

 琴子が声を弾ませた。

「「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きてるんだ!」」

 同じタイミングで台詞を口にして、二人で笑い合う。妙な一体感があった。

「この台詞を聞いて、シビれましたよ。胸の内にたぎるものが……こう、湧いてきたんです」

 薄井は胸に手を当てる。自分の原点を思い出して、熱くなったのだ。

「この日以来、〈踊る大捜査線〉に『ドまり』しまして。テレビシリーズや劇場版、小説版……とにかくありったけを目にしてきました」

 薄井が警察小説を読むようになったのも、これがきっかけである。

「そうした諸々を見てきた結果、私は刑事になりたいと思うようになりました。多分、自分は、幼い頃から夢見てきた正義の味方に、刑事の姿を重ね合わせていたんでしょうね」

 琴子が眩しそうな笑みを浮かべた。

「だから私は警察官になりました。以上です」

 最後にそう締めくくると、薄井は自分が興奮していることに気付いた。気持ちがたかぶるあまり、途中から琴子を置いてきぼりにしていなかっただろうか。それが気になり見てみると、彼女は何度も頷いた末に、こう言ったのだった。

「立派な動機だと思います」

 てっきり笑われるものだと思っていたのに、拍子抜けだ。薄井がどう返していいかわからないでいると、琴子はこう続ける。

「薄井さん、一貫してますね。幼い頃からの夢が叶ったんじゃないですか? そういうの……いいですね」

 彼女は羨ましそうに言うが、薄井は首を横に振る。

「いえ、そうでもないですよ。理想しか見えていなかったから、現実で苦労したわけでして……」

 実際に警察官をやってみると、思い描いていたものとはかけ離れていた。その実感は刑事になることで、より強くなった。所轄で担当してきた事件の中には、果たして本当に被害者の為なのかと疑問を感じたものもあったし、凶悪犯を捕まえたが有能な弁護士に有罪判決を阻まれたこともあった。あと少しで犯人逮捕に漕ぎ着けられそうなところを、証拠が足りずに逃げ切られてしまった経験もある。こうしたときはいつも、フィクションの世界は楽でいいよなと卑屈に考えてしまうのだった。

「今でも毎日凹みっぱなしですよ。なかなか思うようには行かないものです」

 日頃から張り詰めていると、ふとした時に弱音を吐きたくなってしまう。自分が理想とする刑事の姿とは程遠い有様だ。

「そうですか……」

 琴子はそう言うと、長めの瞬きをした。続きの言葉は出てこない。彼女なりに思うところがあるのかもしれない。

「自分が情けなくて凹むことって、ありませんか?」

 才女にこんなことを聞くのは愚問かもしれない。

「そんなの、しょっちゅうですよ」

 さらりと意外な答えが返ってきた。

「私にも色々あるんです」

 と言って彼女がこちらを見た。そういえば、出来の悪い部下が迷惑をかけたばかりだった。

「……すみません」

「あ、いえ。そういう意味じゃありませんよ」

 謝罪する薄井に、琴子は手を振る。

「私、この年でもう、一つの係の長になっちゃったんですよね……。しかも父のことを考えると……ねぇ?」

 彼女は言いにくそうだ。父親を引き合いに出したということは、おそらく『親の七光り』か。陰口を叩かれたことは一度や二度ではないだろう。

「私みたいな小娘が仕切ってたら、そりゃいい気はしませんよね……」

 ふぅ、と溜息をつく琴子。ぼんやりとした目をしている。心なしか、口調もやけにスローだ。

 薄井は思った。彼女が〈特別室〉の室長に就任した経緯は知らないが、警察組織がそう判断したのであれば適任なのだろう。しかしそれに納得していない人もいる。捜査会議で琴子を『嬢ちゃん』などと揶揄やゆした者がいるように。

 彼女は室長に就任して以来、そうした連中を相手にしてきたのだ。彼らを敵に回しては職務に支障が出るかもしれない、だからこそ彼女は笑顔で振る舞い、その一方で彼らに認めて貰う為に実力を示さなければならなかったのだ。

 弱音を吐いたり、ミスがあれば「そらみたことか」と嗤われる。そんな毎日を過ごしてきたであろう琴子の精神力は、並外れたものに違いない。胸の内に秘めた確かな決意がなければ、責任ある役職を続けることは不可能だ。

「私は、気にしません」

 琴子を元気づけようとして、そう言った。だが反応が無いので、彼女には上手く伝わらなかったようだ。

「年齢や経歴なんて関係ありません。やるべきことをやる人間が評価されるのは当然です」

 これは本音だ。さっきよりは伝わりやすいだろうか。

「誰に何と言われようが、あなたの頑張りは私が見ています。だから一人で抱え込まないで下さい。私にできることがあれば、何でもやりますから」

 少々気取った言い方になってしまったか。だがそれでも、正直な気持ちは伝えることができた。

 ――とん。

 琴子が薄井にもたれかかってきた。

「え……?」

 薄井の心拍数が上がる。この状況は何だろうか。

 琴子は無言だ。こちらからの言葉を待っている? さっきは柄にもないことを口にしてしまったから、変に緊張しているのが自分でも分かった。

 伝わってくる彼女の体温と匂い。呼吸のリズムまで分かるのは、自分が意識し過ぎているからだろうか。

 ……もしやこれは告白のチャンスなのでは?

 男子高生並みの発想力だと言われても仕方ない。けれど妄想が止まらなかった。

 彼女も、実はまんざらではないのかもしれない。でなければ、下の名前を呼ばれて喜ぶはずがない。

 告白したら受け入れてくれるだろうか。いやその前に、彼女と自分は上司と部下の関係だ。仕事に私情を持ち込むのは好ましくない。まして彼女の父親は……あれやこれや。

 目まぐるしく思考が回転する中で、ふとこんな声が聞こえた。

「……すぅ」

 いや、声ではなく吐息だった。

 隣に視線を移すと、そこには寝息を立てている琴子の姿があった。

 徹夜続きだったから、疲れがピークに達したのだろう。彼女は薄井にもたれかかったまま、眠っていたのだった。

 ……力が抜けた。

 長く息を吐いて落ち着きを取り戻すと、さっきまでの自分を思い出して笑いが込み上げてきた。

 自分はまだまだ考えが幼い。対人関係にしろ、仕事にしろ。きっと、この幼さが仕事での失敗を招き、時には周りの人々を巻き込んでしまうのだろう。

 年をとれば自然と大人になれるのではない。成長するか否かは己の心がけ次第だ。自分は既に、正義の味方に憧れていた少年ではなくなった。少年が目指していた存在になったはずだった。果たして自分は、少年時代の自分に恥じない存在になれたのだろうか。

 己に問い、薄井は静かに目を閉じた。

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