透明の匣

雨降子

第1話

「ドロボーゥ! 誰か捕まえてェ!」 


 耳をつんざくような悲鳴を背に、男は走り出した。

にぎやかしく演奏していた楽団員の手が止まったのか、一瞬大広間は静寂に包まれたが、構わず一番近い出口に突進する。


「玄関よ! 玄関に逃げたわ!」


 こっちは玄関だったのか。チッと舌打ちし、何故下見もせずに大胆にもこんな大きな屋敷に潜り込んでしまったのか、おおいに後悔していた。


 男はコソ泥だった。それ以上でもそれ以下でもない。大抵はもうちょっと小ぶりな家を標的にする。警備も手薄だし、なにより大金を手にしようなどという野望があるわけじゃない。ちょっと小遣い稼ぎがしたいだけだ。


 今夜は散歩だけのつもりだった。いつの間にか知らない町に来ていた。たまたま目をやった屋敷に、なんて広いんだ、と驚いだ。東京のはずれだからか、都心で見る屋敷より数段でかい。


 夜陰の中、ぼうっと浮かび上がる白い外壁。三階建の本格的な洋館だ。近寄ってみると、夜会の最中なのかテンポのいい音楽が流れ、人々の笑い声が聞こえてきた。楽しそうだな、と好奇心がそそられた。なんとなく人目を避けて、なんとなく二階から中に入れてしまった。


 凝った柄の天井、アーチ形の、色とりどりのステンドグラス、手の込んだ装飾のシャンデリア。


 あまりの壮麗さに男は呆気にとられて立ちすくんだ。ここは教会か? 二階でさえこうなのだから、今ダンスを繰り広げている一階の広間はどうなっているのだ。

そっと吹き抜けの部分から下を覗いてみる。洋装のドレスに身を包んだきらびやかな女性たちが目に飛び込んできた。艶やかな笑顔で男性の肩に手を置き、囁き合いながら踊っている。――良いうなじだな。あれが流行の夜会巻きというヤツか。


 どうでもいいことに感心していると、急に近くで人の気配がし、はっと我に返り物陰に隠れる。ここなら誰も来ないわよ、と、クスクスと笑い合う男女の声。そのまま部屋に入っていく。――逢引きか。華族ってのはまったく、良いご身分だぜ。飲んで踊って、お喋りしてりゃいいんだからな。


 これ以上の長居は危険だ。今日は少し好奇心を満たしただけでやめておこう。欲をかくとろくなことがないと長年の経験でわかっている彼は踵を返そうとし、ふと床が一瞬光ったのに気づいた。――なんだ? イヤリング? そっと拾い上げる。

 するとドアがいきなり開き、「イヤリングが……」とさっきの逢引きの女性が顔を出した。


 目が合った。


 悲鳴とともに階段を駆け降りる。すぐに逃亡方向の失敗に気づいたが後には引けず、玄関で唖然としている人々をかき分け、強行突破した。しかし門番がいるだろうから、正門からはさすがに無理だろう。左へ曲がって塀を飛び越えるとしよう。ちょっと高いが仕方がない。


 塀を登ろうと腕を伸ばしたとき。


「なぁに? ドロボウ?」


 ぎよっとして声がした方を思わず見下ろす。


「そうらしいよ、へぇ、初めて見た」


 手をつないでこちらを見上げるふたりの子ども。十いくつかの少年と……少女だ。


しかも、同じ顔の。


「双子……か」


 驚いている間に背後が騒がしくなり、慌てて塀をよじ登る。


「ねぇ、もう間に合わないんじゃない?」

「あちらの方がまだ塀は低いよ」


 口々に話しかけてくる。余計なお世話だ、と威嚇しようとした拍子に手が滑り、どてっと尻餅をついてしまった。


「大丈夫?」

「イヤリング落ちたよ」


 覗き込んでくる二つの顔はまったくの瓜二つ。髪の長短を除けば。長い睫の大きな瞳も、すっとした鼻筋も、ちょこんとした小さい口元も。まるで西洋の人形のようだな、と一瞬見惚れたが、すぐにそれどころじゃない、と立ち上がると、


「あっちで物音がするぞ!」


 追っ手がすぐ近くまで来たようだ。「くそっ」と彼は反射的に少女の方の体を抱きかかえた。


「きゃー、なにするの?」

「うるせぇ、静かにしてろ」

「いたーい、お離しになって」

「お前を人質にして逃げてやるんだよ」

「やめときなよ、罪が重くなるだけだよ」


 急に声が若干低くなり、口調が少女じゃなくなった。ん? と訝しんで、腕の中の少女と横で見ている少年を見比べた。今声を発したのはコイツか? でも今下から……。


「!」


 あっ、と思う間もなく、自分の体が宙に舞い、地面に叩きつけられた。背中が痛い、と感じた頃には駆けつけた警備員に無理矢理立たされていた。


 呆然として振り返ると、少年と少女はぴったりくっつき、可愛らしい顔でこちらを見ながら手を振っている。思わず振り返しそうになって、警備員に小突かれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る