明るい話を書こう

 明るい話を書こう。


 たまに、どうしようもなく救いの無いものを書いてみたいと思う。

 で、書いてみると、どうしようもなく馬鹿馬鹿しい気持ちになる。

 どうしようもなく救いの無い話なんて現実に溢れている。だから暗い話なんて誰にでも書ける。「人間であること自体が病気だ」と言った人は、私の記憶が正しければ一人ではない。人間にグロテスクな部分があるのは当たり前。

 わざわざそんな暗い部分を露出させてどーする。それこそどうしようもなかろう。と、書きかけのくらーい話はどんどんパソコンの奥深くに封印されていく。

 そういえばこの間読んだ本に良い台詞があった。

「人間なら誰だって塞ぎきれない傷の一つや二つ負っているもんなのに、殊更にそれを自慢するのは『俺って呼吸してるんだぜ』と主張するようなもの」(「プシュケの涙」 紫村仁)

 その通りだと思う。傷つくのなんか呼吸してるようなもん。でもそれを実感するのって、なかなか難しい。自分だけはつらいと思いがち、な気がする。

 もちろんつらいのは当たり前。「殊更にそれを自慢する」気持ちもわかる。すごくわかる。

 小説なんか格好の手段。いかに自分がつらいのか、凄まじく鬱なお話を通して不特定多数(もしくは、身近な人々)に主張することができる。

 でも、

 だからこそ、

 あえて明るい話を書く人々が存在する。なんだか、元気付けられるようなお話。

 私はそういった人々を心底尊敬する。

 その人々は、自分のことを語ったりなんかしない。精神が成熟しきっている。

 この精神だと思う、

「世の中に醜いものなんか溢れている。何故これ以上、醜いものを描く必要がある?」

 って言って、美しいものばかり描き続けた人の精神。作家じゃないけど、画家だけど。オーギュスト・ルノワールさんです。素敵な絵を描く人だ。

 どっろどろな、もうとことん、これこそ、ってくらいに鬱な話を書きたくなるときもあるのだと思う、というかある。

 でもそれって、自分の醜く自然な部分を露出しているに過ぎないような気が、最近してきた。

 とことん落ち込んで鬱々するのも良いと思う。太宰治とか。あれはあれである種の趣がある。

 しかし、

 人生で一度くらいは、

 明るい話を書こう。

 と、言いたい気分です。

 メランコリックにリリックになるのはとても気持ちが良い。しかし自己陶酔の、主観的に過ぎる、文学は芸術は、得体の知れない嫌悪感しか、呼ばないのではなかろうか。

 太宰治の鬱々は、あれは、意外と、自分を客観的に見ているから、人気を呼んでいる、気がする。彼の話は、不思議と自慢には聞こえない。太宰治だって、救いある話は書いている。

 様々な苦悩を経て、その苦悩さえも客観的に見て、暗くなりすぎないように、距離を置いて、ユーモアとウィットと、たまにアイロニーを利かせたような、明るく底抜けに面白い話こそ、ああ、すごく良いなあ。

 と、思う。

 そういう文章を書けるようになりたいものです。

 そういう文章を書いてもらいたいものです。


追記 この文章書いてる間、ずっとチェッカーズの「ジュリアに傷心」を聞いていたので、メランコリックとかリリックとか、浮かんできたのかもしれないです。

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