2.深夜のアンとダイアナ
魔導機関車は二本のレールの上を走り続ける。そのレールには継ぎ目があり、単調な振動が仮眠を摂った後だというのにジュリアンを夢の世界へと誘った。ダイアナと別れた後、そのままグラッドストーン氏と飲み過ぎてしまったらしい。普段ならもっと早く気付くはずだったが、夢うつつに廊下で人が行き来する気配を感じた。そのうちぼそぼそと小さな話し声が聞こえ始め、湖面を這うようにしていた意識が急激に上昇する。
声の主は一人のようだ。
耳をすませると、どうやらダイアナであるらしい。
普段から火急時直ぐ行動できるよう、こういった場所では上着を脱いだだけの状態で寝ている。テーブルの上にあるネクタイに手を伸ばしてはみたが、そのまま置いて客室のドアを開けた。
列車の窓は風景がよく見えるようにと大きく取られている。外は一面の銀世界で、月の明かりがきらきらと反射していた。それに照らされたダイアナがゆっくりとこちらを振り向く。透き通るような肌が青白く浮かび上がり、大きな黒い瞳が真っ直ぐとジュリアンを捕らえる。人形のような生気のない表情。感情のない瞳。まるで、抱えているビスクドールのように彼女は佇んでいた。
「こんばんは」
そう、こちらから声をかけると魔法が解ける。花がほころぶように口元に笑みが上り、にこりと感情の一端を見せる。
「こんばんは、ジュリアン」
言葉を吐くと、人間らしさを感じられた。
けれどそのままくるりとまた外へ向き直る。ジュリアンもダイアナの隣へ立った。余計なことは話さずに外をじっと眺めている。時々呟く言葉は全てビスクドールのアンへのものだった。
「見て、アン。一面雪の海よ。誰の足跡もない真っ新なこの海を、一番に泳ぐことができたのならどんなに幸せでしょう。手を繋いで一歩一歩、この世界の運命を決定づけるかのように踏みしめるの。二人の後に、点々と揃いの跡が残って行くのよ。私と貴方の今までの歴史が刻み込まれて行くのよ。そんなときこそ、嗚呼、この世でこうして生きていられることはなんて素晴らしいことなんでしょう、と実感できると思うわ」
少女特有の溢れるような想像力。それを微笑ましく思い、耳で聞きながら外の風景にダイアナのそれを当てはめていた。
雪の中を、ダイアナと【彼女】が手を繋いで歩いて行く。ずっと、ずっと先まで。二人が豆粒のように小さくなるまで。真っ白い中を、黒髪のツインテールと、そのまま垂らした黒髪が同じように上下しながら遠ざかって行く。
そこでふと気付く。
「ダイアナ、夜眠るときも手袋をしているの?」
薄い青の夜着の上に黒いカーディガンを羽織った彼女は、それを聞くときょとんとした顔でジュリアンを見つめた。かなりの身長差があるので真上から彼女を見下ろす形となる。食事が終わって直ぐに寝てしまったため、こんな夜遅く――もう夜中の零時近くになる――に起き出してしまったのだろうと思っていた。それにしては手袋をしているのが不自然だった。
「ああ、手にね、痣があるの。だからいつもしているの」
奇妙な符号。そのままビスクドールのアンに目を落とす。
「アンも?」
我ながらおかしなことを聞く奴だと思う。けれどダイアナは、笑顔で頷いた。
「そうよ、アンも絶対に手袋を外さないわ。私と彼女はおそろいなのよ」
「僕の、知り合いのお嬢さんも、人前では絶対に手袋を放さなかったな……【彼女】は、痣ってわけじゃないけれど。名前を――」
目の端に、きらりと何かが光った。
確認する間もなく、列車が急停車する。
咄嗟にダイアナを抱き、客室のドアに身を寄せた。慣性の法則によりそのまま尻餅を付く。首に回る細い手が小さく震えているので、安心させるように微笑んだ。それを見てダイアナは頷いてアンをしっかりと抱え直す。
外にある人の気配は予想以上に多く、やがて一等客室の車輛へずかずかと乗り込んできた。先頭にいたのは女性。手には拳銃があり、それをこちらへ向ける。ジュリアンは上着を部屋へ置いてきたことを呪った。あちらになら友人の作った呪符がいくつも入っていたのに。今シャツのポケットにあるのは大したものではない。
「動かないで。こちらは
その後ろで他の人間が声を上げる。
「チェンバレン警部! サリスブリーの姿が見あたりません」
「なんですって? 逃げた形跡はなかったわよ! 魔導の残滓測定急いで」
するとボストンバックほどの箱を持った人間が新たに乗り込んできた。警察は何をするにしてもまず背後に魔導がないかを疑う。それによってはその後の動きがまったく変わるのだ。魔導があってできることと、魔導がなくてできることには大きな差があった。
警察が調べているのは隣の食堂車へ一番近い客室で、ジュリアンのそれの隣だ。人の気配は何度かしていたが、誰がいるかは知らなかった。そして、内心驚いている。ジュリアンが知っている、警察がこのように列車を止めてまで追いかけるようなサリスブリーは、先日殺人を犯したと言われている詐欺師のテラー・サリスブリーであると思い当たったからだ。この列車に乗る前に買った新聞にでかでかと載っていた。
「ダイアナ!」
ジュリアンたちが見ている方向とは別の場所から声がかかる。夜着の上に同じように上着を引っかけたマーガレットが客室から顔を出していた。急に列車が停車し、外が騒がしいので起き出してみればダイアナがいなく焦ったといったところか。小さな少女を見つけると、心底ほっとした表情をする。
「お嬢さんは大丈夫ですよ。それよりも、皆部屋に引っ込んでいた方がよさそうだ。警察が思い切りドアを破ってくれたせいで冷気が入って寒い」
わざとらしく首を竦め、ダイアナをマーガレットの元へ押しやった。自分はそのまま彼らの行動を眺める。食堂車の方から車掌が飛んできて、説明を求めていた。
「殺人犯テラー・サリスブリーがこの列車に乗っているとの情報を得ました。協力ください」
有無を言わさぬ強い口調でチェンバレン警部は部下の検査結果を待つ。詳しいものは無理だが、ここで魔導が使われたか使われていないかはすぐに分かる。
野次馬根性丸出しでジュリアンは少し離れてその様子を見ていた。
もともと大人数が入りきるような場所はない。この部屋だって二人用なのだ。
そして、あるものに気付いてしまった。
「……あー、あの、チェンバレン警部?」
「なんですか? 貴方も自分の客室に入っていてください!」
「いやぁ、そうしたいのは山々なんだけれどやっぱりこれを黙っているのはどうかと。ほら、手間も省けるし」
「何よ……」
ジュリアンの含みのある言い方に怪訝な表情をした。茶色の髪を肩の辺りで切りそろえきつい眼差しを持った、まだ三十そこそこであろう若い警部は彼の指し示す方を見て息を飲む。
「この上のベッドはどうやって下ろすの!?」
チェンバレンは車掌に詰めよる。教えるよりもと彼がそれを下ろして見せた。横に付いているレバーを回せば簡単に一人分のスペースが増える。
そしてそこにあったのは一つの遺体。
素人目にも息を引き取って時間が経っているのが分かった。
「貴方、名前は?」
「ジュリアン・レノックス。歴史学者です」
「身分を証明するものは?」
「スーツの上着に入ってます。今は部屋ですね。いやだなぁ、遺体を見つけた途端、犯人扱いですか? 彼の衣服の裾がちょっとのぞいていたから分かったんですよ」
別に怒っているわけではない。それはジュリアンの表情からも分かった。むしろ彼は楽しんでいる。
「そうではないわ。一応、ね」
「一応、ですね。それでは一応気付いてはいらっしゃると思いますが、これだけ騒ぎ立ててそこの特別一等客室のお客様が表に出て来ないことも不審に思っていらっしゃいますよね?」
チェンバレンはそちらを見て、おろおろと廊下を行き来している車掌を再び呼んだ。
「この列車に乗っている乗客名簿を。あと、そこの特別一等個室には誰かいるのかしら?」
乗客名簿提出を求められた瞬間少しだけ嫌そうな顔をした車掌だが、すぐさまそれを消し頷く。
「はい、こちらにはグラッドストーン様が。グレース・グラッドストーン様です」
それを聞いてチェンバレンは部屋のドアを強く叩いた。
「グラッドストーンさん? 私はUPA《ユーピーエー》のチェンバレンです。申し訳ありませんが一度部屋を出てきてもらえないでしょうか。グラッドストーンさん? すみません。開けますよ?」
ノブに手をかけ、横に倒しそのまま右へ押しやる。
鍵はかかっていなかった。
そして、ちょうど入ってすぐのところに男物のスーツがひとそろい落ちていた。
畳んでいるのではなく、そう――人が突然洋服のみを残して消えてしまったかのように、すとんと落ちたスーツがあった。
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