仏壇のある部屋
安城
仏壇のある部屋
祖母はいつ死んでしまうのだろう。
もう九十歳を過ぎ、思えば僕の四倍近く生きている。息子夫婦と暮らしながらも身の回りのことは自分でやり、仏壇のある座敷で穏やかに過ごしている。
実家に帰ればいつもそこに居てくれると思ってしまうくらい、祖母と死とは近いようで遠いものに感じていた。
*
久しぶりに帰省し、襖を軽く指先でたたいて開けると、祖母は座椅子に座りまどろんでいた。その前にある小さなテーブルは僕が幼い頃からずっと使われている折り畳み式のもので、上には同じく見慣れた急須と湯呑みが置いてある。
「ばあちゃん」
祖母は目をうっすらと開けたが、まだ誰だか分かっていないようだった。向かいに座り、少し大きな声で話し掛ける。
「ばあちゃん、ただいま。
「……ああ、ヒロくんかな」
「うん、ちょっと帰って来た」
「そうかな。よう帰って来たなぁ」
目が覚めたようで、顔をしわくちゃにして、にっこりと笑った。
「元気だった?」
「もうなぁ、耳は遠いし、目はよう見えんし……歯も悪うて、やらかいもんしか食べれん」
「そっか」
「でも、ご飯はおいしいわ」
「それならよかった。ご飯作ってるの?」
「最近はスーパーでお惣菜を買ってくるんよ。作るん大儀なし、ようけになって食べきれんからなぁ」
僕がまだ小学生だった頃は家族皆でダイニングテーブルを囲んでにぎやかに夕食をとったものだった。
母親が働きに出るようになり、僕や弟が部活や塾に行き始めてだんだんと揃うことはなくなった。
いつからか、祖母はこの部屋で一人で食事をするようになった。
「佳代さんがようしてくれるんじゃ。煮物作ったから言うて、くれたりな。ほんまにええ嫁さんじゃわ」
「そうだね。母さん、マメだからなぁ」
祖母の作った筑前煮を思い出した。母のそれよりも甘くて、ちくわが入っている。僕はどちらの筑前煮も好きだった。
「それ、ヒロくんがくれた花よ」
「うん?」
祖母の目線の先を見ると、壁際のテレビ台に色褪せた花が置かれていた。対照的に鮮やかな黄色の紙に包まれている。
それは二ヵ月ほど前――敬老の日に届くよう僕がネットで選んで送ったものだった。花瓶に生けなくてもそのまま飾れるという小さなアレンジメント。バラ以外の花は今まで見たこともなかったが、かわいらしい印象だった。
心ばかりのものだが、花が好きな祖母はきっと喜んでくれるだろうと思った。
「ドライフラワーになってるね」
「きれいなままじゃけぇ毎日眺めよんよ」
祖母はいとおしむように花を見つめた。
正直、それは『枯れてしまった花』で、ドライフラワーというには無理があった。それでも祖母がこれほどまでに喜んでくれていることに驚き、申し訳ないくらいだった。
「ヒロくんは、よう気ぃ付く子じゃなぁ」
「そうかなぁ……」
「うれしゅうて涙が出たよ」
「僕もばあちゃんが喜んでくれてうれしいよ」
素直にあたたかい気持ちになる。
高校を卒業して実家を出、県外で就職してからなかなか帰省することがなくて祖母と会えない。
普段は何を話せばいいのか分からないし、コール音も聞こえないらしいので電話しなかったが、誕生日の夜には電話することにしている。それと、ここ数年は敬老の日に花を。
「きれいな手ぇしとる」
祖母はテーブルの上に置いていた僕の手に触れた。少しひんやりとした祖母の手が僕の手を包む。やさしく、細い指だ。手の甲は血管と骨が浮き出ていてシミもある。それと比べると、若さだけの僕の手はきれいなのかもしれなかった。
「こんな、しわくちゃになってしもうてなぁ。
和やかに笑いながら祖母は言った。
祖父が亡くなってからもう十五年以上経つ。座敷の隅に置かれた棚には、祖父が趣味のゴルフでもらったトロフィーや盾が並んでいる。
「まだ元気でおってよ、ばあちゃん」
「一番ええ部屋を一人占めしとるしなぁ」
「普段は誰も使ってないから気にせんでええよ。ばあちゃんが元気でおってくれたら僕はうれしいけぇ」
祖母の目尻の涙は、泣いているのではなくて、生理現象として溜まっているようだ。やや濁った瞳はどこまで見えているのだろう。
祖母は目を伏せて、僕の手をそっと離した。
「話し相手もおらんのじゃ。みんな忙しゅうてなぁ……。カズくんも静かじゃから、おるんかおらんのか分からんし……何しとるんか分からん」
両親はそれぞれ仕事や趣味がある。弟はサークルやバイトで帰ってくるのが遅いのだろう。
僕が一人暮らしをしていてたまに感じる人恋しさと、祖母の感じているであろう寂しさは似ているのだろうか。
「テレビも面白うないし、新聞も字が小そうて読めんしな……
「ばあちゃん、庭の花の世話してくれとるが。母さん一人じゃようせんよ」
「あれもなぁ……」
言い淀んだあと、祖母はお茶を一口すすった。花を育てるのも生活の楽しみと言うには物足りないのかもしれない。
祖母には祖母の時間が流れる。
『このあいだ』の話は五、六年前のことだった。
最近のことを忘れていても、自分が子供の頃のことは覚えている。
「徒競走でな、私の前に走っとった子が抜かれてしもうたんじゃ。次に走った私が追い抜いてな、一等賞を取れたんよ」
「おお、すごい! ばあちゃん、足、速かったんね」
これは初めて聞く話だ。
「走るのが好きじゃったんよ。終わったあとにその子のお母さんにえれぇ感謝されてな、あれはうれしかったわ」
「よかったねぇ」
満足そうに話した祖母は、ふと、またテレビ台の花を見て言った。
「それ、ヒロくんが送ってくれた花よ」
「ああ、うん。とってくれてるんだね」
「捨てるんが惜しゅうてな、散ってしもうたのは除いてからそのままにしとんよ。きれいじゃけぇ毎日眺めよる」
「うん、ありがとう」
そのあと繰り返された話は、祖母がうれしいと思ったことばかりだった。
*
祖母が入院したという知らせは、その数ヵ月後に入ってきた。危篤ではなかったから、と仕事中の僕を気遣った母は夕方にメールで知らせてきた。その日の朝に様子がおかしいことに気付いた父が急いで病院に連れていったという。
仕事を終えてメールを読んだ僕は気が気でなかった。いい歳をして、人の目も気にせずベソをかきながら電車に揺られていた。
病院のベッドに寝かされ、いくつか管を付けられた祖母は目をつむって静かに呼吸していた。僕と弟の何度目かの呼び掛けで祖母はまぶたを開けた。
うたた寝から目覚めた時とは違う表情に見えた。状況が分かっていないのだろう。つい昨日まで自分の身の回りのこと、最寄のスーパーまでの買い物、食事などをこなしていたのだから、誰よりも本人が驚いているはずだ。
結局、祖母は言葉を発することはなく、またとろりとろりと眠りについた。
*
しばらくして、祖母は脳梗塞で半身が麻痺し、もう介護なしでは生活できないことを知った。移動も、食事も、排泄も、何もかも。
リハビリに力を入れている病院に転院し、その効果でベッドから車椅子になんとか乗り降りするくらいの動作はできるようになった。家族のことは認識できているようで、会いに行くと無表情だった顔がほころぶ。文字は読めなくなってしまったようだが、ごく簡単な会話はできた。
休日の昼、母に付いて見舞いに行くと、病室の外の共有スペースに他の患者も集まって食事を始めていた。
車椅子に座った祖母は奥のテーブルにいた。僕たちは職員の方に挨拶し、祖母の元へ向かった。
母はとろみを付けられたおかずをスプーンで祖母の口に運ぶ。ビニル製の大きなよだれ掛けのようなものを付けていた。服は寝間着ではなく普段着だったので病人の雰囲気はそれほど感じない。
「おばあちゃん、おいしい?」
「うん」
祖母は時間をかけて完食した。食べられるうちは安心できる気がした。
食事のあと、僕は祖母の隣に座って写真を見せた。実家の庭に咲いた花の写真を見たら、祖母が喜んでくれるのではないかと思ったのだ。
しかし、祖母はよく見えないのか、あるいは認識できないのか、もういいと拒むような素振りをみせた。
帰り際に、ベッドに横になり眠りかけている祖母に「また来るよ」と声を掛けると、こちらを見てわずかに口角を上げた。
その後、祖母は病院から出ることになった。祖母は以前から高血圧の他に持病というほどのものはなかった。高血圧だというのも僕はこうなるまで知らなかったのだが。
父と弟と見舞いに行き、三人座るには狭かったので祖母を車椅子に乗せて病室を出、廊下の先へ向かった。そこはソファーが置かれ、休憩スペースのようになっている。
「ばあちゃん、もうすぐしたら引っ越しだよ」
車椅子を押しながら話し掛けたが、反応はない。
父が決めた祖母の移転先は集合住宅のような、介護付きの老人ホームらしい。距離としては実家から近くなる。
ソファーに座った僕たちと向き合った祖母の目は、今日はややしっかりとしていたが、どこかを見ている。
「帰る」
力なくつぶやかれた声は独り言のようにも聞こえた。
「ちょっと家に帰るのは難しいけど、今より家から近くなるから。皆会いに行きやすくなるよ」
「あっちの方だよ」と続けて弟が言い、窓を指差した。夕日が眩しくて僕は目を細めた。
祖母はそちらを見ることなく、口を一文字に結んでいた。
老人ホームに移った祖母を時々訪ねに行った。しかし僕が行くのはたいてい夕方以降なので、祖母は眠っている。
スライド式のドアを開けて入ると、右手の壁には病院のリハビリで作ったちぎり絵のカレンダーがまだ掛けてあった。ピンクと紫のあじさいのまま、暦は止まっている。
洗面台とトイレの付いた、ワンルームマンションのような部屋。高さと、マットの上下部が可動して起き上がるベッドの他に、小型冷蔵庫、二脚の椅子と小さな丸いテーブルが置いてある。家具は、「あった方が部屋らしいだろう」と父が買ったものだ。
僕は椅子に座って、テーブルの上にあったヘルパーさんの書く記録ノートをパラパラとめくり、祖母の身体の状態やヘルパーさんとのやり取りを知る。
向かいの椅子にはタッパーが入った小さな保冷バッグが置かれていた。昼からおやつ時によく訪問する母が言うには、施設で出される食事があまり食べられないことが増えてきたらしい。食が進むようにと作った果物や野菜のピューレを持って行き、口へ運ぶ。食事の時間に行けない時は施設の人に言付けているという。
転倒防止の柵が付いたベッドの横には、青いマットが敷いてある。踏んだら音が鳴る仕様だから気を付けるよう母に言われた。病院にいた時も聞いていたが、祖母は夜中に目覚めて声を上げたり暴れたりしているそうだ。
ベッドの傍に行き、マットをずらして床に座る。胸元まで布団を掛けて眠る様子をただ見ていた。たまに呼吸が止まったかと思いヒヤリとしたが、再び息をしている。
死に向かっている。
いつか祖母は死んでしまうのだ。
僕は顔を見に行くたびに、否定したい未来を少しずつ自分の中に馴染ませていった。
*
それは、仕事が早く終わって思い立ち、一人で訪ねた日だった。
快適な室温に保たれた部屋で、やはり祖母は眠っていた。食が細くなったということは痩せた顔からも明らかだった。
敷かれていたマットは壁際に寄せてあった。もう夜中に暴れる力もないのだ。
床に座り、祖母の首の血管が心拍とともに動くのを見る。起きそうにもないし、起こすのも気が引けるので声は掛けずにいた。
そろそろ帰ろうかと思い、祖母から目を離して立ち上がろうとした時だった。
「ヒロくん」
弱く小さなその声に驚いて祖母の顔を見ると、目を開けてしっかりとした表情でこちらを見ている。
「ヒロだよ、ばあちゃん」
思わず、幼い頃のように答えてしまう。言葉を交わしたのは何ヵ月振りだろうか。
「きれいな顔しとる」
祖母は僕の目を見てうれしそうに言った。
相変わらずの褒め言葉に、こちらも頬がゆるむ。
「ありがとう」
祖母は起きているのが疲れるようで、眠たそうだった。眠ったらいいよ、お休みなさいと言って僕は部屋をそっと出た。
それが祖母との最後のやり取りだった。
その翌日、祖母は極度の貧血で病院に搬送された。検査で癌が見つかり、治療と痛みの緩和を数ヵ月続けた。
晩年、祖母は幸せだっただろうか。夫やきょうだい、同じ世代の親しい人たちがいなくなり、それでも命があるから生きていた。
もっと祖母が元気なうちに寂しさを少しでもまぎらわせてあげることは出来たはずだった。そう思う一方で、祖母の寂しさは僕が埋められるようなものではないとも思う。
ある日を境に一変した身体や生活が祖母にもたらした心身の痛みを僕が充分理解できるはずはないが、自立して生活できなくなった情けなさ、闘病中に痛み止めを投与する前のひどく苦しそうな表情を思うと、ずっといてほしいと願うのはわがままに過ぎなかった気がしてくる。
亡くなる前日には危篤の知らせで病室に集まった家族に以前のような笑顔を見せた。それまでは声を掛けても手を握ってもずっと眠っていたのが信じられないほどにこやかで、目には輝きがあった。
秋。祖母が亡くなったのは運動会日和の週末だった。
僕が小学生の頃に急死した祖父の時のように涙が出るような悲しさや辛さはなかった。祖母も死んでしまったという、その現実が寂しかった。
祖母のいた座敷には今は新しく買った家具が入り、あの頃と変わらないのは仏壇だけだ。
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