天界のお仕事

かや

第1話

体が宙に浮くような不思議な感覚だった。体重が無くなったみたいに、ふわふわしている。周りの音も遠ざかっていく。自分に何が起きているのかわからない。僕、どうなっちゃうんだろう…?意識も無くなっていく…


「うぅ…頭が痛いよ」

意識を失っていたのか、頭がぼんやりしていた。やっとのことで体を起こし、あたりを見渡す。状況がまったく理解できない。さっきまで家の近所にいたはずだ。図書館帰りで、学校の通学路でもある歩き慣れた道を帰っていた。なのに、ここは硬いアスファルトに視界を悪くする霧。遠くには煙を吐き出す煙突が並んでいるのが見える。テレビでも雑誌でも見たことがない、まったく知らない場所なのだ。どんどん早くなっていく心臓に手を当てて、湿った冷たい空気を思いっきり吸い込み少年は叫んだ。

「どうなってんの!?」

叫んだせいか後頭部がズキッと痛む。でも今はそれどころではない。さっきまで家の近所、すなわち住宅街にいたのだ。なのに今は見知らぬ殺風景な気味の悪い場所にいる。

「落ち着け!来年には中学生だ。ここは冷静に。パニックなんてかっこ悪いよ。」

この少年、久遠遥界(くおん はるか)は小学生としての最後の夏休みをすごしていた。どうにも家にはいづらく、図書館で宿題をするためにでかけていた。その帰りなにが起きたのか。

「そういえば、意識が無くなる前…キキ―ッていう車のブレーキ音が聞こえて、何がどうなったのかわかんなくなって…」

遥界はある1つの可能性に気付き、冷や汗が止まらなくなった。それを恐る恐る声に出してみる。

「まさか…僕、死んだとかじゃない…よね?まさか、だって心臓ばくばくいってるし…交通事故とかありえないよな、信号守ってるし。と、とにかく人を探そう。ここがどこだか教えてもらって帰るんだ。」

あの重苦しい家に…。

遥界は絶えず煙を吐き出す煙突に向かって歩き出した。工場か何かの煙突だとしたら人がいるかもしれないと思ったからだ。それにしても体が重い。意識ははっきりしてきたが、まだ足元はフラフラしている。

「もう少し頑張れ、僕。門限を過ぎたらまた怒られる。僕の言い分なんて聞いてもらえないぞ。」

自分で自分に言い聞かせながら、力を振り絞り歩いた。すると、突然ガヤガヤと声が聞こえてきた。霧で視界が悪いが、薄っすらと出店のようなものも見えてきた。やった、助かった。そこには大勢の人が行き交う、商店街があった。その通りの入り口にはボロボロの鳥居があり、【鬼瓦通り】という文字が刻まれていた。

「鬼瓦?聞いたことないな…。でも漢字で書いてあるってことは日本ってことだよね?」

鳥居を前に立ち止まる遥界を見つけた大柄の男性が、ズカズカとこっちに歩いてきた。

「どうした坊主!迷子か?ってお前さん鬼じゃねえな。天ヶ埼から迷い込んじまったのか?」

とにかく圧のある男性に遥界は言葉が出てこない。

(迫力がすごいよ、このおじさん。というか、今何て言った?鬼じゃねえなって、どういうこと!?)

自分の倍はあるのでは、というくらいの巨漢を意を決してみあげてみる。でかい口にでかい鼻、ちいさい目。その額には黒くがっちりとした大きな角。

「つっ角!?」

思わず口を塞ぐ。鬼なんて誰もが知ってる架空の存在だ。それが今目の前にいるのだ。イメージ通りで、でかくて大きな角をはやしている。ただ、肌の色は赤や青ではなく、人間と同じ肌色だった。

巨漢の鬼は、口を塞いだ遥界の手を見て言う。

「坊主、こっちの住人じゃなくて、魂か!なんで鬼瓦に迷い込んじまったんだ?まあいい。おっちゃんが天ヶ埼まで案内してやる。名前は?」

この人、全然話についていけない…ここがどこだか聞きたいのに一方的に話し続けるし。こっちの住人?僕が魂って何?聞きたいことが山ほどあるけど、とりあえず名乗らなきゃだよね?

「えっと、久遠遥界です。ここ、どこなんですか?教えてくださー…」

名前を言ったとたん、鬼が石のように固まった。ピリピリとした緊張感に包まれて、息さえも吸いずらい。

「坊主…現世の記憶があるのか?」

さっきまで気の良い豪快な笑顔を見せていた巨漢の鬼が、背筋の凍るような冷たい声で言った。後ろでガヤガヤしていたはずの人、じゃなくて鬼たちも目の色を変えてこちらを見てくる。

(あれ…なんかまずいこと言った?)

でもわかる。直観ってやつだ。逃げなきゃヤバイ。遥界は振り返り、無我夢中で走り出した。あの気味の悪い場所に戻るのは気が引けるが、そんなことは言ってられない。後ろでは「あのガキをつかまえろ!逃がすな!」と鬼たちのドスい声が聞こえてくる。鬼たちは顔色を赤や青、緑に変えて、とてつもない速さで追ってくる。

「まだフラフラしてるのにっ!」


どれくらい走っただろうか。息を吸うのも苦しいくらいだ。いつのまにか景色もすっかり変わり、樹海のような暗い森に迷い込んでいた。

「足跡を見つけた!こっちだ!」

追ってくる鬼の声は中々小さくならない。走っても走っても前に進めていない感覚になる。

「しつこいな…全然諦めない…。!!あれは、民家かな?」

暗い森を抜けた先には、民家の立ち並ぶ一本道が向こうの方まで続いている。一瞬ヤバイと思ったけど、あまりにも静かで、人が…いや、鬼が住んでるとは思えなかった。オバケなら住んでそうだけど。

「もう走れない…、ここに隠れよう。それにしても古い家。古民家ってやつな?」

息を整えなが奥へと進んでいく。右足がズキズキと痛む。さっきまで必死に走っていたため、全く気付かなかったが、片方の靴が脱げて無くなっていた。すると冷たい風が吹いた瞬間、かすかに歌が聞こえた。か細く、今にも消えてしまいそうなくらい小さい歌だ。

「女の子の声だ。」

なぜだかその歌声に惹かれ、逃げるどころか歌声の持ち主を探した。不安でいっぱいだった心を、安心させ温かく癒してくれる、そんな歌声に心を奪われてしまったのだ。民家と民家の狭い間を抜け、迷路のような住宅街を足早に通り抜けていく。足の痛みなんてすっかり忘れていた。体が軽い。気を取られていると、ふと話しかけられた。

「きみ、鬼じゃないね。もしかして、人間の魂ってやつ?」

黒く長い髪の毛を邪魔そうにしながら、幼い少女は井戸から水をくみ上げた。髪が邪魔してわかりずらいけど、少女にも小さな角があった。

「うん…鬼じゃないよ。君は誰?僕、目が覚めたらここにいて…。怖い鬼に追いかけられるし、もう何が何だか。」

すると少女は大きな瞳をこれでもかとキラキラさせて言った。

「私はつぼみ。きみ、ボロボロだね。靴なんて片方ないよ?うちに上がって。話はそれから!」

つぼみは小さな体をめいいっぱい使い、建付けが悪いのか、重たい音をたてながら扉を開けた。

「さあ、入って!大丈夫、お父さんもお母さんも留守だから。」

「…ありがとう」

家の中へ入ると、外見通りの和室が現れた。声に出しては言えないが、外観とは見違えるほど豪華な和室で、高級旅館のようなデザインをしている。つぼみは座って、と座布団も出してくれた。こんなに親切にしてくれるなんて。

「はい、お水。」

「ありがとう!喉カラカラだよ。」

冷たい水が喉を流れていく。生き返るって感じだ。

「私ね、人の魂見るの初めてなの!!普通、人が亡くなったら、現世で49日間過ごしてから記憶を消されて、天ヶ埼に魂が送られるから。鬼瓦から出たことない私は見たことなかったんだ。きみはー…迷い込んじゃったのかな?」

「あのさ、つぼみちゃん。こっちの住人とか、魂ってなんなの?話についていけないよ。人が亡くなったらって、やっぱり僕死んだのかな?」

つぼみは乗り出していた身を引いて、ちょこんと正座をした。

「ごめん、私ったら一方的にしゃべっちゃって。ちゃんと説明するね。まずここは、エンマ様の部下の鬼たちが住む鬼瓦。そして、ここと一本の橋でつながった、天ヶ埼っていうところがあってね、亡くなった人の魂が送られてくるの。そこで魂は、エンマ様に地獄行きか、天国行きか決めてもらうまでの間すごしているのよ。記憶を消すのは、現世への未練を無くすためなの。」

時計の針の音がいやに大きく聞こえる。それくらい静まり返っているのだ。ちゃんと説明してもらって、頭では理解している。それでも突然のことすぎて受け入れられていない。

「そっか……よくわかったけど、これが現実なのか信じられないんだ。夢を見ているみたいで。だから、とりあえず助けてくれてありがとう。つぼみちゃん。」

つぼみはあどけない笑顔を見せた。

「そうだよね。こっちに来たばかりでパニックになっちゃうのはわかるよ。それにしてもー、きみ、どうして大人に追いかけられていたの?迷い込んだ魂見つけたら、普通は天ヶ埼に案内してもらえるはずなのに。」

「うん。最初はいい人かなって思ったんだけど……。名前を言ったとたん豹変して。びっくりしたよ。」

あ、ヤバイ!禁句だったっぽい名前の話しちゃった!と、焦った時にはもう遅かった。

「名前!?覚えてるの!?」

あれ?でも、大人の鬼たちとは反応が違う。つぼみは更に瞳を輝かせた。好奇心と期待でワクワクしているといった表情をしている。

「あ、そういえば、記憶を消されてって言ー…」

「お名前は?」

また身を乗り出し気味にしながら熱い視線を送ってくる。

「えっと、遥界。」

年下の少女に圧倒されながら答える。迫力はないが、こんなにもキラキラとした瞳で言われると逆らえなくなってしまう。

「遥界くん!可愛い名前だね。素敵!ねえねえ、現世の事教えてよ。こことは全く別の世界なんでしょ?」

「う~ん、まあそうだね。鬼は存在しないし。つぼみちゃんの服装だって僕から見ればすごく不思議。タイムスリップして江戸時代に来ちゃったみたいだ。」

興味津々に遥界の話を聞く姿は、まるで妹のようでとても可愛く思えた。遥界もすっかりつぼみが鬼であることを忘れていた。

「確かに、遥界くんの来ている服は不思議。それが、現世の人間が来ている服なんでしょ?じゃあ、車は?見たことないけど、車っていう機械があるって聞いたことがあるの。人間が乗ると動くって本当なの?あとは、テレビは?」

次々と押し寄せてくる質問。遥界には当たり前に存在しているものも、この少女にとっては不思議で、とても珍しい物なのだ。

「車は運転するんだ。エンジンをかけてー……」

つぼみの質問に答えようとしたときだった。ギギギッガラガラガラッッ!!!重たい扉がものすごいっスピードで開いた。

「うわあああ!?」

追っての鬼たちに見つかったのかと思い、自分でもびっくりするくらい変な声をあげてしまった。

「お兄ちゃん!今日はお仕事終わるの早いんだね。」

つぼみはお兄ちゃんと呼ぶ少年のもとに走っていく。

「お兄ちゃん?なんだぁ…」

そこに立っていたのは、自分より少し年上くらいに見える少年だった。長い布をツンツンした頭にぐるりと巻き、後ろでしばっている。布と布との間から角も見えている。

「おい、つぼみ、コイツは誰だ?鬼じゃねえだろ。」

口が悪いらしくコイツ呼ばわりされていまう。

「お兄ちゃん、手の甲を見て!番号がついてるの。このこ、人間の魂よ!」

手の甲?何の事だ?と、両手の甲を慌てて見た。すると左手の甲に番号があった。

「なにこれ……、2020810?入れ墨なんかしてないのに!」

こすってもこすっても消えない。

「いくらこすっても消えねーよ、それ。死んだとき死神が押したんだよ。死んだ日付。お前は、2020年8月10日に……」

「死んだってわけか。あの鬼たちもコレを見て、僕が魂だって判断したんだ。それに、魂は記憶を消されているはずなのに、僕は名前を覚えてる。だからつかまえようとしたーってわけか…。」

自慢じゃないけど、記憶力にはかなりの自信がある。自分が死んだなんて、まだ受け入れられないけどちゃんと理解してる。言葉に出して言ってみると、けっこう楽になれた。

「お前面白いな。でも、名前覚えてるって……。なんつーの?名前。」

「久遠遥界。」

「俺はキイチ。妹が招き入れたんだ。追い出すわけにいかねーし。でも、両親にバレたらとうなるか……。大人は子どもの言い分なんて聞きゃしねえ。」

キイチにすごく共感した。自分も、同じ考えだったからだ。大人は自分自身が正しくて、子どもの言うことなんて信じないし、聞かない。

「ねえ、お兄ちゃん。私たちで天ヶ埼まで案内してあげようよ。お母さんたちが帰ってくるまでに戻ればバレないよ!天ヶ埼にはカイトくんもいる。カイトくんなら、遥界くんを守ってくれるわ。」

つぼみがキイチの袖をつかみながら自信たっぷりに言う。しばらく兄妹2人でコソコソ話したあと、ため息をつきながらキイチが遥界の方を見た。

「わかった。お前を天ヶ埼まで連れてってやる。少なくともここよりましだ。向こうにいる知り合いなら、お前を何とかしてくれるはずだ。」

「ありがとう!でも、いいの?助けてもらったばかりだ。」

「ただし、つぼみは留守番だ。コイツは悪事を働いてないとは言え、記憶のある魂だ。大人の鬼たちに、コイツといるの見られたらどうなるか。それに、もし親父たちが帰ってきたら、お兄ちゃんはまだ帰ってきてないって言うんだ。」

つぼみは不服そうにほっぺたを膨らませ、キイチを睨みつけた。まったく怖くない、むしろ可愛い顔で。

「遥界くんを見つけたのは私なのに。私だって遥界くんを守れるよ!」

「あの、天ヶ埼までの道を教えてくれたら1人で行けるよ。これ以上迷惑かけたくないんだ。僕といるの危険なんでしょ?さっき会ったばかりの僕のために……」

するとキイチが面倒くさそうに頭をクシャクシャとかき、遥界の目の前にしゃがんだ。

「お前みたいなケガした奴、放っておけるわけねーだろ?気分悪くなる。それに、1人じゃ大人に捕まっちまうだろうよ。鬼瓦のこと、よく知らねーだろ。待ってろ。今靴持ってきてやる。つぼみは留守番決定だからな。」

キイチは部屋の奥にある階段上がっていく。

「お兄ちゃんね、荒っぽくて口も悪いけど、情に厚いの。優しいんだよ。私もついていきたいけど、お兄ちゃんがいれば安心ね。」

「いろいろありがとう。さっきから、ありがとうばっかり言ってる気がするけど。本当に助かったよ。」

「いいよ!だって友だちでしょ!」

つぼみは嬉しそうに言い放つと、階段から降りてきたキイチの方へくるりと向いた。

「行くぞ、遥界。夜になったら番犬もうろつき始める。急ぐぞ。」

「頼んだよ、お兄ちゃん。」

遥界は少しヒリヒリする足を、キイチがくれた草履へ固定する。気合を入れ、きつく結ぶとキイチが手を差し伸べてくれた。

「遠いぞ。お前、走れるか?」

「もちろん。」




霧が辺りを覆い隠し、不気味さを更にプラスしている樹海を延々と歩いていく。木々はグネグネと奇妙に曲がり、足元には見たこともない虫がうじゃうじゃとうごめいていた。

「もっとましな道はあるが、大人たちと鉢合わせる可能性もあるからな。っだから…くくっもう少し我慢しろ…。嫌でも…くっ…鬼瓦通りを通るようだ。」

虫に気をとられ、変な歩き方をしている遥界を、笑いをこらえながら言った。めちゃくちゃ足の長いムカデ…のような生物や、羽にはおぞましい柄が刻まれた蛾…のような生物。虫が苦手でなくても拒絶反応から、変な動きをしてしまうのだ。

「笑わないでよ!僕がいた東京にはこんな虫いないんだ。さっきなんて巨大なセミとカマキリの融合したような虫がいたぞ?」

「カマキリは食えたもんじゃねえけど、セミはうまいだろ。」

「信じられない…うう、吐き気が…。」

キイチの笑い声が不気味な森に響き渡る。明るい笑い声なのに、森の中でこだましていく様は、かなりホラーだ。

「つぼみのあんな楽しそうな顔、久しぶりに見た。ありがとな。あいつ、病弱でさ、友だちも少ないんだ。それでも好奇心だけは旺盛で、お前らの世界にかなり興味があるらしい。」

キイチの背中に必死でついていく遥界は、はっとして足を止めた。

「病弱?あんなに元気そうだったのに……」

足を止めたせいで、足の上を這って行く虫の感触が強まる。かなり気持ち悪い感触だったが、今はそれより気になることがある。遥界に笑無邪気な笑顔を見せ、元気にはしゃいでいた少女が病弱だというのだ。

「天ヶ埼に行けば、もっと良い治療が受けられる。でも、俺が大人を嫌悪に思うように、向こうの連中は、鬼たちを見下してる。差別だよ。でも、カイトはそうじゃない。つぼみのために、こっそり薬を持ってきてくれる。安心しろ。薬のおかげで、だいぶ元気になった。でも無理はさせられない。」

「そうだったのか…。」

「お前の気にすることじゃねえ。自分の心配だけしとけ。行くぞ。言ったろ、夜には夜行性の番犬がうろつくって。奴らにみつかったら、大人に報告される。」

虫の上を豪快に進んでいくキイチ。遥界は歩みを止めた足を再び動かし始めた。向こうの方では大きな足音を立てて大人の鬼たちが走り去っていく。そのたびに木や物陰に身を隠す。だんだんと空が重苦しい濃紺色に変わっていき、小さな物音でも敏感に反応してしまう。キイチの言っていた番犬が気になるのだ。

「鬼瓦通りが見えてきた。こっからは路地裏を通る。大人には入れねーような狭い道も通る。用心しろ。」

「うん。なんかさっきよりも鬼が多いというか……、にぎわってるね。」

いたる所で客を呼び込む威勢の良い声や、話し声が響いて、昼間の倍以上のにぎわいを見せている。ライトアップされた鳥居は圧巻の迫力で、その奥に広がる鬼の世界へ引きずり込まれてしまいそうだ。キイチが言うには、昼間より夕方から深夜にかけての時間帯の方が一番にぎわうという。客、店員以外には、遥界を探す追手の鬼たちが目を光らせているのがわかる。追手の鬼たちは興奮しているのか、肌の色が赤や青なのだ。二人は鳥居をくぐらず、足場の悪い森側から通りの路地裏へ入っていく。キイチの言う通りかなり狭く、小柄な遥界でも肩をこすってしまう。湿気やカビがひどく、建物自体もかなりボロい。少し風が吹いただけでギシギシ、ガタガタいうのだ。

「けほっ」

飲食店から流れ出てくる煙と、カビ臭さで思わずむせてしまう。

「大丈夫か?俺はこの辺に慣れてるから、あんまわかんねーけど煙いだろ。」

「それに少し寒いな。」

現世は夏真っ盛りの夏休みだったため、Tシャツに薄いパンツという簡単な服装そのままで、こちらの世界に来てしまったのだ。気温はかなり下がり、風が吹くたび鳥肌が立つ。

「夜はかなり冷え込むんだ。季節なんて関係なくな。けど天ヶ埼は年中暖かくて穏やかなとこだって聞く。鬼は立ち入り禁止だから、行ったことねーんだけどよ。」

「立ち入り禁止?どうして?」

「言ったろ。鬼は差別されてるって。礼儀を知らない鬼は、格式の高い天ヶ埼の治安を乱し、風情を台無しにするとか治安維持局が言い出したらしい。」

迷路のように狭い道が入り組んだ路地裏を、なんの迷いもなくズカズカ歩くキイチの後姿は、怒りとも、悲しみともとれない感情が映し出されていた。

「ひどいね……。そんな差別が無くなれば…」

「お前には関係ねーよ。気にすんな。」

キイチが振り向いた瞬間、遥界の背後でうなり声がした。地鳴りのようにおぞましく、犬や熊、ライオン、どの動物にも当てはまらない。数十匹いるのか、いたる所から路地裏へ響き渡ってくる。

「番犬だ。番犬っつても野生で、夜になると山から下りてくんだ。ま、いつも食い物をくれる大人の味方だ。見つかんねーうちに急ごう。」

「キイチ……もう、見つかってる……」

行く手の先に一匹の番犬が立ちはだかっていた。後ろに気を取られていたせいか、目の前の番犬にまったく気づかなかったのだ。足音すらさせず近づき、襲い掛かる瞬間を今か今かと待っているのだ。歯をむき出しにして。

「落ち着け、奴らは鬼は食わねえ。」

「鬼はって、僕は人間(の魂)なんだけど……」

あきらかに僕を狙っている。さっきから僕の方を見てよだれをたらし、黒い毛を逆立てているように見える。それも本当に犬なのか疑いたくなるほどデカい犬だ。

「遥界、合図したら壁を登れ。後ろの。ゴミ箱とか窓枠を使って登るんだ。」

「わかった。やってみる。キイチは?」

「俺は平気だ。奴はお前を食いたいんだ。」

キイチは近くにあったゴミ箱のふたを拾い上げると、おもいっきり番犬に向かって投げつけた。

「今だ!!登れ!」

遥界はゴミ箱に足をかけ、腕に力を込めて窓枠をよじ登った。背後ではゴミ箱のふたと、キイチをひらりとかわした番犬がガアアアっと威嚇の声を上げ向かってくる。壁を登る能力はないようでガリガリと壁を引っ掻いている。だが、予想以上に大きく、もっと上へ行かなければ足を引っ掻かれてしまいそうだ。

「なんなんだ、この番犬!目が1つしかない!」

路地裏はすでに薄暗く、番犬の顔なんてよく見えなかった。おまけにつかまっているパイプはギシギシときしみ、今にも壊れそうだ。

「お前らの世界じゃ、こんな生き物いねーだろっっ!」

キイチは番犬に向かって鉄パイプを振り下ろした。鈍い音がして、重たいものが地面に叩きつけられる音がした。

「降りてきていーぞ。気絶してる。でもあんま持たねーから、とっとと行くぞ。」

「すごい……怪物を倒した。足を食べられるかと思ったよ。」

ひやひやしながら倒れた番犬の横を通り過ぎる。

「こいつらはいつも腹ペコだから足くらいじゃ満足するかよ。」

「笑えないよ」

嫌味っぽく笑うキイチは楽しそうに再び歩きだした。

「楽しそうだね。僕は食べられそうになったのに。」

「こんなに楽しいのは久しぶりだ。記憶のある魂に、追手の鬼。おまけに番犬に食われそうになるときた。最高に楽しいよ。つぼみにも、俺にも友だちができたし…ありがとな。路地裏を抜けたらすぐに着く。もうちょっとだよ。」

番犬から逃げた際、かなりの体力を消耗してもうほとんど残っていない。壁によじ登るだけでも必死だったからだ。

「聞いていい?なんで、記憶のある魂は……その……」

「追っかけられたり、びっくりされたりするのかって?現世での記憶があったら、未練を思い出して戻りたくなっちまう。そうなったら魂は悪霊化して、暴れまわる。」

自分が死んだとわかったときと同じくらいの衝撃だった。もし、自分にも未練があったなら、キイチが言う悪霊になってしまうところだった。

「悪霊がここを抜け出して、もし現世へ行っちまうと大変だからな。鬼たちは必死で追ってるんだ。でもお前は大丈夫そうだな。」

「悪霊って、よく夏にやってる心霊番組にでてくるみたいなやつ?」

「心霊番組?よくわかんねーけど、そうじゃね?オバケだよ、オバケ。」

背筋がゾッとする。あんなのになんかなりたくない。でも、不思議なほど未練がない。確かに、夏休みに友だちと遊ぶ約束をしたが、そこまで仲が良いわけじゃないし、メンバーの中には苦手な人もいる。もちろん嫌いな人も。新作のゲームはつまらなかったし、テレビ番組は……見たいのがあったけど、未練ってほどじゃない。むしろ、あの世界から逃げ出せてせいせいしている。

「遥界、ほら見えてきたぜ。あれが天ヶ埼だ。」

鬼瓦通りのガヤガヤとした騒がしさが遠ざかり、風が草木を揺らす静かな音が近づいてきた。狭く、カビっぽい路地裏を抜け、深呼吸する。冷たい空気が体の中に入ってくる。

「………。」

キイチの指さす方を見上げ、思わず声を失ってしまう。そこには美しい緑と清々しい青空、それぞれを反射する湖。

「これが天ヶ埼?まったく別の世界みたいだ。」

空なんて鬼瓦と天ヶ埼で真っ二つだ。濃紺の重苦しい空から、美しい青空にグラデーションでつながっている。

「別の世界だよ。お前、本当はあっちに行く予定だったんだぜ?それがどうしたことか、鬼瓦に来ちまった。満月塔ってとこにカイトはいるはずだ。こっからでも向こうの方に見えるだろ?あのデカい塔だ。そこに行けば会える。あの橋を渡って行け。鬼は橋を渡れない。連れていけるのはここまでだ。」

「あの、京都にありそうな五重塔みたいな建物?」

「五重塔?とにかく、天ヶ埼で1番高い建物だよ。早く行け。俺も帰らねーと。つぼみが待ってる。」

早く行けという割に、急かす感じは全くない。

「左手は隠しとけ。」

そう言うとキイチは遥界の左手に手ぬぐいを巻き付ける。

「いろいろありがとう。本当に。僕、友だちはあんまりいなかったから、キイチやつぼみちゃんと友だちになれて良かった。」

「俺にとっちゃ迷惑なだけだけどな。」

2人で目を合わせると、思わず笑ってしまった。

「どうした?早く行け。あんま長居するな。大人に見つかるだろ。」

「うん……、でも、キイチたちはとても良い鬼なのに、君たちを差別する人たちの所に行くなんで……。」

キイチはあきれたように深いため息をついた。

「全員が全員、俺たちを差別してるわけじゃない。向こうにも良い奴はいるだろ。カイトだってそうだ。でも治安維持局の局長が鬼が大っ嫌いなんだよ。そういう話を聞いたことある。だから、天ヶ埼に行ったからって、敵になるわけじゃねえよ。つーか、お前と一緒にいるとこ見られた方がヤバイ。」

「ここにいても、迷惑かけちゃうだけだね…。じゃあ、行くね。ここまでありがとう、キイチ。」

キイチに言われた通り橋を渡って行く。とても立派な橋で、赤い欄干はキズ1つない。橋の下を流れる川はとても穏やかだった。そして橋を渡り終え、天ヶ埼に足を一歩踏み入れた瞬間、空気が変わったのがわかった。冷房の効いた部屋から、蒸し暑い外に出たときのように明確に変わったのだ。優しい風と、温かい空気。小川の流れる心地よい音。鬼瓦とは正反対の環境だった。

振り返ると、ゾッとするような暗く気味の悪い世界にキイチが立っていた。今まで自分もあそこにいたのだ。それでもキイチは不器用そうにひきつった笑顔を浮かべ、口を開いた。けれどもパクパクと動くキイチの口は何も発していない。

「聞こえないよキイチ!」

少し大きな声を出せば聞こえる距離であるのにも関わらず、お互いの声が聞こえないのだ。キイチはそれに気づくと大きく手を振り、闇に消えていった。

「なんて言おうとしたんだ?」




しばらく日本庭園のような美しい景色の中を歩いていくと、大通りが見えてきた。鬼瓦通り違い行き交う人々は生き生きとしていて、活気に満ち溢れている。だか、驚いたのはそこではない。普通の人間と変わらない姿の人のいるが、中には本やテレビでしか見たことのない妖怪(?)もいるのだ。遥界の横を通り過ぎて行った可愛らしい少女はグングンと首を伸ばし、すぐそこでは1つ目小僧が団子やケーキを売っている。

「鬼がいるんだから妖怪がいてもおかしくないか……?」

とにかく満月塔に行かなくては。前に進もうとしても人が多すぎて進めず、大人の力に負けて逆にあとずさりしてしまう。どんっと背中に軽い衝撃がはしった。

「ごっごめんなさい!」

「お前さんみたいなちっこいのにぶつかられてもダメージ0だにゃ。あれれ?この辺じゃ見ない顔だにゃ。どこいくんだい?」

遥界の事をちっこいと言う割に彼もかなりの小柄だ。

「えっと、満月塔に行きたくて」

「オイラも行くとこなんだ。一緒に行くかい?どうせ田舎出身で、迷子ってとこにゃ?名前は?」

(僕と同じくらいの年に見えるけど……名前は言わない方がいいかな?)

遥界が迷っていると、大きなフードをかぶった小柄な少年はニヤニヤとしながら遥界を見た。

「オイラ別に怪しい奴じゃないにゃ。このフードも耳を隠すためにかぶってるだけ。ここはうるさすぎてたまったもんじゃない。ま、言わないなら言わないでいいにゃ。オイラはコトリ。」

「ごめん……ここに来るの初めてで。」

「ふーん。じゃ、ついてくるにゃ。列車の時間が迫ってる。」

「列車なんてはしっているの?」

「お前さん、相当山奥の田舎から来たみたいだにゃ……」

コトリと名乗る少年についていくと次々と景色が変わっていった。江戸時代のような店が続く和風の景色から、ガラス張りの洋風な建物まで。キラキラとした大きな水槽で泳ぐ優雅な金魚や、涼しげな音を届けてくれる風鈴が並ぶお店。目を奪われてしまいそうだ。だがコトリはキイチと比べ、かなりのスピードで進んでいく。よく見ると、黒いフード付きの着物の上着の裾から、髪と同じグレー色の尻尾が揺れていた。

(コトリさん?も妖怪なのかな。なんだか猫っぽいし。)

コトリについていくと、駅と思われる建物に着いた。駅と言うよりも神社みたいな外観をしている。

「もうホームに来てるにゃ。」

急いで列車に飛び込む。

(列車っていうより蒸気機関車みたい)

コトリの隣に座ると、目の前に座るおじいさんに目がいった。おじいさんの左手の甲には2020728という数字があったからだ。他にも、手に数字が付いている人たちがちらほらといる。

「お前さんに教えてやるにゃ。あれは魂をおもてなししてるにゃ。」

「おもてなし?」

(そういえば、つぼみちゃんは地獄行きか、天国行きか決めてもらうまでの間すごすって言ってたな。)

確かに人間の魂には必ず制服を着た人々がついていて、楽しそうに会話をしている。

「エンマ様の裁判の順番が回ってくるまでの間、ああやってもてなすにゃ。」

そう言いながらコトリはフードを脱ぐ。

「ね、猫!?」

「失礼にゃ。化け猫って言ってほしいね。」

髪の毛の間から2つの大きな耳が生えている。パタパタと動かしている様は、ハルのうちで飼っていた猫とまったく同じ仕草だ。

(愛犬は懐いてくれたけど、どうも猫は懐いてくれなかったから苦手なんだよな……。)

そのあと、しばらくは無言の時間が過ぎていった。窓の外はキラキラと輝く湖や、その湖に浮くようにそびえ立つ山々がすぎていく。「次はどこへ行きたいですか?私のおすすめは……」というおもてなしの会話が聞こえてきた。

(僕も記憶がなければあんな風におもてなしされてたのかな?)

どの魂も幸せそうに見えた。

(それにしても、キイチやつぼみちゃん、コトリさんはどうしてこんなに優しいんだろう?)

「もうそろそろ着くにゃ。満月塔前って駅。」

「あの、どうしてそんなに親切なんですか?」

隣に座り耳をパタパタと動かすコトリ。遥界の方を見て、いたずらっぽい笑みを浮かべ、小声で答えた。

「人間の魂が1人で、しかも手の番号を隠して満月塔へ行きたいときた。なんかありそうで気になった。お前さん、満月塔に何の用だい?」

バレていた。しっかりと左手を隠していたはずなのに。動揺から言葉を失ってしまう。車内アナウンスは満月塔駅前に到着したことを告げた。

「歩きながら話そうにゃ。」

駅を出ると緑に囲まれた上り坂が現れた。コンクリートの地面には、木々の隙間から漏れた光が美しい模様を映し出している。この坂を上りきったところに満月塔があるらしい。

「どうして、僕が魂だと思うの?」

「魂の手についてる番号はにゃ、死神が死亡確認したときに押すスタンプなんだ。そのスタンプを押す死神が、気付かないわけなかろ。」

「死神!?だって、さっき化け猫だって……」

「化け猫だって死神の仕事をするにゃ。スタンプが押してある限りお前さんはバレバレだってことにゃ。」

(どうしよう……バレたからには捕まっちゃうのかな)

坂を上っていくと、両脇を埋め尽くしていた木々がなくなり、天ヶ埼が一望できる空間が現れた。

「で、何の用?」

すぐには捕まえる気はないようだ。

「カイトって人に会いたい。魂だってことを黙ってたのは謝るけど……」

「そっか。カイトなら最上階にいるはずにゃ。オイラは地下にある死神の本部に行きたいだけ。見つかるんじゃないよ?他の死神に。」

そういうと猫の姿に変化し、スタスタと行ってしまった。

「お礼、まだなのに。しかもカイトって人の居場所まで。」

満月塔の壁には様々な色彩で花が描かれており、想像以上に迫力のある外観をしている。出入口と思われる扉は遥界の身長の倍以上あり、コトリの入っていった隙間を広げ中へと進む。

「真っ暗だ……こんなところにいるのかな」

誰かがいるとは思えないほど静まりかえっている。暗く、広い空間にも関わらず、照明は小さな提灯が所々にあるだけだ。そんな空間の中心にエレベーターらしきものがあった。

「とにかく最上階へ行ってみよう。死神に見つかったら大変だ。」

エレベーターは静かに登っていき、動いているのかわからないほど何も感じない。だが一番不思議なのは、エレベーターの階を選択するボタンに地下は存在しないのだ。不思議に思っていると、最上階へ着いたことを知らせるアラームがなった。ゆっくりと扉が開くと目の前に人が立っていた。

「はじめまして。コトリから聞いてるよ。人間の魂が一人で来るって。」

短髪の美しい藍色の髪に装飾がキラキラと光っている和装姿の少年……少女?が部屋に招き入れるような動作をした。シュッとした鼻筋に、大きなアーモンド型の瞳には長いまつ毛。かなりの美形で、見とれてしまうほどだ。少し動くだけで装飾が光を反射して、とても優雅に見える。

「あのっ、えっと……」

予想もしていなかった行動と言葉に驚いた。初対面の何者かもわからない人物を、簡単に部屋に招き入れてくれるとは。もしかしたら追い返されるかもとも思っていた。

「座って。」

静かな声と優雅な動作で案内された。和風な外観をしている満月塔だが、カイトという人物が入れてくれた応接間は、フローリングにソファーと洋風だ。

(何から話せばいいかな?それに、カイトっていうから男だと思ってたのに……もしかしたら女の子?)

戸惑いと緊張でガチガチになりながらソファーに腰掛ける。

「緊張しないで。ボクはカイト。どうして、ボクの所へ?」

「キイチとつぼみちゃんに紹介してもらったんです。途中まで案内してもらって。2人が、天ヶ埼のカイトっていう人の所に行けば守ってくれるって……」

「そうか、キイチたちのご友人。てことは、鬼瓦から来たのかい?」

テーブルを挟んで目の前に座るカイトは唇に指を当て不思議そうに考え込む。キイチにも言われた通り、普通だったら魂は天ヶ埼に送られてくるはずなのだ。

「はい。目が覚めたら鬼瓦にいたんです。助けてもらおうと、名前を言ったら大人の鬼に追いかけられて、その時に2人に助けてもらいました。本当は、魂は記憶があっちゃダメなんですよね?でも僕にはあるんです。名前も覚えてる。だから鬼に追いかけられて。」

「記憶があるの!?この紙名前を書いてくれる?」

驚いて大きな声を出してしまった口を手でおさえ、カイトは1枚の紙を遥界の前に差し出した。遥界は紙に【久遠遥界】と書く。緊張しているせいか、線がガタガタと乱れ、お世辞にも上手いとは言えない字になってしまった。久遠は『くおん』と読むのだが、いつも初対面の人にはどうしても『くどう』と読まれてしまう。そんなことを思い出して、カイトに言おうとした瞬間だった。

「くおん はるかくん。」

初対面でちゃんと『くおん』と呼んでもらったのは初めてだった。

「遥界くん、どの程度記憶があるんだい?普通だったら、未練で悪霊化してしまうところだ。」

「全部あります。自分がどうして死んだかはわからないけど……。生きてた頃の記憶は完璧にあります。夏休み期間で、僕は図書館に行っていた。きっとその帰りに……。でも、何も未練がないんです。あんなところ戻りたくないっていうのが本心です。」

カイトは少し考え込むと重い口を開いた。ここで魂の記憶があるということは、かり危険なことで、簡単に判断出来ることではなかった。

「遥界くんの記憶がなぜ残っているのか調べてみるよ。今のところ、未練は信じられないくらい無いみたいだしね。時間はある。」

「あの、なんでここの人はそんなに親切なんですか?僕、ここに来てから助けられてばっかりで。生きてた頃はこんなこと無かったから。」

カイトは優しい笑顔を見せて答えた。

「困っている人がいれば手を差し伸べる。お父様が作ったルールだよ。まあ、わざわざこんなルール作らなくてもいいのにね。」

「お父さんが?優しい人なんだね。」

「うん。イメージと違うでしょ?エンマ大王。」

「エンマ大王!?……の息子さん……。」

驚いている遥界を見てカイトはニッコリとほほ笑む。

「遥界くん、本当はお父様や、治安維持局の人に報告して、対処してもらうべきなんだけどね。その……」

ほほ笑みから一転、不安そうな表情をするカイト。

背後にある窓は絵画のように美しい風景を収めていて、カイトの不安そうな表情をより一層引き立てる。

「昔、遥界と同じように記憶のある魂がカイトを訪ねてきたにゃ。その人はちゃーんと自分の名前も生前入院していたことも覚えてた。未練はないらしく悪霊化してない。カイトはルール通り大人に報告。大人なら助けてくれると思ったからにゃ。でも、大人たちは、ちゃんと調べないで魂を地獄おくり~ってことがあったから、慎重になってるにゃ。」

いつの間にか部屋に現れたコトリは、ひょうひょうとしながら恐ろしい話をした。もし、大人にバレたら、自分も問答無用で地獄送りにされてしまうかもしれない。手に変な汗をかいてしまう。

「ボクが後で調べてみると、記憶があったのは、彼が思い出したからではなく、こちら側のミスだった。それにコトリに調査してもらったら、100%天国行きであろう良い人だった。だから、大人には頼らない。安心して。」

「どうせオイラが調査するんだにゃ?それはいいけど、仕事いっぱいあるし、他の死神に内緒で動くから時間くれにゃ。あと、エンマ様に言って死神の数増やしてくれにゃ。」

「ありがとう。頼むよコトリ。それと、死神の求人をしてもなかなか応募がないんだ。」

コトリは不機嫌そうに、そして寝不足そうに壁にもたれかかる。

「2人とも、感謝してもしきれないよ。僕は、危険な存在のはずなのに。」

親切な人たちにも驚いたが、死神の求人をしていることにも驚きだ。死神という存在が最初からいるわけではないらしい。2人は目を合わせてから、遥界の方を向く。

「すぐに危険だなんて判断しないよ。」

「オイラは興味があるから。まだまだ子どもなのに何の未練もないなんて変だし、どうしてこっちに来たのかも気になるにゃ。あ、ついでに左手の番号は無効として消しといたから感謝するにゃ。」

言い終えるとコトリは黒い煙となって消えてしまった。猫らしく気まぐれで、つかみどころのない性格らしい。遥界が左手の手ぬぐいを取ってみると、確かに数字は消えていた。

「遥界くん、原因がわかったら次の対策を考えよう。それまでここに住むといい。怪しまれないように仕事もしてみる?けっこう楽しいかもしれないよ。」

以外にも無邪気な笑顔を見せるカイト。大人っぽくてクールな印象しかなかったからか、とても可愛く見える。

「いくつか聞きたいんですけど、名前を言わなければ記憶があるってバレずにいられるんじゃないかなって思って。コトリさんも、そこまでは気付かなかったみたいだし……。」

「エンマ様にはバレてしまうよ。それに記憶を消せばそれでいいってわけにもいかないんだ。記憶を消すには現世から天界へつながる扉を通る必要がある。こっちへ来てしまったからには、もうそれは出来ないし……。」

「そっか……。そう簡単には解決しませんよね。」

「そうだね。遥界くんはもうすでに、その扉を通っているのに記憶は消えていないわけだから。でも安心して。天ヶ埼はとても良いところだから。きっと気に入るよ。」

この先、自分がどうなっていまうのか、不安ばかりが脳内を埋め尽くしている。だが、それ以上にキイチやつぼみ、コトリそれにカイト、友だちと言える存在が出来たことが嬉しかった。出来ればずっとここにいたい。そう思ってしまった。




遥界にあてがわれたのは、現世での自分の部屋とは比べ物にならないくらい広くてきれいな一室だった。子どもなら余裕で3人くらい眠れてしまいそうな大きなベッド、ピカピカのフローリングにセンスの良い和風の壁紙。障子を開ければ天ヶ埼が一望出来る大きな窓が現れる。窓の外の世界は美しい夕焼け色に染まり、部屋の中まで美しく色をつけていく。鬼瓦ですでに日が暮れるのを見ていたため、時間間隔がおかしくなってしまう。

「こんなに良い部屋じゃなくてもいいのに……。いろいろ助けてもらった挙句、居候させてもらってるのに……」

「気にしないてっで言ったでしょ?あれ、ノックしたの聞こえなかったかな。遥界にコレを渡しておくよ。その服じゃ、天ヶ埼だと目立ってしまうから。きみの世界で言うじんべえみたいなものだよ。」

「すみませんっ服まで」

「遥界はここに来たばかりなんだ。どんどん頼って?あと、敬語はなし。カイトでいいから。じゃあ、何かあったら声かけて」

そう言うと部屋を出て行ってしまった。さっきも、「自分のことはカイトでいいよ。敬語もいらない。ボクも、遥界って呼ぶから。」と、言われたのだ。だが、自分と同じくらいの年なのに、しっかりしていて聡明なカイトを見るとなかなか呼び捨てなど出来なかった。

「親切すぎて逆に怖いな……。現世には、あんな良い人いなかったからなー。こっちの世界ではあれが普通なのかな。僕が男か女の子なのか聞いたときも怒らず男だって答えてくれたし。」

今思っても、なんて幼稚で失礼なことを聞いてしまったんだろうと、少し後悔している。幼稚ないたずらをして楽しむ同級生を見て、子どもっぽいと思っていたのにと、ため息をつきながらベッドに飛び込むと、思っていた以上のふかふか加減に張り詰めていた神経がいっきに緩み睡魔が襲ってきた。

(眠くなってきちゃった……)

思い返せば今日1日で1年分の体験をした。かなりの疲れがたまっていたらしい。

(死んでいても疲れたりするんだ……ちょっと驚き。)

遥界は「大丈夫。今日だって優しい人たちのおかげで、けっこうすんなりと事が運んだ。明日も大丈夫。」と、自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返し眠りについた。


昨日閉め忘れた障子の隙間から、朝日が差し込む。まぶしくて寝返りを打つ。よっぽど疲れていたのか爆睡してしまった。遥界が起きたのはちょうど昼の12時だった。

「もうこんな時間!?」

飛び起きると、なかなか慣れない広い部屋が視界を埋め尽くす。やっぱり、もう少し狭い部屋にしてもらおうかと考えながら、カイトが持ってきてくれた服に着替える。

「こんなに寝坊したことなんてないのに……。」

独り言を言うと、いつもは足元に駆け寄ってくる愛犬がいないことを思い出す。1番遥界になついていたため、お散歩はいつも自分の仕事だった。いつもなら、休日は8時くらいにお散歩をしていたため、ほぼ寝坊はしたことがない。

「やらなきゃならない事がたくさんあったはずなのに。きょうからやることがない……ヒマになっちゃった。」

ふと、昨日カイトは怪しまれないように仕事もしてみるかと言っていたことを思い出す。遥界はカイトを探そうと部屋を出た。昨日、満月塔の中を案内をしてもらったため、どこに何の部屋があるかは完璧に覚えていた。地下には本当に死神の本部があるものの、死神でしか入れないことも。

「この時間なら、応接間にいるかも。昼間はだいたい苦情とか相談を、応接間で聞いてるって言ってたしな。」

カイトの仕事は、天ヶ埼で働く人や、住んでいる人の相談を受けて、解決するという役割らしい。しかも、今日あったことを全てエンマ様に報告。自分だったら一週間も我慢出来ずリタイアしてしまうだろうと尊敬した。

「誰かいるかな?」

ドアに近づき、中の話し声に耳をすませた。

(なんか盗み聞ぎしてるみたいだけど、これは中に人がいるかどうかの確認で……)

「入っていいよ、遥界。今、ひと段落したところだから。」

応接間にいると思っていたカイトは、なんと背後から話しかけてきたのだ。

「カイトッさんっこ、これは盗み聞ぎではなくそのー……」

どう言い訳しようと、今の状況は盗み聞ぎしているようにしか見えない。

「わかってるよ。どうしたの?疲れているだろうから、まだ部屋にいて良いのに。」

動揺を隠せない遥界とは対照的に落ち着いているカイト。応接間の扉を開けると、先ほどまでだれかいたらしく、ティーカップが二つ置いてある。

「カイトさー…カイト……くん。昨日さ、仕事をしてみるってかって言ってましたよね?僕、やりたいです。何かしていれば気が紛れるだろうし。なんでもやります。」

「君はすごいね。こっちの世界に来てまだ1日なのに。」

「だって、僕のいた世界よりずっと良い。それに、部屋に閉じこもっていても仕方ないし。」

自分に言い聞かせるように言った。

「遥界が自分で決めたことなら、ボクは応援する。ただし……」

「ただし……何?重労働でもなんでもしますよ!」

「仕事をもらうには、エンマ様の所へ行かないといけないよ。」

「そ…そうなの?バ、バレちゃうかな?」

「バレないと思うよ。エンマ様も、手の甲の数字を見て魂だと判断しているから。」

人間の魂としてエンマ様に会えば、異変に気付かれてしまう。だが、手の数字を消してもらった今、魂だとバレないため、記憶があっても異変に気付かれないというわけだ。

「遥界、大人の鬼に名前を言ったって言っていたから。もしかしたら顔を覚えられているかもと思ってね。」

「そうだった……、確か、鬼瓦にいる鬼はエンマ様の所で働いてるって。」

「大丈夫。考えがある。」

そう言うとカイトは遥界を連れて別室は移動した。


「カイトくん……これで本当に平気なのかな……。」

「見た目を変えてしまえば気付かれないさ。でも、名前は覚えているかもしれないから、そうだな、ハルはどう?」

「名前はそれでいいんだけど……」

遥界、ハルの黒い髪は白く染まり、覆いかぶさった前髪は金色の高価そうなピン留めで全開にされてしまった。おでこに前髪がないと、視界が思った以上に広く落ち着かない。

「エンマ様は毎日裁判で忙しいんだ。鬼たちは遥界の事を、じゃなかったね。ハルの事を報告しているだろうけど、エンマ様は細かい事を気にしないから。じゃあ、行こうか。午後からの相談は別の人に頼んだから。」

自信たっぷりの笑顔を見せるカイトに背中を押されて、白髪に和装と慣れない姿でハルは満月塔を出た。

外は心地の良いそよ風が吹き、まるで春のような穏やかな気候をしてる。

「天ヶ埼は今、春なの?」

「天ヶ埼には、季節はないんだ。エンマ様の気分次第さ。今日は夏が良いとか、雨が良いとか。今日は春の気候で、青空が広がっているけど、明日は真冬かもしれない。」

「そういうシステムなんだ。」

そんな会話をしながら昨日、コトリと下りた列車の駅に着いた。

「列車で行くのか。ていうか列車で行ける所にエンマ様がいるの!?」

まったく想像が出来ない。

「閻魔鏡駅まで行って、そこからはエレベーターに乗り換えるんだ。」

もう、こちらの世界にはついていけない。エンマ様のいるところへはエレベーターを駆使して行くらしい。

列車がホームに着くと、昨日とは違う車両に乗り込む。その号車だけ金色のラインが引かれ、特別であることはすぐにわかった。車内はというと、お屋敷の廊下のような通路が続いていく。

(高級列車なんて乗った事ないけど……、高級なのはわかる。さすがエンマ様の息子。)

「普通の席で良いって言ってるんだけどね。ボクが列車に乗るといつもこの車両に案内されるんだ。」

「エンマ様の息子の特権だね。」

カイトは苦笑いすると、案内された一室に入った。

「閻魔鏡駅まで時間がかかるからくつろいで。途中で湖の上にある駅や、いつも雨が降っている森林駅にも止まるんだけど、運が良ければ人魚や河童に会えると思うよ。退屈はしない。」

「河童!?なんかタイムスリップしただけじゃなくて、ファンタジーの世界に来ちゃったみたいだ。」

列車がゆっくりと動き出すと、見たこともない世界が次々と現れては消えていく。過ぎていく景色を見るカイトの横顔は、女の子と見間違うほどだ。

「ねえ、ハル。聞いていいかな?」

列車の音にかき消されてしまいそうなほど、小さな声で言った。かろうじて聞き取ったハルは首をかしげてカイトを見た。

「なんですか?」

「君は、どうして未練がないんだい?なんだか、向こうの世界が嫌いみたいだけど、関係あるのかな?」

自分のために手を尽くしてくれている人の質問、答えないわけにはいかない。それに、カイトなら理解してくれるかも、と思った。

「僕、生きていたころは……、あまり良い思い出がなくて。だから、戻りたくない気持ちが大きいんです。」

話し出すと、今まで我慢していた感情がいっきに流れ出して止まらなくなった。両親は、勉強もスポーツも万能な出来の良い兄を大切にしていた。誰からも比べられ、劣っていると判断された。たとえ、頑張ってテストで九十点を取ったとしても、「お兄ちゃんなら百点を取れたのに。」だとか、「なんの努力もしていないから、そんな点しか取れないんだ。」と言われた。学校でもそうだ。先生は裏でこっそりと「本当に兄弟なのかしら。勉強の出来が違うわ。」と言われた。大人は比べることしか出来ないのかなって、すごくムカついた。ある日お母さんに「どうしてそんなに兄弟で比べるの?」と聞いたことがある。すると「あなたにも、お兄ちゃんのようになってもらいたいからよ。今お勉強を頑張っておけば、将来役に立つわ。」と返ってきた。僕は絶対にお兄ちゃんみたいにはなりたくないのに。兄弟仲は良くない方だった。だから、キイチとつぼみちゃんを見て、こんなに仲の良い兄妹がいるなんて、と驚いた。

「そうか、比べられて辛かっただろうね。自分と他人は別なのに……、大人は比べて優劣をつけてしまう。」

「でも、理解してくれる人もいたよ?おばあちゃんは、すごく優しくて僕の事、誰とも比べない。すごく会いたいと思うよ。おばあちゃんの事を考えると、心がザワザワして、もしかしてコレが未練なのかもって怖くなる。」

「おばあちゃん?名前は?」

「さくら。だから僕は春が好きなんだ。」

窓の外を過ぎていく世界はまさに自分の好きな春だ。ところどころピンク色に揺れる木々が見える。きっと桜だろう。

「そ……そうなんだ」

深刻そうに眉をひそめるカイトに、ハルは気付かなかった。

「うん。でも、あの世界に戻ると思うと未練は消えるんです。」

未練が消えるのは、夏休み直前に起きた事件も一つの原因である。その事件というのが…………

7月も半ばに差し掛かり、夏休みが近づいてきた。学校では浮かれた生徒が旅行の予定を自慢して回っている。

「遥界ってさ、5日空いてる?お母さんにプールに連れて行ってもらうんだけど、仲が良い遥界を誘っていいって言うからさ。」

同じクラスで一番仲の良い友だちからの誘いだった。眼鏡にきっちりと切りそろえられた前髪、ザ・真面目な天才くんといった見た目をしている。

「5日?空いてる空いてる!今日お母さんに行っても良いか聞いてみるよ。」

小学生として最後の夏休み。友だちとたくさん遊ぶ予定を立てて、遊びまくるぞって思っていた。

「遥界と正プール行くのか?良いじゃん!俺らも一緒に行こうぜ。」

突然、穏やかな空気を台無しにして割って入ってきたのは、クラスでも逆らえる人がいないいじめっ子の貴明だ。少しでも彼の気に食わないことをしてしまったり、申し出を断ったりすれば暴言を吐きながら、手を出してくる。この前なんて、掃除をさぼるどころか、邪魔してくる貴明を軽く注意した学級委員長の女子が、髪の毛を引っ張られたりして泣いてしまうという事件が起きた。

「いつ行くんだよ。」

取り巻きの1人が正に聞く。

「え……、でも」

「さっき5日って言ったの聞こえてるんですけど。何?俺らとは行きたくないっていうのか?」

もう1人の取り巻きが正を攻めるように言った。卑怯な性格でたちが悪い。

「おい、正、お前って俺のこと嫌いなわけ?地味眼鏡のくせに。」

嫌いに決まってるだろ。逆にお前のこと好きな奴がこのクラスにいると思ってるのかよ。親が地位の高い人間だからって調子乗っちゃって。甘やかしすぎなんだ。この間の事だって。委員長が先生に言ったところで、先生は信じなかった。大人は貴明のいじめに気付いちゃいない。気付いたとしても、見て見ぬふりだろう。クラスの噂では、貴明の親が先生に頼み込んで見逃すようにしてもらっている、なんて聞いた事がある。

「何とか言えよ、地味眼鏡!」

ここで一緒に行こうと言えば、この場は収まる。だが、夏休みの楽しい予定が地獄の1日になってしまう。教室は静まり返り、目をつけられてしまった正に対して哀れみの視線が送られてくる。全員、自分じゃなくて良かったとか思ってるんだろうな。

「別に仲が良いわけじゃないだろ。いつも僕たちの事バカにしてさ。貴明くんが言う、地味眼鏡とチビと一緒にプールに行くんだったら、君たちだけで行ったら?僕だって人の事バカにしてくる人たちと夏休み中にまで会いたくない。」

思わず本音を言ってしまった。自分でもヤバイと思いながら、心のどこかで物足りなさを感じた。もっと言ってやりたいと思ったからだ。でも教室はザワザワとしはじめ、正も僕の方を見て口をポカンと開けていた。

「お前……貴明くんになんて事言うんだ!」

取り巻きに胸ぐらをつかまれ、顔に向かって筆箱を投げつけられた。でも、運良く昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。貴明も先生に見られるのはヤバイと思ったのか、大人しく席に着いた。

「大丈夫?」

正が心配そうに言ってくれた。

「今のところは。」

心臓がドキドキしている。あまり大丈夫ではなかったからだ。あの問題児の貴明が、このまま終わるはずがない。でも、その後は何事もなかったかのように平和に時間が過ぎた。今まであんな事言われなかったからびっくりして何も出来ないんじゃないかな、と正は言うけど、安心出来なかった。

「遥界、今日委員会あるっけ?」

「うん。正は今日図書委員会の集まりないんだよね。」

「委員会はないんだけど、塾があるから先に帰るね。」

「うん。じゃ、また明日。」

「明日ね。……遥界、今日はありがと。」

正が帰った後、急いで保健室へ向かう。保健委員会はいつもそこで、集会を開き、話し合いをしている。ほんの数分の話し合いが終わり、保健室を出ようとした時、廊下から聞きなれた(出来れば聞きたくない)声が聞こえてきた。

「遥界、ちょっと来いよ。」

貴明と取り巻きたちだった。半ばむりやり人気のない廊下に連れていかれた。どうせ暴言を吐いて幼稚な脅しをしてきたり、物を投げつけてきたりして、満足すればそれでお終い。と、いつも通りの行動かと思った。でも、取り巻きの1人が体育の授業で使うバットを貴明に手渡した。

(バット!?本気なのか?こいつら思っていた以上に危険だよ)

「な……何する気?」

廊下の行き止まりに追い詰められて逃げられない。

「安心しろよ、バットで暴力をふるうなんて事しないから。」

当然だ。こんなの犯罪だよ。

「じゃあ、そのバットは……」

すると貴明はバットを窓ガラスに打ち付けた。ガツンという大きな音が廊下に響き渡り、窓ガラスにはヒビが入っていた。

「ガラス割るのはヤバイからな。ちょっとヒビ割れにするだけだ。」

そう言うと、バットを僕の足元に転がした。あっけにとられていると、取り巻きの1人が先生を連れてきた。

「先生、俺たちは止めたんですけど、遥界がバットでイタズラして……」

と、貴明が嘘をついた。

「本当か、久遠くん。」

先生が冷たく聞いてきた。

「違います!貴明くんがやったんです。僕に罪を擦り付けようとしてるんだ!」

「やったのは遥界です、先生。遥界くんが悪ふざけしたんです。おれ見ました。」

取り巻きが次々と証言していく。

「久遠くん、こんなに目撃者がいるんだぞ?まだ言い訳するのか?とにかくご両親に学校へ来てもらおう。君たち、ケガはしていないか?」

先生は……大人は自分が正しいと思っている事、信じている事を真実だと言って子どもに言い聞かせる。不満や意見があっても、子どもは大人の言う事を聞かなければならない。大人はそれを当たり前だと思っている。

お父さんとお母さんが来たら、僕の話を聞いて信じてくれるかと思った。実際、最初はそんな事するわけないと信じてくれた。でも、目撃者(貴明とグルの取り巻き)の嘘の証言や、貴明のモンスターペアレントによる攻撃を受けて、僕は窓ガラスを割った犯人になってしまった。

「遥界がガラスを割るなんて信じていないけど、目撃をしたって子がいるし、昼休みにケンカしていたって聞いたわ。何があったの?」

先生に謝って、僕がやったことを認めてからそんな事を言われても腹が立つだけだ。ただ、みんなが貴明を信じてしまうのも納得が出来る。まず、僕が窓ガラスを割るのを見たという目撃者。貴明という誰も逆らえない人物が黒幕ってとこ。昼休みの事に関しては、ケンカってほどじゃないけど、貴明は「一緒にプールへ行きたいと僕に言ったら、仲間外れにされ、夏休み中にまで会いたくないとひどい事を言われた。」と、親に言ったらしい。それを聞いたモンスターは、先生と僕の両親に、これはいじめじゃないんですか?と迫ってきたらしい。次の日、クラスメートは先生から、昼休みの事に関して質問された。本当にケンカだったのかとか、僕が貴明にひどい事を言ったのは本当か、と。ここで、クラスのみんなが味方になって、あれはケンカじゃない。逆に、貴明が正をいじめていたと言ってくれればと期待した。でも、誰も声をあげなかった。貴明の敵になれば、自分が目をつけられ、いじめられてしまうかも。そう思ったからだろう。でも、正は本当の事を言ってくれるだろうと信じていた。信じていたから、裏切られてショックだった。

その日の放課後。いつもだったら正を含む友だち5人で帰ってるけど、みんなの姿がどこにもなかった。僕と一緒にいたら、僕の味方だと判断され、貴明にいじめられてしまうとわかっていたからだろうな。

「逆に……一緒に帰るのも気まずいけどね。」

下駄箱を開けると、配られたプリントがクシャクシャになったものや、食べ終わったお菓子の袋とかが詰められていた。

「最悪……」

クタクタになって家に帰ればお父さんのお説教。何もわかっちゃいないのに。

「貴明くんや傍にいた子がケガでもしたらどうするつもりだったんだ。」

ケガしたかもしれないのは僕だよ。

「それに、友だちを仲間外れにするなんて。」

仲間外れになっているのも僕だ。

そして1週間も経たずに夏休みが訪れた。ナイスタイミング。学校に行かなくてすむ。まあ、家にもいずらいんだけど。

「お前の弟、キレて窓ガラス割ったってほんとかよって、友だちに面白がられてるんだけど。」

兄も嫌味を言ってくる。あれ以来、正とは一言も話していないし、メールでもやり取りをしていなかったため、5日のプールの約束は、何もなかった事になってしまった。でも、8月の6日から9日まで、遠方に住むおじいちゃんとおばあちゃんが泊まりに来た。おじいちゃんは厳しい人で、僕の事怒ったけど、おばあちゃんは僕の唯一の味方。話を最後まで聞いてくれて、僕の無実を信じてくれた。

「誰も信じてくれなかったのに、おばあちゃんはどうして信じてくれるの?」

おばあちゃんはやさしく微笑むと、僕の頭をなでながら話してくれた。

「はるちゃんが言うことは全部信じているよ。おばあちゃんもね、子どものころ、大人の人に信じてもらえない事があったの。でもね、お兄ちゃんがいっつも味方になってくれたのよ。」

「おにいちゃん?でも、おばあちゃんに兄弟なんていたっけ?」

会っていれば忘れないはずだ。でも、まったく覚えがない。

「おにいちゃんはね、おばあちゃんが子どものころ亡くなってしまったの。おばあちゃんは、ちょうど今のはるちゃんと同じ年だったわ。」

「初めて聞いた……」

「そうね。いつかは話そうと思っていたんだけど、はるちゃんは、おばあちゃんのお話信じてくれるかしら?」

「もちろんだよ。聞かせて?」

クーラーの効いた部屋でおばあちゃんは不思議な話をしてくれた。

「昔見た、とても不思議な夢なんだけれどね、目を覚ますと、とても美しい世界にいたの。煌びやかなお着物を着た人や、美しいドレスを着た人たちがたくさんいたわ。すぐにおにいちゃんを見つけ、家に帰ろうと歩き回ったわ。すると、1人の男の人が、ある場所へ案内してくれた。そこには大勢の人が行列に並んでいたの。そこで初めて、自分たちは天国にいるんだって気付いたの。そして、ついにエンマ様に会ったの。ずいぶん長い時間が経っていたわ。」

「夢の中で天国に行ったの?しかもエンマ様まで?」

「そうよ。とっても不思議でしょ?」

おばあちゃんの不思議な話にどんどん惹きこまれていく。

「すると、エンマ様は、記憶があるなんてどういうことだ?と、慌てだした。」

「記憶?エンマ様はどうして慌ててたわけ?」

「わからない。よく覚えていないの。まだ小さかったから。夢から目が覚めると、おばあちゃんは病院のベッドにいたの。そこで、おにいちゃんが亡くなったことを知らされた。」

「そうだったんだ……」

なんて言えばいいのかわからなくて僕はうつむいた。

「おばあちゃんね、それを聞いて、あれは夢じゃなかったんだって思ったの。私は戻ってこれたけれど、お兄ちゃんはエンマ様の所から戻ってこれなかったんだって。」

「おばあちゃん、僕、その話信じるよ。」

「ありがとうはるちゃん。」

次の日、おばあちゃんは帰ってしまった。でも、夏休みの後半になれば今度はこっちから尋ねる予定があったし寂しくはなかった。ただ、やっぱり家にはいずらかった。自分からお母さんのことを避けていたし、兄は相変わらず嫌味を言ってくるし、お父さんとは仲直りをしていない。だからあの日、僕は外出したんだ。


現世であった嫌な事や、耐えられなかった事を全て話し終えると楽になれた。出会って間もないカイトだが、不思議と気を許してしまう。

「カイトくんがお兄ちゃんだったら良かったのに。」

ぽつりと思っていたことを言ってしまった。自分でもびっくりして、慌てて否定しようとカイトの方を見た。

「じゃあ、お兄ちゃんだと思っていいよ。」

カイトは嬉しそうに言った。

「いや、失礼にもほどがあるよね……今のは忘れて!」

別に良いのにとカイトが笑顔を見せる。あまりにも優しい笑顔で見とれてしまった。

(なんか……すごく安心する笑顔だ。なんでだろ……。)

「ハルは12歳なんだっけ?ボクは14歳だから、お兄ちゃんだよ。ちなみにキイチも同い年。お兄ちゃんなんて呼ばなくて良いから、ね?」

「う…うん。なんか恥ずかしいな……」

「現世で辛いことがたくさんあったんだね……。だから戻りたくないと思うと、未練が消えてしまう。」

「向こうの世界に戻ったら、夏休みが終われば学校に行かないといけなくなっちゃう。しかも悪い大人がたくさんいる世界だ。」

ハルはふと窓の外に目を向ける。

「ねえ、もしかして、カイトくんがさっき言ってた、いつも雨が降ってる駅?」

気付くと外は雨の降る世界に変わっていた。窓に張り付き列車の行き先を見てみるといくつもの山々が目に入る。

「河童!河童いるかな?」

期待にワクワクする。本やテレビで見るような姿をしているのか、はたまた、全く違う姿をしているのか。

「河童って頭にお皿乗せて、甲羅を背負ってて、足ひれがついてる?」

「鋭いくちばしと、トカゲみたいな尻尾もね。」

森林駅が近づくと、水中から生えてくる木や、奥深くまで見える透き通った水と、その中を泳ぎ回る見たこともない魚。

「木の上に登っていることもあるよ。」

「河童って木登りするの?」

森林駅に到着すると、誰かが乗車してきたようだ。ペタペタと変な足音を立てている。

「もしかして河童?」

「かもね。水筒を持って遠くへ出かけたりもするらしいから。」

河童らしき人物が乗り込んでから、30分以上経過した。

「あと15分くらいで着くから。良い?ハルは、天ヶ埼から遠く離れた実りの村出身のボクの友人。何か聞かれたら、ボクが答えるから安心して。」

「う……うん。」

さっきまでは、もしかしたら河童や人魚に会えるかもと、心躍らせドキドキしていた。だが、今はこれからエンマ様に会うと思うと緊張でドキドキしている。

「鬼もいるって思うと緊張が倍増する……。」

「追いかけられて怖い思いをしたからね。でも、鬼=悪い人たちってわけじゃないから大丈夫。記憶がある魂を前にして、彼らもびっくりしちゃったんだよ。過去に、悪霊化して暴走した魂を見たことがあるから。」

鬼だからといって悪者と決めつけたくはない。ただ、追ってきた大柄の鬼がトラウマレベルで恐ろしかったのだ。列車を降り、水族館のように大きな水槽に囲まれたホームを歩いていく。日の光が差し込み、水が輝いている。突き当りにエレベーターらしき扉が見えた。テレビで見た高級ホテルのエレベーターみたいだ。

「これに乗って最上階まで行くんだ。」

カイトに続きエレベーターへ乗り込む。四方が鏡でできている金ピカのエレベーターは、音も立てずに最上階へ昇っていく。静かなエレベーターの中では、心臓の音が周りにも聞こえてしまいそうだ。

(心臓が体のどこにあるのか、はっきりわかる……。)

エレベーターはあっという間にハルとカイトを最上階へ連れてきてしまった。

(心の準備がまだなのに……。最上階っていうから、もう少し時間があるかと。)

ドアが静かに開くと、そこにはレッドカーペットが奥まで続く廊下が現れた。

「すごい豪華だ。これ、大理石ってやつかな?」

天井からは華やかな装飾が施されたシャンデリアが光を放っている。

「お待ちしていました、カイト様。」

とても丁寧な口調で話しかけてきたのは、エレベーターの両脇に立っていた男性2人だ。ピシッと制服を着ている。よく見ると2人とも角が生えている。

「エンマ様は、只今裁判中のため、エンマ様のオフィスでお待ちください。」

「ありがとう、2人とも。」

(なんだか、鬼瓦にいた鬼とは全然イメージ違うな。)

1本角の鬼は年を重ね、ザ・ベテランといった見た目をしている。2本角の鬼は、仕事の出来るエリートの青年という感じだ。

「お父様のオフィスはこの奥だよ。大丈夫?ハル、顔色悪いよ。」

「緊張で……。いきなり鬼の人に出迎えられたから。」

「お父様が来るまで少し休むといいよ。」

真っ白い壁が続く長い廊下。等間隔で豪華なシャンデリアがつる下がっている。歩いても歩いても、前に進んでいない感覚になる。すると水の流れる音が聞こえてきた。廊下の突き当りを左に曲がると、突然広いスペースが現れる。

「噴水?」

広間の真ん中に噴水があった。真っ白な彫刻の女性が水瓶を持っていて、そこから水が流れてくる。

「気にしないで、お父様の趣味なんだ。」

カイトが苦笑いしながら、噴水を挟んで反対側にある、ひと際豪華なドアを開けて入っていく。大理石の床の先にこれまた豪華なカーテンで隠されたスペースがある。

「座って。お水持ってくるから。」

「ごめん。」

カーテンの方を向くようにソファーが配置されていた。座ってみたものの落ち着かない。カイトの持ってきてくれた水を飲もうとするも、喉を通らない。無理矢理飲もうとすると、喉の変な方に入ってしまい、思い切りむせてしまった。

「ゲホッゲホッ!」

「無理しないで、ゆっくり飲んで。」

緊張のしすぎで1分も1時間に感じる。そしてその時が来てしまった。カーテンの奥で重たいドアが開く音がしたのだ。どっしりとした足音が近づいてきて、カーテンにも影が映し出される。揺れ動く巨大な影は、鬼なんかよりも迫力満点で、ハルがイメージしていたエンマ様そのものだった。

「突然訪ねてくるなんて珍しいじゃないか。どうかしたのか。」

重低音で、ガラス瓶を簡単に割ってしまいそうな声。これもイメージ通りだ。

「ボクの友人が天ヶ埼で働きたいそうです。今、天ヶ埼では人手不足が問題です。彼を雇ってはくれませんか?まだ12歳ですが、きっとお役に立ちます。」

考えているのか少し時間を置き、また重たい声が聞こえてきた。

「少年、名は何というのだ。」

「ハルです。」

想像以上に小さい声しか出なかった。

(落ち着け!名前を聞かれただけじゃないか。それに、少し怖い声をしてるだけで、めちゃくちゃ優しい人かもしれない。)

「ハル、良い名だ。だが、12の子どもに働かせるわけにはいかないんだがな。」

またエンマ様は黙ってしまった。するとカイトが小声で教えてくれた。

「お父様は子どもが働くのに反対なんだ。本当はね。でも、人手不足が深刻で。エンマとしての仕事が忙しくて、なかなか手をつけられていない。」

「そうだったんだ。」

「今は、雇用問題を古い友人でもある治安維持局局長にまかせっきりでね。その人が子どもだって働く権利があるって言いだして。それからというもの、幼い子どもまで働くようになってしまったんだ。」

本当は子どもを働かせたくないものの、友人にまかせている上、自分は裁判で忙しく問題解決の対策に手をつけられないでいるらしい。

(そうだよな……12歳の小学生が働くなんて、日本ではないからな……。)

長い沈黙が終わり、エンマ様が結論をだした。

「今、魂案内人の人手不足がもっとも深刻だ。その仕事で良ければ、明日からでも働ける。だが、責任が重い大変な仕事でもある。それでも良いかい。」

(魂案内人?もしかして、電車で見た、魂をおもてなししている人たちのことかな?)

「お主くらいの子どもも数名働いている。わずか3日でやめてしまった大人もいる。どうする。」

「やります。やらせてください。なんでもやるって言ったんです。」

はっきりと言い切ったハルの姿を見て、カイトは驚いた。さっきまで緊張して青ざめた顔をしていたハルとは思えなかった。

「よし、わかった。責任者に伝えておこう。」

「ありがとうございます!」

部屋を出ると、体が軽く感じた。

「はぁぁぁぁぁ。さっきまでの緊張が嘘みたいだ。明日から働けるんだね。」

「まるで別人だね。」

長い廊下も、さっきとはまるで別の場所に思えた。

「うん。なんか、エンマ様はイメージ通りだったけど、イメージと違って優しかったから。」

エレベーターも広く感じる。気持ち1つでこんなにも世界は変わるのものなのかと感じた。

「エンマ様がなぜ、カーテンに隠れて姿を現さないと思う?」

「え?どうしてだろ……。」

「エンマ様ってどんなイメージ?」

「背が高くて、立派な髭を生やしていて、眉間にしわがよっていて怖い顔してるってイメージかな。あと、牙が口からはみ出しててて、目がギョロギョロしてる。どう?当たってる?」

カイトは楽しそうに笑いながらお腹を抱えた。そしてハルの顔を覗き込むと、衝撃の事実を口にした。

「エンマ様はね、かなりの小柄なんだ。ハルよりも身長が低くてね、大きくて二重の可愛い目、髭は生やしているけどー……おとぎ話に出てきそうなフワフワの髭。」

「嘘だ。だってあんな影が大きかったのに。声だって……。」

「影は光の加減で大きくも小さくもなるよ。大きく見えるように工夫してあるんだよ。あと、声は隣で秘書の鬼の人がしゃべってるんだ。すばやくメモ用紙や、パソコンにセリフを書き込んでね。自分でも気にするくらい声が高いんだ。なんていうか、秘書の鬼の方が、ハルのイメージに近いかな。」

「嘘でしょ!?だって、すごく怖い見た目の、その、エンマ様を想像してたから余計緊張しちゃったんだよ!もっと早く言ってよカイト!」

緊張して損した気分だ。今ではもう、怖いエンマ様のイメージより、カイトの話したおとぎ話の住人のようなイメージしかない。可愛い髭と目をした小人、じゃなくてエンマ様。

「ハル、絶対に秘密だよ?」

人差し指を口に当て、カイトがイタズラっぽくほほ笑んだ。

「わかった。絶対に言わない。」

帰り道はずっとカイトとしゃべりっぱなしだった。ハルの話す現世の話や、カイトが教えてくれる天界の事。カイトが言うには、天界には、天ヶ埼といういわゆる都心を中心に、鬼瓦の他にいくつもの地区があるらしい。今日通ってきた、森林駅も雨林界という1つの地区らしい。

「日本は47都道府県しかないけど、天界には50の地区があるんだ。ハルの出身という設定の実りの村というのも多菜農園という地区なんだ。野菜や果実、植物にとってとても良い環境なんだ。」

「気になったんだけど、なんでその多菜農園地区を選んだの?僕の出身に。まあ、僕、農業とか植物とかに詳しい方だけど。カイトに話したっけ?」

(おじいちゃんが農家で、小さいころから手伝ってるから自信はあるんだよな。)

カイトは少し焦ったように驚きながら、しどろもどろと質問に答えた。

「いや、と、とても良い地区で、ボクも大好きな場所だから。勝手に選んじゃったんだ。エンマ様、出身とか聞かなかったから、ハルの好きな出身地を選んで良いよ。はら、ハルの世界には、履歴書っていうがあるでしょ?雇ってもらう人に、自分の事知ってもらうために書く書類。こっちの世界にも似た物があるんだ。それに記入するから。」

「それなら多菜農園地区でいいよ。」

(カイト、どうしたんだろう……。いつもより早口でしゃべりだすし。)

「そういえばー……、ハル、さっきからボクの事カイトって呼んでいるね。今朝はカイトくんだったのに。」

話題を変えようとカイトが少しからかうように言った。

「あっ嘘、ほんと?全然気づかなかった。失礼だったかな。」

「昨日からカイトでいいって言ってるでしょ。それに、自分が今白髪って事もすっかり忘れている。」

「そうだった!気にしなければ白髪なんてどうでも……」

心に余裕ができてきたせいか、いろいろな事に気付く。

「別に白髪じゃなくても良かったんじゃないかな?茶髪とかさ。」

「黒髪から1番遠い髪色は白髪かなって。」

「そんな単純な理由?」

「怒らないでよ。ほら、もう列車下りるよ。」

2人でケンカ、と言っても笑顔での言い合いをしながら満月塔へ帰って行った。


「この用紙に記入すれば良いんだね。」

その日の夜、魂案内人の総支配人から連絡が来たのだ。明日から研修期間として、先輩と一緒に仕事をしてほしいとの事だった。

「ハル、これを渡しておくよ。きっと役に立つ。」

カイトが渡してきたのは天ヶ埼の地図だった。

「案内人は、天ヶ埼のどこに何があるか知っていた方が良いから。」

「わかった。一晩で覚えてみせるよ。仕事だってすぐに覚えて役に立ってみせるさ。」

「ハル、なんだか生き生きしてるね。」

「そう?でもー、確かに楽しいよ。不安はあるけど、やる気がすっごくあるんだ!」

履歴書に似た用紙に必要事項を書き込んでいく。

「でもさ、この履歴書、ほぼ嘘だよ?いや、全部嘘だ。名前も出身地も学歴も。バレたら大問題じゃない?」

「エンマ様の息子の友人だよ?しかも同居してる。疑う人はいないさ。」

ハルは履歴書を書き終えると、地図の隅から隅まで目を通した。


首の痛みで目が覚めた。昨日は夜更かしをしたせいで、机で寝てしまったのだ。両腕を上げ背中を伸ばすと、ボキボキッと骨が鳴った。

「7時か……、待ち合わせの時間は9時だから準備しなきゃ。」

いつもなら目が覚めると愛犬が顔をペロペロと舐めてくるのだがここにはいない。何気ない、当たり前だったものが突然なくなると、ふとした瞬間とても懐かしく思えた。

「ちゃんとお散歩してもらってるかな……。」

愛犬の事を考えながら身支度を済ませる。まだ和服には慣れないものの、なかなか動きやすいため気に入っている。最後にボサボサの長い前髪を髪飾りで留め、身支度終了。部屋を出ると黒いスーツの人が音も立てずに横切った。

「おはようハル。」

「カイト……おはよう。今のは誰?」

「死神。最近の若い新人は生意気な癖に仕事が出来ないで嫌になるって苦情さ。」

(こっちの世界にもこういうのあるんだ……。死神のイメージが崩れていく……。)

「そうだ、送って行ってあげようか?待ち合わせの場所まで。」

「カイトも忙しいでしょ?昨日地図暗記したから1人でも行けるさ。」

魂案内観光会社のオフィスがあるのは、満月塔から列車で20分ほど行ったところにあるらしい。地図には大きな球体で、カラフルな色で描かれていた。「なにこれ……どんな建物なのか全然わかんないんですけど。」と、重いまぶたをこすりながら思ったのを覚えている。

「朝から死神の文句聞いて大変でしょ?」

「そう?じゃあ、気を付けて。かなりハデな外観だからすぐにわかると思うよ。」

(ハデって言ってもなぁ。地図通りのあんな建物イメージ出来ないよ。)

エレベーターに乗り込み持ち物をチェックしていると、後ろに変な気配を感じ振り返った。

「うわぁっ!!びっくりした、コトリさんいつ乗ってきたの?」

いつの間にか化け猫の死神・コトリがエレベーターに乗ってきていたのだ。最上階から乗っていたが、1度もエレベーターは止まっていないから尚更おどろいてしまった。

「化け猫は忍び込むのも得意なんだにゃ。」

「そうですか。」

「ん?お前さんどうした?緊張してるにゃ。」

「昨日ほどの緊張じゃないよ。今から仕事場に行くんだから、確かに緊張してるけど……。」

コトリは猫耳をバサバサと動かし興味津々に笑顔……ニヤニヤしながら聞く。

「仕事場ぁ?なんのお仕事なんだい?」

「えー、えっと魂案内人?」

「にゃっマジで⁉そんな大変な仕事もらったのかにゃ?断れば良かったのににゃー。死神の仕事してるオイラが言うんだから、かなり大変で責任の重~いきっつい仕事にゃ。」

にやけ顔でからかうように言われた。人の驚く姿や困っている姿が好きらしい。三白眼の猫目をキラキラとさせてハルを見ている。

「そんな大変な仕事なの?楽な仕事もないだろうけどさ。」

「ま、先輩にいろいろ教えてもらうんだにゃ。」

「不安になるようなこと言わないでよ、コトリさ……逃げた!」

言いたい事を言うと、黒い煙になってさっさと行ってしまった。その瞬間エレベーターが1階に着いた。

(なんだかいつもより長い時間乗っていた気が……)

「あ、ヤバイ!列車の時間がっ!!!」

なんとか列車に駆け込み、20分の時間が過ぎた。

「駅から近いからすぐ見つかるはずー……」

駅から1歩出た瞬間、それが目に入った。巨大な球体が地面に半分うまったような、ドーム型の建物だ。しかも、赤や青が混じったマーブル柄をしていて、周りの風景からかなり浮いている。というか目立ちすぎている。

「本当に地図通りの見た目じゃん……」

自動ドアが開くと、目の前に受付嬢が座っていて出迎えてくれた。

「もしかして、社長が言ってた新しく入る子ですかー?かわいー!まだ子供じゃないですかぁ。」

テンション高めの美人な受付嬢は、首をグングンと伸ばし、ハルをまじまじと見つけた。

(す……すごく近い。この女の人、ろくろっくびだ。)

だんだんと妖怪にも驚かなくなっていた。

(化け猫の死神にも会ったし、エンマ様の衝撃の事実以上に驚く事なんてもうないかもしれないな。)

「ちょっと、困ってるじゃない。早く社長の所に案内してやんなさい。」

もう1人の受付嬢が止めに入る。黒髪おかっぱ頭の少女は、誰もが知る有名な学校の怖い話に出てくるトイレの花子さんを思い出させる容姿をしている。白いYシャツにピンクのスカーフ、緑色のスーツと変わった制服を着ているが、もし赤いスカートをはいていたら花子さんのイメージそのものだ。

(って、花子さんは妖怪じゃないか。)

「ちょっとくらい良いじゃない。花子は石頭すぎなのよ。そんなんじゃ人体模型くらいにしかモテないわよー。あいつらもかなりの堅物でつまんない性格してるから、花子にはぴったりだけど。じゃ、行こっか。2階のロビーで待ってれば社長来るだろうからさ。」

「来なきゃ困るわよ。これからここで働いてもらう大切な人材なんだから。」

「あんたの小言どうにかならないの?小学生みたいな見た目して、中身はオバサンなんだから。」

言い合いをしながらハルを2階へ案内する。首だけで。

「ちょっとくらい動いたら?六子、最近3キロ太ったでしょう。」という花子さんのひんやりとした声が聞こえてきた。

「気にしないで?あの子、女子トイレの外はあまり慣れてなくて、仲良いあたしには文句言いたい放題なの。3キロじゃなくて2.5キロの間違いだし。」

「へえ……そうなんですか。」

階段を登りきると目がチカチカする個性的なロビーが現れた。外観だけでなく内装までハデなのだ。座っててと指さされたソファーは、ショッキングピンク。ちなみに青色の水玉柄。黄色い壁紙には、黒い文字で「真心一番」と堂々と書かれている。

「センスが個性的というか、オリジナリティにあふれた社長なの。じゃ、あたしは戻るわね。このロビーにいると目がおかしくなっちゃいそうだわ。」

ものすごい勢いで、首が体に戻っていく。

「なんというか……ここ本当に会社なのかな。責任の重い仕事をする会社には見えないよ。よくわからない宇宙人みたいなオブジェが5つも飾ってあるし。」

ロビーの中心にある大きな球体型の水槽には、色とりどりの光を放ちながら、クラゲのような不思議な生物がふよふよと漂っている。その不思議な姿に見入っていると、水槽の反対側に誰かが来たらしく、水槽越しに顔がユラユラと動いている。どうやらおじさんのようだ。くるりとカールした口髭が見えたのだ。

「はじめまして、わたくし魂案内観光会社の社長、いったんもめんの絹川と申します。ハルくんですね?エンマ様から聞いていますよ。さっそく今日から仕事をしてもらうのですが、もう少し待っていてくださいね。アナタの担当をする先輩がすぐに来ますから。」

水槽越しでは、はっきりと確認出来なかった顔が目の前に浮かんでいる。

(いったんもめんの顔なんて初めて見るけど、布に書道をする筆で描いたみたいな顔だ……。しゃべってるのに口は動いてなかったもん。)

「わかりました。絹川社長。」

いったんもめんの社長は優しそうな笑顔(と言っても、もともと布に描いてある顔が笑顔なだけかもしれない)を見せながら1枚の長い手ぬぐいのような体で、ハルの周りをグルグルと飛び回る。

(なにこの状況……。全然落ち着かないんですけど。)

絹川社長ははっとしたようにリアクションして見せ、ハルの頭上から話しかけてきた。

「そうでしたハルくん。PR書をもらいましょう!ほほう、実りの村の出身ですか。良いですねぇ。私も好きなんですよ、実りの村。とにかくスムージーが好きでしょう?私。あの村の野菜とフルーツを使うとより美味しくなるんですよ!まあ、わたくし色のついたものを食べると、体がその色に染まっちゃうんですけどね。この建物はそんなわたくしのコンプレックスを隠す色彩にしたんです。今日は白滝しか食べてないのでー……」

(そんな理由で?こんなハデな建物に?)

ああ、この人は話し出すと長い人だと、ため息をつきそうになった瞬間。

「社長ーーー!!!またデータ入力ミスったでしょ?昨日私の担当する魂は3つのはずだったのに、4つも来て大変だったんだからね?」

1人の女の子が不機嫌そうに速足で近寄ってくる。長い髪を両サイドの高い位置で結んでいる。その髪が生きているかのようにバサバサとしている。

「う~ん、どうもパソコンやらデジタルやらが苦手でして。」

ツインテールの女の子が、絹川社長の(たぶん)首と思われる部分を両手でつかみ、前後にゆすっている。

「データ入力が出来る人雇ったらどうなのー!」

「落ち着いてください、かおりさぁぁぁぁぁ」

(社長たぶん首しまってるよ!)

そう思いつつ、巻き込まれたくないため遠くから見守っていると

「かおりさんっ、今日からアナタの後輩になるハルくんですよ!さぁ、ご挨拶!」

かおりと呼ばれたツインテールの女の子は、雑に絹川社長を離しハルに向き直る。

「後輩?聞いてないわよ?」

「昨日エンマ様から連絡があったんですよ。」

「昨日?なら昨日教えてよ。」

「すみません……。」

(この絹川って人、本当に社長なわけ?この女の子の方が強いっていうか、しっかりしてそう。)

「まあいいわ。人手が全然足りてないし。私はかおり。よろしくね。」

「くっ……、ハルです。お願いします!」

(危ない、つい久遠って言いそうになった。)

「ハルくん、とっても優しい先輩ですから、ドンドン頼ってくださいね。あー、あと、」

「なんですか?」

「先日、鬼瓦で記憶のある魂が目撃されたそうです。名前は久遠遥界。鬼瓦の子どもが、暗洞地区の方へ逃げていく姿を目撃したそうですが、気を付けてください。」

「嘘……、早く見つかると良いけど。治安維持局の人は何て言ってるの?」

「それがですね、手掛かりが全くないそうで。でも、黒髪にTシャツの小学生くらいの男の子だそうです。」

(それ、絶対僕の事だよね……。バレたら治安維持局の人に捕まっちゃうのかな?あ、でも鬼瓦の子どもって、もしかしてキイチとつぼみちゃんかな?)

「わかった。新人は私に任せて。社長は事務があるでしょ。」

「では、頼みましたよ。」

絹川社長が行ってしまうと、かおりと2人きりになってしまった。つり目がちの瞳をしていて、なんだか話しかけにくい。ハルは現世にいるときから女子という生き物が苦手だった。何かにつけて物事を押し付けてくるボス的な女子や、足の速いイケメンの前ではおしとやかなのに、その他の男子の前ではゴリラ……気の強い女子に豹変したり。このかおりという子も、一見そういう女子に見えてしまう。

「社長から仕事の事聞いてないわよね、きっと。私たちの仕事は、天ヶ埼へ送られてきた魂が、裁判の日を迎えるまで街を案内したりして、もてなすの。」

「ここに来た時に、列車の中で見ました。あの、知り合いにめちゃくちゃ責任の重い仕事だって脅された(?)んですけど……」

女の子と1対1で話したことがないため、なかなか目を見ることが出来ない。が、ロビー全体ビビットなハデな色合いをしているため、他に見る所もない。

「ハルは、なんで魂案内人っていう仕事が出来たか知ってる?」

「知らないです。田舎から出てきたもので……。」

かおりは、案外優しいというか、姉御肌なのか丁寧に説明してくれた。

「昔はね、魂は裁判所まで長い行列を作って裁判の順番を待っていたらしいの。でも、退屈な時間をずっと過ごしていると、現世の事が懐かしくなって、記憶を取り戻してしまう魂も少なくなかったそうなの。それを改善するために、魂案内人という仕事が作られたってわけ。ここで楽しい思い出を作れば、寂しくなんてならないでしょ?」

「そっか、だからとても重要で責任のある仕事なんだ。」

コトリは自分をからかうために、多少オーバーに言ってきたのだろうと、少し安心した。

「じゃあ、更衣室に案内するから。そこで制服に着替えて。仕事内容の説明は外でしましょ?こんなクレイジーなとこに長くいられないわ。」

(社長、クレイジーって言われてるよ……。その通りだけど。)

「制服って、今かおりさんが来ている服ですか?」

着物の襟の部分がセーラー服の襟のようなデザインになっている。カラフルな装飾の帯に、ミニスカート。ブーツという、和服とセーラー服が融合した、なんとも不思議な服装だ。

「そうよ。可愛いでしょ。現世にはセーラー服っていう可愛い学校制服があるらしくて、それがモデルなの。短パンバージョンもあるけど、やっぱりスカートの方が可愛かったから。男子のは、ひざ丈の短パンと、普通のパンツがあったかしら。」

更衣室に入ると、案の定ハデな装飾が施されていた。今度はヒョウ柄のロッカーに赤い壁だ。

「こんなところまで……」

「女子の更衣室は無事よ。社長関係ないから。じゃ、制服置いておくわね。着替え終わったら外に出てきて。目の前にある公園で待ってるから。」

「わかりました。あれ?これって冬物ですか?この半ズボン生地がけっこう厚い。」

「そうよ。この1時間で季節が突然冬になったの。迷惑だわ。」

エンマ様の気分次第で季節や天気が変わるとは聞いていたが、ここに来るまでの間は穏やかな春の気候だったため、想像がつかない。

「そんなに外寒いのかな?ちょっと待ってこれ、どうやって着るんだろう……。」


かおりは公園のブランコに座り、社長の言っていた事を思い出していた。

「また、記憶のある魂が……。事件が起こってないってことは悪霊化していないんだろうけど。にしても寒い!そしてあの極細もやしみたいな新人も遅い!魂との待ち合わせ時間に遅れるじゃない。」

文句を言っていると

「極細って、そんなに細くないですよ。」

「聞いてたの?ごめん、思った以上に寒くて……」

空を見上げると、重たそうな雲が敷き詰められている。今にも、雪が降ってきそうだ。しかも、着物なんて慣れない服で違和感がすごくあるのだ。カイトがくれた私服用の和服とはわけが違う。たとえ半ズボンだとしても、足元ははいたこともないブーツ。歩きにくいのだ。

「洋服売ってる人なんか大変よ。明日の季節の予想も出来ないんだから。」

「真冬に夏服売るわけにもいきませんしね。」

かおりが時計を見て立ち上がる。

「いけない!時間がなかったんだわ。歩きながら話すわ。」

公園を抜けて、湖に架かるつり橋を渡って行く。吹き込む風はかなり冷たく、震えてしまう。

「はい、これ持って。」

渡されたのは、スマホのような小型の機械だった。

「これは?」

「同業者同士の連絡や、担当する魂の情報を見る端末よ。」

現世でハルが使っていたものと、かなりデザインが似ている。右側面には電源ボタンと音量調節するためのボタン、カメラ機能はないものの、ほぼ同じだ。

「魂の情報…?」

「そう。社長からその人の資料が送られてきて、それをチェックするの。出身地から、職業。そして好きだったものが記載されてるわ。かならずチェックして、頭に叩き込んでおいて。」

「そうか、これを見て、好きなものの場所へ案内してあげればいいんだ。」

「違うわ。好きなものから離すのよ。もし、好きなものに刺激されて記憶がよみがえったらどうするのよ。私たちは、記憶を取り戻さないように、おもてなしする。いい?絶対に好きなものには近づけないで。」

今わかった。コトリがどうしてからかってきたのか。少しでも間違えれば、魂は記憶を取り戻してしまうかもしれない、責任のある仕事だったからだ。

「ま、しばらくは私とペアで動いてもらうし、そう簡単に記憶が戻ったりしないわ。サポートするから。」

「は……はい。なんか胃がキリキリするような。」

寒さよりも胃の痛みが勝りそうな勢いだ。

「ちょっと、しっかりしてよ?この仕事は大人でも嫌がるような大変な仕事だけど、魂のために何かしてあげられる素晴らしい仕事でもあるんだから。」

気の強さが歩き方に現れるのか、カツカツとブーツを鳴らしながら前を行く。胃の痛みを感じつつ、小走り気味についていくと、天ヶ埼水族館についた。

「今日私たちが担当する魂との待ち合わせ場所よ。まだ来ていないみたいだから、端末でチェックしておいて。」

水族館のチケット売り場前のテラスに腰掛ける。

【タカハシ・ヨシエ/125歳/喫茶店店長/出身地:佐賀県/誕生日:10月15日/好きなもの:コーヒー、子ども、白色のスイートピー/嫌いなもの:犬、雨/備考:長年、喫茶店店長として大勢の人を笑顔にしてきた。娘に誕生日にもらった白色のスイートピーがお気に入り。1人っ子。】

画面を指でスライドさせながら目を通す。この程度の情報なら1度読めば暗記出来てしまう。

「好きなものもそうだけど、嫌いなものにも注意して。記憶を刺激しちゃうかもしれないから。今日は担当する魂は1人だけにしてもらったんだけど、基本は2、3人の団体で案内してるのよ。」

「かおりさん、好きなもの子どもってなってますよ?僕たち子どもですよね。」

「私たちまだまだ子どもよね……。まったくまたぁ⁉社長のバカ!!子ども好きの魂だった場合、出来るだけ大人が担当する規則なのに!どうするのよー…ってあの人がそうだわ。ほら、今入ってきた女性。」

「もう来ちゃったんですか?心の準備が……。」

入り口のイルカのオブジェの隣にその魂は立っていた。優しそうな柔らかい表情をしたおばあさんだ。ハルたちに気付くと笑顔で手を振ってくれた。

「しょうがないわ。やるわよ。記憶はそう簡単には戻らないし、なんとか子どもっていう話題にならないようにするの。名前は禁句よ。」

かおりはコソコソと小声で言うと、満面の笑みでタカハシという女性に走り寄っている。

(大丈夫。かおりさんもついてるんだ。)

ハルは引きつり気味の笑顔で駆け寄った。

「では、今日は私たちが担当します。私はかおり、この子は今日からこの仕事をする新人のハルです。早速ですが、天ヶ埼で1、2を争う人気スポットの天ヶ埼水族館をご案内します。」

さっきとはまるで別人のような笑顔を見せている。

(さすがプロだ。)

「今日はよろしくね。とっても楽しみだわ。」

「お、お願いします。」

かなりの棒読みであいさつをしてしまい、自分でも引くほどだった。

(なんでこんな棒読みなんだ?深呼吸だ。深呼吸!)

引きつった顔のまま深呼吸を繰り返す。ハル自身は気付いていないが、右手と右足が同時に出てしまっている。エンマ様に会いに行くときとは、また別の緊張だ。ミスをしたらどうしようという不安が頭の中を駆け巡り、思考が真っ白になってしまった。

「ちょっと、そこまで緊張しなくていいから!逆にこっちまで不安になるわよ。」

小声でハルに注意するかおりを見て、おばあさんは微笑ましそうに見守っていた。

「あらあら、仲が良いのね。兄弟かしら?」

「そうなんですよー!わかります?私がお姉ちゃんなんですよ!ねー、ハル!」

突然のフリで動揺してしまい、さらに動きがぎこちなくなってしまった。もう、どうやって歩いているのかわからない。

「合わせてよ。おばあちゃんの情報によると、一人っ子ってあったから。」

「そ、それで!」

2人でコソコソ話したあと、ハルはゆがんだ口を開いた。

「そ・そう・です・ボクタチ・きょうだ・い・デス」

「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。今日がはじめてなんでしょう?」

「もう、ほら行きましょう。ここでは午前と午後の2回ショーをやっているのですが、1回目の時間が迫っていますね。ギリギリになっちゃうのも大変ですので、午後にします?」

「そうね、それがいいわ。私、この巨大水槽が見てみたいわ。」

パンフレットを見ながら楽しそうに会話をしている。そんな普通の光景を見ていると、現世も天界もあまり変わらないように思えた。

(それにしても、やっぱりちょっと変なんだよな。ここの施設は。)

現世では見たことのない、というか存在しない海洋生物しか泳いでいないのだ。鳥の羽のようなヒレを持つ魚や、大きな1つ目の可愛いイカのような生き物。水の色だって、透明な緑やピンクだったりと、ファンタジー感が強いのだ。

(あれ……確か、水族館から10分くらい歩いたところに花屋さんがあったよな。)

「すごいわねぇ。こんな素晴らしい場所があるなんて。」

「楽しんでもらえてうれしいです。」

「あなたたちまだ子どもなのに、関心してしまうわ。しっかりしていて、優しくて。2人ともおいくつなの?」

いつの間にか年齢の話になってしまった。

「いえ、これはお仕事ですので。お気にせずに。」

その瞬間、ハルは緊張と慣れないブーツのせいで盛大に転んでしまった。前のめりに勢いよく滑っていくと、水槽に激突してしまった。

「大丈夫⁉なにやってんのよ!」

「ごめんなさい……足が、自分の足じゃないみたいに感じて……」

靴擦れでヒリヒリする足をさすりながら答える。おまけに、水槽に激突したせいでおでこもジンジンとしている。

「大丈夫?ハルくん。ゆっくりでいいわよ。」

なおも優しくしてくれるおばあさんは、2人の姿を見て、口に手を当て笑っている。

「そこにあるカフェで休みましょ。」

テーブル席に座ると、ハルはブーツを脱いだ。案の定、ヒリヒリしていたところが赤くなってしまっていた。

(こんなにも緊張するとは……。かおりさんにも迷惑かけっぱなしじゃないか。情けないなー。)

「ハルくんの仕事初日が私だなんて嬉しいわ。でも、そんなに緊張しなくていいのよ。私、誰かとおしゃべり出来るだけで、とっても嬉しいのよ。」

「はい。ありがとうございます。ただ、どうしても緊張してしまうんです。人前でしゃべるのも苦手だったし……。」

学校の発表会や、国語の授業などでよくやる朗読も大っ嫌いだった。国語の先生は、クラス全員分の名前を書いた紙を箱に入れた、自作のくじで、朗読する生徒を選んだりしていた。これがまた地獄の時間だった。その日の日付や、日直だったら、誰が当たるかわかるので心の準備が出来た。だが、くじ引きはそういうわけにはいかず、突然指名されてしまうのだ。3連続で当たったこともある。

「紅茶お持ちしました。ここのカフェ、水族館に入らないと来れないのに、紅茶はナンバーワンのおいしさと言われてるんです。」

おしゃれなティーカップを3つトレーに乗せ、笑顔で説明するかおり。

「あら、ありがとう。」

優しくあたたかいおばあさんを見ていると、現世で生きているおばあちゃんを思い出してしまう。とても懐かしく、会いたいと思ってしまう。だが、そういう感情を抑えなければ、心がザワザワとしてきてしまう。

「紅茶飲んで落着いたら。ま、私も新人のころは緊張しまくって先輩に頼りっきりだったから、気持ちはわかるわ。」

「でも、これは緊張しすぎというか……自分でも引くほどぎこちなくて。」

「ねえ、かおりちゃん、ハルくん、私お手洗いに行ってくるわね。」

「はい。あそこをまっすぐ行くと、左手にありますよ。」

かおりとハルが2人きりになると、ハルは緊張が少し緩和され、ため息をついた。

「僕、思っちゃったんです。水族館から少し離れたところに、天ノ花屋っていうお店があって……」

「白色のスイートピーを見せてあげたいって?」

「はい!なんでわかったんですか?」

「私もそう思ったからよ。娘さんとの大切な思い出の花だもの。でもね、それはやっちゃいけないこと。もし、記憶を取り戻して悪霊化してしまうと、1番悲しむのは本人だから。ただ、家族に会いたいだけなのに、自分の意思は関係なく悪霊となってしまう。」

「かおりさん?」

「と、とにかく深入りしないことね。」

そう話すかおりは、なにか思い当たることがあるようで、ハルの顔を1度も見ることなく、そっけない態度をとった。

「あ、戻ってきたわ。ショーをやるのはここから少し遠いから、ゆっくり向かいましょうか。」


そのころカイトは満月塔の応接間にて、午前中の仕事を終えたところだった。窓の外を眺めていると、突然背後にコトリが現れた。

「今日からハルは仕事にゃんだろう?大丈夫かねえ。もてなされる立場のハルがもてなす立場なんて。」

「かなり緊張している様子だったからね。それにしても、きみは仕事さぼっていて大丈夫なの?」

フカフカのソファーにゴロゴロと寝転がっているコトリを見ながら言う。

「サボってるだって?誰のために極秘で仕事してると思ってるんだい?バレたらオイラ監獄行きだにゃ。」

監獄とは、現世でいう刑務所のことらしい。

「ごめんごめん、冗談だよ。で、なにかわかったかい?」

「まだ全然にゃー。ハルを担当した死神は1週間未満のド新人でね、覚えてないとか言い訳する始末にゃ。だから、オイラ1人で頑張ったのにゃ。ハルは2020年8月10日の図書館からの帰り道に交通事故に遭ってしまったみたいだにゃ。信号無視の車のせいにゃ。」

「交通事故……」

「これしかまだわかってない。もちょっと時間くれ。あ、それと、治安維持局の連中がハルのこと調べまくってるらしいにゃ。鬼瓦で記憶のある魂が出た時期と、ハルが天ヶ埼に来た時期が一致するって。他にもそんな奴何人もいるのにさ。」

「治安維持局の局長は好きになれない。あの人はすべてに疑いの目をはり巡らせている。何考えているかわからないしね。」

「最近エンマ様への不満も爆発しそうだとか、部下が恐ろしがっていたにゃ。」

そう言うと猫の姿になり窓から出て行った。

「ありがとう、コトリ。でもまさか交通事故だったとは。治安維持局……、やっかいだな。」

治安維持局局長は、エンマ様とは古い仲だが、局長の方はあまり良く思っていないらしく、いつかエンマ大王の座を奪ってやるのだと、酔った勢いで話していたと聞く。自分の思い通りに動かない部下を片っ端からクビにしたり、気に入らない上司をどんな手を使ってもおとしいれて、今の地位・治安維持局局長になったとも言われている。


「今日はありがとうございました。楽しんでいただけたようで私たちもうれしいです。」

なんとかかおりについていき、初日の仕事を終えた。

「やっと終わった……。緊張のしすぎであまり記憶がないや。」

「顔色悪いわよ。早く帰って休みなさい。」

「明日もお願いします。」

列車の乗ると、今まで緊張していたのが嘘のように体が和らいだ。もう15分もすれば満月塔の駅に着いてしまう。だが、睡魔には勝てそうもない。どれくらい時間が経ったのか、目を覚ますと、車内アナウンスは終点であることを告げていた。

「やばい!終点まで来ちゃった。」

だが、運が良い事に、ハルの乗っていた列車は天ヶ埼の端っこの駅が終点だったのだ。

「天ヶ埼から出てはいないけど……かなり遠いよ……。」

満月塔は天ヶ埼のシンボルとして、中央に建っていて、今は遠くの方に小さく見えるだけなのだ。

「2時間以上寝ちゃってたってことか。早く戻らなきゃ。」

反対側のホームへ向かう途中、堅苦しいスーツにサングラスをかけた男性がそこら中に立っているのが見えた。その男たちは、ハルの方をジロジロと見ると、耳元に手を当てて何やら話し出した。

(なんか嫌な感じの人たちだな……。)

列車の出発時間が迫り、速足で階段を登っていくと、後ろから声をかけられた。

「どうして、キミがこかにいるんだね?満月塔に住んでいるはずなのに。」

振り向くと、眉毛を変な形に歪ませた背の高いの男が立っていた。眉間のしわが深く刻まれた、神経質そうなおじさんは、ハルを鋭い目付きで睨み付けると話始めた。

「キミは、最近天ヶ崎に来たそうだね。なぜだい?」

列車の出発する音が聞こえてきた。何なんだ、この迷惑なおじさんはと思いながら答えた。

「ここで、働くためですよ。」

「そうかね。では次の質問だ。」

(次の質問⁉まだなにかあるのか……。)

ゆっくりと階段を登り、ハルの目の前に立った。冷たく光のない瞳は、見られただけで石となって固まってしまいそうだ。

「記憶のある魂が現れたことを、キミは知っているかね?」

記憶のある魂というワードに心臓が羽上がった。鋭い針で刺されたようにチクチクと痛むのだ。この人は自分を疑っているのかと、急に怖くなった。

「我々、治安維持局は、迅速に魂を捕らえるため、こうやってパトロールしているのです。」

「そ、そうなんですか。」

視線を泳がせながら簡単に答えた。

「えぇ。安全のためにつくられた組織ですから。ですが、我々キミの事が気になっているんです。田舎から突然出てきて、エンマの息子と同居している……。キミは、なぜ特別扱いされているんだね?」

何も悪いことをしていないのに、追い詰められている気分だ。

「そ……それはー……。」

「局長、彼は疲れていますので質問はまた今度にしていただけませんか?」

カイトが怖い表情をしながら階段を登ってきた。局長を睨み付けるように見つめている。

「カイト、どうしてここに?」

「ハルの帰りが遅くて心配だったから、コトリに手伝ってもらって探していたんだよ。」

先ほどまで冷たい声音で話していたカイトが、いつものように優しく答えた。局長は小さく舌打ちをすると、では、また今度。と言ってスーツの男たちを引き連れて、黒色のローファーの足音を駅中に響き渡らせながら去って行った。

「ごめん、カイト。列車の中で寝ちゃったみたいで……。」

「はじめての事で疲れただろう。はやく帰ろうか。」

ホームに向かうと、そこにはコトリと思われる灰色の猫がこちらを見ていた。

「もしかして、コトリさん?」

「そうだよ。よくわかったね。忙しくて大変だろうに、ありがとう。なんだかんだ言って、コトリもハルの事が心配のようだね。」

カイトがからかうように言うと、黒い煙とともに人間の姿に変わったコトリが眉をひそめながら文句を言う。

「別に心配なんてしてあげてにゃいさ。でも、治安維持局は最近天ヶ埼に来たお前さんを疑ってるみたいだから……その、お前さんのことがバレたら、手を貸したオイラも道連れになっちまうにゃ。監獄にだけは行きたくないだけにゃ。お前さんのために今だって動いてるんだ。感謝しろにゃ。」

からかうのは大好きだが、からかわれるのはおもしろくないらしい。口をとんがらせながら次々と文句をハルに浴びせていく。

「迷惑かけてすみません……。」

しゅんとしながらハルがあやまると、

「あやまってほしいんじゃなくて気をつけろってことにゃ。あいつらは信用出来ない連中にゃ。特に子どもに対しては見下してる最低にゃ大人だからー……、もう帰るにゃ!明日は迎えに来てやんないにゃ。どっかの誰かさんに違法な仕事させられてるからにゃ。」

黒い煙となり消えてしまった。文句は言っていたものの、結局はハルの心配をしていたようだ。

「コトリはね、なかなか素直になれない子なんだ。猫ってツンデレっていうでしょ?」

「コトリさんが優しいってことは知ってます。コトリさんがカイトのところまで案内ー……そういえば、僕、カイトって呼び捨てしてた!」

「呼び捨ての方が良いな。」

列車に乗り込むと、時間が遅いということもあり、乗車してくる人はあまりいなかった。ほぼ貸し切り状態である。静かな車内では、線路のきしむ音や、どこかで祭りをやっているのか、太鼓や笛の音が聞こえてくる。

「それにしてもずいぶんと寝てしまったようだね。満月塔の駅から3時間半はかかるよ?ここ。」

「えぇ⁉そんなに遠いところなの?ものすっごい迷惑かけちゃったね……。」

「いいよ、ハルはボクの弟みたいな存在なんだから。天界に来てまだ日が浅いんだしね。それに、用事があって、こっちの方に来ていたんだ。」

カイトが優しくほほ笑むと、やっぱり誰かに似ている気がすると思い、胸がもやもやした。

「用事?」

「うん。もう少し行くとね、天界で1番大きい病院があるんだけど、そこの知り合いにつぼみちゃんのお薬をもらってるんだ。明後日あたりに届けに行く予定なんだけど、ハルも来るかい?」

明後日は仕事が休みだった。

「行きたい!!ついていっていい?」

「もちろん。」

それから約3時間、静かな時間が続いた。窓の外の見たことのない景色は、暗くなるにつれて見えなくなっていった。そしていつの間にか、温かい気温になっていた。1日で数回季節が変わることもあるようだ。

「ハル、起きて。駅に着いたよ。」

また寝てしまったらしく、カイトが起こしてくれた。いつの間に寝てしまったのか記憶がない。そうとう神経を使い疲れてしまったようだ。

満月塔へ続く長い坂を歩いているときだった。カイトが真剣な表情になり、ハルはさっきの治安維持局のことを思い出した。今、あの局長の顔を思い出しただけで寒気がしてしまう。出来ればもう会いたくない。

「コトリによるとね、治安維持局はハルのことをうたがっているらしいんだ。ここ最近で天ヶ埼に来た人物の中で、魂の目撃証言に合う人物はいない。ただ、年齢や性別が一致するのはハル1人だけ。だから目をつけられているんだ。」

「パトロールしているところに運悪く行っちゃったってことかぁ……。最悪だ……。」

(ハルの行く場所に偶然現れるなんて怪しいな。ハルは今日たまたま寝過ごしてしまっただけなのに……。)

カイトは、治安維持局局長が父親であるエンマ大王のことを良く思っていないのを知っていた。隙あらばエンマ大王の座を奪ってやろうとたくらんでいることもだ。そのため、息子である自分も良く思われていないのだ。最近では、つぼみのために薬を届けに行こうと思っても、監視の目が強くなり容易には鬼瓦へ行けなくなってきている。鬼瓦の鬼は天ヶ埼への侵入禁止という法律をつくったのも彼だ。そのため、鬼へ薬を渡していたとバレてしまえば大変なことになってしまう。カイト自信が父親の足を引っ張ってしまうことにもなるのだ。

「ハル、気を付けてね。あの人はどんな手を使っても記憶のある魂を見つけ出すつもりだ。ボクたちは全力でハルを守るつもりだけどね。」

「カイトがそう言ってくれるとすごく安心できるな。なんかね、カイトといると落ち着くんだ。懐かしくなるというか……。なんでかな?」

「どうしてだろうね。ここ天ヶ埼はね、魂が現世のことを懐かしくならないように、考えられているんだ。食べ物や飲み物の味は、現世のものとは全然違う味にしてあるし、動物や魚も少しずつヘンテコになってるんだ。」

「確かに!今日飲んだ紅茶は紅茶の味しなかったし、見たこともない建物ばっかりだ。」

それでもカイトのことを懐かしいと思うのはなぜだろうと、不思議に思いながら自分の部屋へ入って行った。布団へ潜ると、列車で寝てしまったせいか全然眠くならない。目がさえてしまっている。

(ヤバイヤバイ……眠れない……。明日も仕事があるのに。寝なきゃ!)

仕事のことを考えると、明日も、あの緊張して神経を使う時間があるのか、と疲れが体全身を重くしてしまう。だが、明日も仕事へ行きたいと強く思う自分もいた。大丈夫。明日も頑張れる、と自然に活力が湧いてきた。現世で生きていたころには感じることのなかった感情だった。


「よし、朝7時。」

ハルはベッドから飛び起きると、勢いよくクローゼットを開けた。カイトにもらった天界の私服に着替えた。天界用の私服の隣には、現世で着ていたTシャツとズボンがハンガーにかかっている。もう着ることはないだろうと、クローゼットを静かに閉めた。朝食には、りんごに似たあまいフルーツをまるかじり。これが朝の日課になっていた。美しい景色を窓から見ながら魂案内観光会社へ向かう。同じ通勤時間なのか、高校生くらいのお兄さんと仲良くなった。現世では年上の友だちなどいなかったため、話をすると、とても新鮮な気分になった。

「魂案内の仕事してるなんてすごいな、きみは。俺なんて骨とう品屋のレジ係さ。店長なんて、たまーに呪われた品仕入れちゃうし。」

「大変そうですね。今度、お店見に行っても良いですか?」

「いいよ、不気味な品がたくさんあるからさ。」

と、普通の会話をしながら列車に乗って行く。

ハデな建物に入っていくと、受付嬢のろくろっくびと、トイレの花子さんにあいさつをした。

「おはよー!ハルくん。ねえねえ、昨日どうだった?かおりんが言うには大変だったそうね。子ども好きの魂なのに、子どもが担当ってどういうことだって社長をグルグルまわしてたわー。」

「おはようございます。仕事初日から社長のミスでお疲れでしょう。最近多いんです。社長のミス。案内人1人につき、いっきに担当する魂7つとか。今日も不具合が起きています。何かあればすぐに電話してください。」

相変わらず温度差のある2人だ。

「おはようございます。社長、パソコンとか苦手だって言ってたからですかね?」

「苦手って言っても、こんなミス最近になってからよ?あっ、加齢のせいかしら?最近腰が痛いって言ってたし?」

「骨や筋肉がないのに?ていうか腰はどこなのかしら。」

「社長確か今日黄色だったわよね。なんのスムージー飲んだか当てない?」

「はずれたら今日のお昼おごりね。」

2人で話が盛り上がり、ハルのことはおかまいなしになってしまった。更衣室へ向かう途中、かおりと思われる女の子の声が聞こえてきた。

「どーなってんのよ!昨日のミスは危険よ社長!もっとちゃんと情報管理してよ。」

「ひぇぇぇぇぇっ落ち着いてくださいっかおりさんっ」

かおりは胸ぐらをつかむように絹川社長を雑につかんでいる。

「かおりさんっ社長青ざめてます!黄色いけど!」

うしろから肩を押さえ、止めに入る。

「本当です!わたくし、昨日2人にはタナカという、動物大好き頑固おじいさんの担当にしたんですよ?待ち合わせは植物園!」

「全然違うわよ!端末に送られてきた情報はタカハシさんという女性だったわ。それに待ち合わせ場所も天ヶ埼水族館だったわ。」

「そんな……、かおりさん、わたくしのパソコンを確認してください!ちゃんとした情報を送ったことを証明出来ます。」

朝からなんの騒ぎかと思えば、昨日のことらしい。本当は別の魂を担当するはずだったが、不具合が発生して昨日のおばあさんを担当することに。

「わたくしのオフィスに来てください。ハルくんもどうぞ。」

ひと際ハデな部屋に案内された。パソコンも白や黒ではなく赤、青、紫の3色をしている。画面をのぞくと、絹川社長の言った通り、ハルとかおりの端末にはタナカさんの情報が送られたことがわかる。

「本当だわ……。じゃあ、私たちの端末がいけないのかしら?」

「それはないですよ。この間新しくしたばかりですから。最新式の最先端ですよ?」

「この端末って、どこで売ってるんですか?」

かおりも絹川社長に視線を送る。

「治安維持局の方々が持ってきたんですよ~。ウイルスだとかなんとかが危険ですから、セキュリティ強化された安全な端末に変更してください、とそんな感じで。今までの端末を使うと法律にひっかかってしまうらしくてですね。」

「治安維持局?なんで……、普通だったら情報局とかがやることじゃない。」

出た、治安維持局。今もっとも聞きたくないワードだ。

「ほら、記憶のある魂もまだ見つかってませんし。」

「関係ないですよね?それ……。それに、安全な端末と言っておきながら不具合起きまくりじゃないですか。」

「そうですね……、治安維持局に連絡してみますね。2人には、今直接資料を渡します。今日もがんばってくださいね。」

「ごめんね社長。社長はなにも悪くなかったのに。ありがとう。」

「良いですよ、かおりさん。」

資料をもらい部屋を後にした。担当する魂は、今日こそタナカというおじいさんのようだ。ハルが夢中になって資料を読み込んでいると、かおりが浮かない顔をして隣を歩いていた。

「かおりさん?元気ないですね、どうかしたんですか?」

「治安維持局……」

小さくつぶやくとハルを見て続ける。

「ハルは、治安維持局のこと、どう思う?」

「う~ん……、昨日、局長って人に会ったけど、すごく感じ悪くて好きになれないかな。正直、端末が治安維持局から渡されたってことを知った時、信用出来ないなって思っちゃった。誰にも言わないでくださいね?」

かおりは少し安心したように表情を緩めた。

「そう。私もあいつらは嫌い。治安を守るとか言ってるけど、人々を見下してるわ。ハルも気を付けた方がいいわよ?気に入らないやつは無実であっても濡れ衣を着せて監獄行きにさせられるって噂もあるんだから。」

治安を守るのが義務であるにも関わらず、そんな不正をしているかもしれないなんて。そんな噂を聞いて、局長がますます悪人に思えてきてしまった。いわゆる悪人面だから仕方がない。

「さ、今日こそ植物園に行くわよ!ちょっと頑固そうな人だけど。」

「はい。」

2人は昨日の天ヶ埼水族館から少し離れた所にある植物園へむかった。


堅苦しいスーツ姿の男は緊張しながら局長室と書かれた部屋の重たいドアを開けた。入ると、逆光でほとんど姿が見えない男がどっしりと豪華な椅子に腰かけていた。眉間には深く刻まれたしわ、鼻と口の間には立派な髭。そう、治安維持局局長の悪人面の男だ。部下と思われる男は緊張からか、額から汗を流しながら口を開いた。

「調査した結果、天ヶ埼にいる魂と、死神の記録の魂の数は一致しました。天界全体を死神に探させましたが、天ヶ埼の外には魂はなかったそうです。鬼たちが目撃したという、久遠遥界という魂はどこにもありません。ですが……」

「なんだね?」

獲物に睨まれたように硬直する部下を、更に震え上がらせた。

「死神のデータベースが不正にアクセスされた形跡があるそうです。久遠遥界という魂の情報が消された可能性もありまして……。」

「データの修復は出来そうかね?」

微動だにせず、こちらを見てくる局長に、部下はもう耐えられないといった感じでうつむきながら続けた。

「プロにやらせましたが無理だったそうです。ですが、局長が睨んだ通り、エンマ様の息子と一緒にいるハルという少年が怪しいです。」

「そうですか。」

「出身地だという実りの村を調べましたが、村民全員彼を知っていると言いました。親だという人物も現れました。ですが、満月塔の彼の部屋に忍び込んだところ、クローゼットに鬼瓦の証言と一致する洋服が出てきました。」

「忍び込むとは。しかも、エンマの息子が住む塔に。ご苦労様です。これからも調査を進めなさい。洋服だけでは証拠が弱いですから。なんとしてもデータを修復しなさい。」

「はっはい!失礼いたします。」

部下は局長室のドアを閉めると、力が抜けて壁にもたれかかってしまった。同僚の男が駆け寄る。

「大丈夫か?」

「睨まれただけで死ぬかと思った……。あの人ほんと怖いよな……。また偉そうに命令してきやがったし。」

「なあ、端末情報を操作したけど全然ダメだ。やっぱ簡単にはいかないよな。」

「局長も洋服だけじゃ証拠が弱いとか言ってきやがった。弱くても証拠は証拠じゃないか!」

部下の男たちは暗い廊下を歩きながら恐ろしい計画を離した。

「まあいいさ。局長がハルのことをまだ泳がせるってんなら、こっちにも考えがある。利用するんだ。」



「ちょっとおじいさん!少し休んだほうが良いわよ!」

「あのっ疲れないんですか?」

ハルとかおりは頑固なおじいさんに振り回され、かなりの体力を消耗しいていた。朝からずっと動きっぱなしなのだ。

「若いくせに情けのない!今どきの若いもんはこれだからダメなんじゃ!」

「植物園って、こんなハードな場所だったっけ?」

「ここは、食虫植物ゾーンだからね。見学も命がけよ!」

ジャングルのような温室に食虫植物ゾーンがあった。食虫植物と言っても、大きな木と同じくらい巨大な姿をしていて。小さな虫ではお腹が満たされないのだ。そのため、見学に来るお客さんを食べようと襲ってくるのだ。おじいさんは意外にも身軽で、襲ってくる食虫植物たちをひらりとかわしては、楽しそうに高笑いをしている。その後ろを、やっとの思いでついていくハルとかおり。温室はかなり広く、まだ半分しか来ていないというから驚きだ。

「かおりさん……ここ、本当に立ち入りOKの観光地なんですか?危険すぎかありませんか?」

「そうよね……ここはいくらなんでもやりすぎな気がするわ。でも仕方ないでしょ?あのおじいさんが来たいっていうんだから。ハル危ない!!!」

かおりが思いっきりハルの手を引いて走り出す。自分で地面から根っこを抜いてしまった食虫植物がすぐ後ろまで迫ってきていたのだ。エイリアンのようなおぞましい声をあげ、根っこをグネグネと動かしながら追ってくる。

「おじいさん!逃げるわよ!!」

「おもしろい!」

おじいさんはその場の状況を楽しんでいた。

「おもてなしって命がけだ……」

エイリアンのような植物から逃げた先にも同じような危険な食虫植物が待ち構えているのだ。

「あ、避難扉があったわ。はやくこっちへ!」

赤色のランプが光る緊急避難用扉があったのだ。

「かおりさん、これ開かないですよ!鍵がかかっているみたいだ!」

「避難扉に鍵がかかってるなんて聞いたことないわよ!」

人で言い合っていると、いつの間にか忍び寄ったエイリアンがこちらにじわじわと迫ってきていた。

「どうしよう!」

ハルが混乱していると、かおりがおじいさんを安全な所へと指示してきた。

「お嬢ちゃん、老人をなめちゃいかんよ。後ろに下がっていなさい。」

おじいさんはそう言うと、ハルとかおりの前に立ちふさがった。ハルはこの状況に違和感を感じた。おじいさんが子どもを守るためにとったこの行動……。もしかしてと思い、ハルはエイリアンを見た。

(この状況、おじいさんの資料の備考に書いてあったのと似ている……)

【備考:若いころ、近所の子どもたちを守るため、野生のヒグマの前に飛び出したことがある。】

「かおりさん、これってヤバイんじゃ……。」

「そうね。なんなのまったく。おじいさん、一緒ににげましょ!飼育員さんもすぎに来てくれるわー……」

その時だった。おじいさんが両手で頭を押さえながら苦しみだした。

「なんじゃ……頭が……割れるように痛い……」

なにかを感じ取ったのか、エイリアンが逃げていってしまった。

「どうしよう!このままじゃ記憶がっ」

ハルは視線を感じて食虫植物のジャングルの中を見回した。すると、黒いスーツ姿の男が目に入った。男は飼育員ではないようだ。じっとして動かず、こちらの様子をうかがっているように見える。

「あぁぁぁぁ!」

頭を抱えて苦しむおじいさん。かおりは何度も話しかけようとするも、おじいさんにかおりの声は届いていないようだ。

「おじいさん!私の声聞こえる?」

ハルは必死に資料を思い出していた。

(だめだ……嫌いなものを近づけても記憶を刺激しちゃう……。熊……あの後、熊は逃げて行った。この状況と同じだ……)

あたふたながら辺りを見回すと、小さな池を発見した。ハルはあることを思い出すと、池へ駆け寄った。

「ハル?何する気なの……」

近くにあった大きな葉っぱを力いっぱい引きちぎり、その葉っぱをお皿代わりにして水をすくった。そして、バケツ1杯分はあると思われる水を、おじいさんめがけて思い切りかけてしまった。。バッシャーンと大きな音を立てた。

「冷たぁぁぁい!!!」

おじいさんはびっくりして大声をあげる。

「何するんじゃ!頭が痛いと言っている老人に水をかけるなんて!上司の所へ案内しなさい!!!」

いかにも頑固そうなおじいさんの怒り方だ。

「すみません。すぐに案内します。」

ぺたんと座り込んでいるあかりに手を差し伸べて言った。

「どうしよう。絹川社長にクビにされたら。」

「大丈夫よ。そんなひどい社長じゃないわ。」

そう言ってハルの手をつかんだかおりの手は、かすかに震えていた。馬車と言っても、馬の顔にライオンのたてがみ、シマウマのような縞模様をしている生き物が引っ張っている異様な乗り物に乗り、かなりのハイスピードで社長の待つ魂案内観光会社に向かう。車内ではじっと黙り込んだおじいさんの沈黙に耐えているハルとかおり。隣同士に座った2人は目を合わせながら小さくため息をもらした。

「あとどれくらいで着く。」

おじいさんのしゃがれ声は、全身に電気が走ったような衝撃を与えてくる。

「もうすぐです。建物が見えてきました。」

いつもより控えめの音量でかおりが言った。

(このおじいさん、生きてたころは近所のめちゃくちゃ怖いおじいさんで有名だったんだよな……。確かに、怒鳴ったりしてないのに怖いよ。)

腕組をしてドシッと座るその姿は、妖怪のボスのような迫力と恐ろしさがある。

(絶対ぬらりひょんとか言われてただろうな。)

馬車が会社前で止まり、外から絹川社長がドアを開けた。

「お客様、わたくしが社長のむぐっ!!!」

おじいさんは絹川社長の顔が描いてある部分を片手でわしづかむと、まさに鬼のような形相をして怒鳴り散らした。

「鬼より怖いかも……」

おじいさんは文句を言い終わり、満足したのか、もう帰るわい!!と言って魂専用の宿泊施設へ帰ってしまった。

「すみません社長……。僕が失礼なことをしてしまって。」

ハルが頭を下げると、絹川社長が下に回り込んできた。

「顔をあげてくださいハルくん。きみはまだまだ新人なんですよ?2日目なんですから、あまり落ち込まずに!」

「絹川社長……でも……」

「社長、あのおじいさんの記憶が戻りかけてしまったんです。いつもなら食虫植物が土から出てくるなんてありえないのに……それで、備考にあったような、おじいさんの深く残っている記憶に似た状況になって……。」

「なんですって?」

「避難用のドアは開かないし……。飼育員の人が駆けつけてくれたんですけど、食虫植物はあの後すぐに枯れてしまって。」

あの温室にいた危険な食虫植物は、根っこが土に埋まっていないと、数分で枯れてしまうらしい。そのため、自分から根っこを引き抜くなんてありえないと飼育員の人が言っていた。

「あの、僕温室の中で、黒いスーツの人を見たんです。何もせず、じっと見てきて。ただのお客さんだったかもしれないけど……、でも他のお客さんはすぐに逃げて行ってしまったから、印象に残ってたんです。」

あの時に見た黒いスーツの男は、何をするでもなく、じっとこっちを見ているだけだった。その姿は、昨日駅で見かけた治安維持局の男の格好にそっくりだった。

「ハルくん、そのだスーツ姿の人はどんな見た目だったんです?」

記憶の中の黒いスーツ姿の男の、細かい特徴を思い出していく。

「テカテカした真っ黒のスーツにサングラス。けっこうゴツくて、大柄だったかな。左胸のポケットに赤いハンカチが入ってた。」

「赤いハンカチ?それ、治安維持局のシンボルよ?なんであんなところに?」

かおりが険しい顔で言った。

「記憶のある魂の捜索をしているようですから、たまたま植物園にいたんですかね?2人とも、今日はもう休んでください。」

絹川社長はハルとかおりを2階のロビーまで連れて行くと、スムージーを出してくれた。

「ハルくんは、明日お休みですよね。かおりさんも明日はお休みになってください。」

「でも社長、ただでさえ人手が足りないのに。」

「1日くらいなんとかなりますよ。」

そう言うと3階にある自分のオフィスへ入っていった。

「ありがとう」

聞こえるか聞こえないかの小さい声でかおりがつぶやいた。

「ハルはすごいわね。あんな状況でスーツの男の事完璧に覚えていたし、おじいさんの記憶だって戻らずにすんだわ。私は何も出来なかった。」

「いえ、とっさに思い付いただけで……。けっか、おじいさんを激ギレさせた挙句、絹川社長にも迷惑かけちゃった。」

「ハルは、この仕事向いてるわ。」

「まだ仕事を始めて2日ですよ?緊張しすぎてほぼ何もしてないし……。」

1階の受付嬢の話し声が、静かな2階へ響いてくる。やっぱり赤いリップは似合わないだとか、今日の合コン参加しなさいよなど、彼女たちらしい話題だ。そんな会話とは正反対に、かおりは似合わない不安そうな表情で話し始めた。

「私ね、この仕事を始めたばかりのころ、ハルと同じように、その魂が好きだったものを見せてあげたいと思ってしまったの。」


数年前、かおりは両親の影響で魂案内人の仕事をするようになった。はじめのうちは、お母さんやお父さんと共に行動していた。

「お父さん、私もう自分1人で出来るよ?地図も完璧に覚えたし、ルールだってわかってるわ。」

「まだ早いよ。もう少し大人になってからじゃないと。」

そう言って、絶対に1人では行動させてくれなかった。そんなある日、お父さんと一緒に案内を担当したのは、自分と同じくらいの年の少年だった。

【イシダ・ハルト】この名前だけは絶対に忘れることが出来ない。3人で歩いていると、お父さんが道に迷った人に声をかけられた。だが、魂の少年はドンドン進んでいってしまう。

「ちょっと待って!」

かおりがひきとめるも、その声は届かず、少年は行ってしまった。かおりは慌てて後を追いかけた。やっとの思いで追いつくと、お父さんの姿はなかった。はぐれてしまったらしい。

「お父さんのところに戻りましょう?子どもだけじゃ危ないわ。」

「でも、ここにいられるのは今日までなんだ。日が沈めばここをでなくちゃ。だから、最後に……」

この少年は、明日ついに裁判の日を迎えるため、天ヶ埼にいられるのは今日までなのだ。そんな少年を見てついつい言ってしまった。

「ひまわり……見たい?」

「え?」

少年の資料には、ひまわりが大好きとあった。幼いころから病気で、外で元気に遊べないこともあり、夏になると病院内の庭で咲いているひまわりを家族全員で見に行くのが最高に楽しかった。そう、備考に書いてあったのを思い出した。

かおりは1年中どんな花でも咲いている不思議な庭があるのを知っていた。天界では、魚や動物同様、花も少し変わったのが一般的に売っているのだが、その庭は、現世と同じ花が咲いているらしい。

「本当は、天ヶ埼から出ちゃいけないんだけど、少しくらいならいいよね。」

かおりは少年を庭まで連れて行ってしまったのだ。


「そのあと、どうなったんですか?」

「大好きなひまわりのある場所で、うっかり名前を呼んでしまった。」

記憶を取り戻した魂は、家族に会いたいとかおりの目の前で悪霊化してまった。お父さんが駆けつけたが、もうすでに遅く、手がつけられない状態になってしまった。治安維持局の人が早急に対処して、なんとか現世に行ってしまうのは防ぐことは防げた。だが、悪霊となってしまった少年の魂は地獄へ送られてしまった。

「あの子のために何かしてあげたい……そんな気持ちが悲劇につながった。あの子のためにしてあげたことが、あの子にとっては……。」

魂を悪霊化させてしまった罪は重く、たいていが監獄行きだ。治安維持局の人に、かおりのお父さんは自ら自分のミスだと証言してしまった。まだ幼い娘をかばうためだった。

「お父さんはね、私を守るために自分が捕まったの。絶対に本当のことは言うなって。だから私はこの仕事を続けながら、訴え続けている。お父さんの無実を。」

「だから、あのとき震えていたんですか?」

座り込むかおりに手を差し伸べたとき、かおりの手は震えていた。

「トラウマっていうのかな。悪霊化したあの子の姿や、お父さんが治安維持局に連れていかれる姿。本当に怖かった。このおじいさんも……もしかしたらって。記憶のある魂がまだ見つかってないみたいだし、不安で仕方ないの。ごめんね?こんな話長々としちゃって。今日はもう帰って休みましょ?」

「話してくれてありがとうございます。辛い事だと思うのに……」

「今日は本当にありがとうってこと。ハルがいなかったらどうなっていたか。じゃあ、お疲れ様。」

「お疲れ様です。」

辛い話を聞いたのに、心があたたかくなった。「ハルがいなかったら」この言葉に感動してしまったのだ。現世で生きていたころには、こんな言葉、言われたことなどなかった。

(早く帰って今日あったことカイトに話さなきゃ。魂案内人の使っている端末に、不可解な事件のあった現場にも治安維持局の人間がいた。もしかしたら、僕の事疑っているから……)

重く慣れない制服を着替え、列車の駅へと走った。


満月塔ではカイトとぐったり気味のコトリが応接間で会話をしていた。

「コトリはソファーが大好きだね。いっつもゴロゴロして。」

「誰かさんのせいでクタクタにゃー。治安維持局の奴らに不正アクセスバレたにゃ。もっとすぐにバレるかと思ったら、けっこう時間かかったにゃ。」

ソファーをモフモフしながらさらっと言った。

「そうか……治安維持局の人間は徹底的にハルをマークしているのか。こんなにも疑り深いとは。でも、捕まえに来ないということはハルが魂である確信がないのかな……。」

カイトはティーカップきれいに並べながら、コトリの方へ振り返った。

「治安維持局はどこまでつかんでいる?」

「ハルの部屋に現世のお洋服があるってとこまで。あいつら不法侵入してるようだにゃー。なんでもして良いって思ってるにゃ。でも、局長は完璧を求める男。手の番号がない理由を説明出来ない限り逮捕しないにゃ。」

軽い口調で言っているが、かなり悪質な治安局の行動を激白している。

「そんなにもひどい調査をしているのか。」

「悪いけど、なんにも証拠はないにゃ。エンマ様に言おうにも無理にゃ。」

「はぁ……、これは時間の問題だね。彼らにバレてしまう前にハルを……」

コトリは突然ばっと起き上がると、そうだったにゃとカイト話した。

「お前さんの言っていた通りだったにゃ。やっぱりハルは……。」

「ありがとうコトリ」

カイトはうつむき気味にソファーへ腰かけた。だが、その表情は少し嬉しそうにも思える。

「明日やーっと天界でのお仕事終わったから、現世に行けるにゃ!自由に動けるにゃ!辛気臭い死神部屋から抜け出せるにゃ。あ、でも魂回収する地域は近畿地方にゃから、ハルの事調べるの遅くなっちゃうかも……。」

しゅんとして猫耳をへにょんとたらしてしまった。

「ただでさえ忙しいのにごめんね。」

カイトが頭をなでると、嬉しそうに耳をパタパタさせた。

「別に……ハルのためにやってるわけでも、ほめられたいからやってるわけでもないからにゃ。勘違いするにゃよ?報酬はちゃーんといただくから用意しといてくれにゃ。」

「わかってるよ。甘いスイーツに、1年間好きなときに頭なでてもらう権利でしょ。」

化け猫といっても普通の猫とあまり変わらないらしく、コトリは頭をなでてもらうのが好きらしい。

「明日にはハルの事わかるかもしれない……。こっちへ来た時に記憶が消えなかった理由も。そして今回の事が終わったら死神やめてやるにゃ。あんなブラック企業。お前さんの助手になってやるにゃ。」

するとエレベーターのドアが開き、ハルが下りた。

「ただいま。」

「お前さん帰りがずいぶんと早くにゃいかい?もしかしてクビになったにゃ?」

コトリが楽しそうに聞いた。ハルは今日の出来事を全てをカイトとコトリに話した。

「また治安維持局にゃー?あいつら何を企んでるにゃ……。」

「ハルの事を調査しているはずの治安維持局が……このタイミングで……どうなっているんだ。」

「僕には、治安維持局の人たちがわざと、魂の記憶を思い出させようとしてるんじゃないかって……思えちゃうんだ。」

ハルを例の記憶のある魂だと疑う一方、魂案内人の端末を怪しいものに変えたり、事件が起きておじいさんの魂が戻りかけてしまった。その現場に治安維持局の人間がいたのも事実だ。

「ハル、コトリが言うには治安維持局の人間が、部屋に忍び込んだらしい。」

「そんな!!じゃあ、バレちゃったりしてたり……どうしよう、逮捕されちゃうかな……。危険とみなされて……」

手に変な汗をかいてしまう。冷や汗が止まらないのだ。もし、治安維持局の人間に捕まったらどうなってしまうのか。ハルは顔面蒼白になりカイトがついでくれた紅茶を飲む気にはなれなかった。自分のつばでさえ飲み込むのがやっとだった。

「大丈夫。まだ、確信がないんだ。でも、100%ハルが魂と判断すればすぐに行動する。まあ、そうなっても治安維持局の好きにはさせないけど。」

カイトがハルを安心させようと優しくほほ笑んだ。

「そうだ、ハル。明日は気分転換に鬼瓦へ行こう。早くつぼみちゃんに薬を届けてあげたいし、天ヶ埼にいれば治安維持局に監視されているかもしれない。」

「カイトはにゃ、鬼瓦への秘密の抜け穴を知ってるんにゃ。だから監視されてたって簡単にいけちゃうにゃ。」

「うん……」

キイチやつぼみには会いたい。だが、やはり気が向かないのだ。

「安心は出来ないかもしれにゃいけど、明日お前さんの事調べられる自由な時間が出来たから、何かわかるかもってカイトと話してたんだにゃ。だから、それまでは……」

「ありがとう……バレたら、カイトやコトリさんだって治安維持局に捕まっちゃうかもしれないのに……。」

「安心しろにゃ。カイトはエンマ様の息子だし、オイラは現世に逃げちゃえば、捕まるのはお前さんだけにゃ。」

「コトリ。」

カイトが子どもに言い聞かせるように、優しく注意するようにコトリに言った。それでもコトリは余裕のある笑顔で言った。

「ハルがどうしようなんていくら考えても、仕方ないにゃ。明日は恩人の友だちに会えるんだ。楽しまなきゃ損にゃ。」

「コトリは、本当は優しいけど、素直になれないツンデレな子だから。許してあげて。」

カイトとコトリのいつも通りの会話を聞いていると、自分の置かれた状況を、ほんの少しの間だけ忘れられるような気がした。

その日の夜。なかなか寝付くことが出来ず、応接間の窓からベランダに出て、ぼんやり月を見ていた。おかしなことに、満月と三日月、2つの月が同じ空に存在している。もうだいぶ慣れてきた天界のヘンテコなものたち。妖怪や、変わった味の紅茶にケーキ。そんな月を見上げていると、カイトが心配そうにベランダに出てきた。

「眠れないの?」

「ベッドに入っても全然眠くならないんだ。」

「明日は朝早いからちゃんと寝てもらわないと。大丈夫、深夜の寝こみを狙うようなことはしないさ。」

月明かりに照らされたカイトの横顔は見とれてしまうほどだった。

(さすが美形。)

「ハル?どうしたの?」

「んー……なんていうか、カイトって誰かに似てるって言われない?」

「例えば……ハルのおばあちゃんとか?」

「え………」

びっくりして口をポカンと開けた状態のまま硬直してしまった。おばあちゃんといわれ、確かにそうかもしれないと思ったのだ。だが、カイトに思いもよらないことを突然言われ思考が停止してしまっていた。

「どうして……おばあちゃんのこと……。だってカイトには話したけど、見たことなんてないはずだよ?」

混乱してカイトに詰め寄りながら停止した思考回路を復旧させようと、頭をフル回転させた。

「ハルのおばあちゃん……昔、兄を亡くしたってハルが話してくれたよね。」

「カイトが、僕のおばあちゃんのお兄さんってこと?」

なんとなく、もしかしたらカイトは……と、考え込んだこともあったが、エンマ様の息子だと言うから、その可能性はないと思っていた。だが、ふとした瞬間おばあちゃんを思い出してしまうのだ。

「ハルは、おばあちゃんの夢の話をしてくれたよね。兄弟2人でエンマ様のところにいたって。あれは夢じゃなくて現実だ。現実というか、天ヶ埼での記憶なんだ。」

「じゃあ、おばあちゃんは1回死んでるの?」

「ちゃんと話すね。」



妹のさくらは、明るく元気でまさに太陽のような少女だった。両親は共働きでいつも忙しく、ごはんを作ったりするのも兄弟2人でやるのが当たり前だった。

「お兄ちゃん……やっぱりお友達と遊びに行っちゃうの?」

「違うよ。勉強をしに図書館へ行くんだ。さくらは退屈だろうから、家で待っていて。」

「いやよ!!さくら、1人で留守番なんて!今日もお母さんとお父さんは、帰るのが遅くなるって言ってたもん。お兄ちゃんまで、さくらを1人にするの?」

このとき、無理やりにでもさくらを置いていけば良かったと、後悔した。けっきょく、さくらを1人置いていくわけにはいかず、連れて行ってしまった。さくらは大人しく本を読み、カイトが勉強している間もずっと待っていた。そして夕方5時のチャイムが鳴り、友だちとわかれた。

「さくら、今日の晩ごはんは何にしようか?」

「うーん、お兄ちゃん料理へたくそだからな~。」

「そんなにまずくはないだろう?この間のカレーなんて絶品だったよ!」

「じゃがいもがゴリゴリしてたもん。かたくて食べずらかった。」

兄弟2人で晩ごはんの話をしながら帰宅している途中だった。耳に突き刺さるブレーキ音とまぶしい車のヘッドライト。しばらくして目が覚めた。

「さくら?どこ行ったんだ?」

日本庭園のような美しい景色が広がる。ここはどこなのか、ということより、まずは妹のさくらを探した。大通りに出ると、ひとごみの中からさくらを見つけ出した。

「お兄ちゃん、ここはどこなの?なんだか怖いよ?」

その場にいた人々は、カイトとさくらの方をじろじろと珍しそうに見た。見るだけで話しかけてはこない。ヒソヒソと会話する人さえいた。

「お前さんたち、なんでここにいるにゃ?人間の魂はエンマ様のとこに……」

「ここはどこですか?家に帰りたいんです。」

黒いフードをかぶった小柄な少年は後ずさりをした。

「い……家って言ったかにゃ?待って待って。記憶残ってるのかにゃ……。この手の番号、オイラのインクだにゃ……ちょっと待って。ミスったかもにゃ。オイラこの仕事始めたばっかで……。ま、とりあえずエンマ様の列にならぶにゃ。悪霊化した魂なんてほぼないからきっと大丈夫にゃ。治安維持局のやつらもゆるいし?」

「なんのことだかさっぱりなんですけど……」

黒いフードの少年は2人を連れてエンマ様のもとへ向かった。このときはまだ、魂が悪霊化するなど、都市伝説のようなもので、あまり信じられていなかった。その上、治安維持局は今に比べてだいぶゆるく、局長も平和ボケしている人だった。

「この行列にちゃーんと並んでるにゃ。裁判の順番がまわってきたら、天国に行くか、地獄に行くか、エンマ様に決めてもらうのにゃ。」

その言葉にカイトとさくらは驚きを隠せなかった。

「エンマ様って、それに天国?じゃあ、ボクたちは……死んだってこと?」

カイトが黒いフードの少年に尋ねた。

「そうだにゃ。ここは、亡くなった人の魂が来る場所、天界にゃ。言ってみれば、天国と地獄の間。ちなみに、お前さんたちのいた場所を現世と言っているんだにゃ。」

カイトは青ざめて言葉が出てこなかった。すると、妹のさくらが黒いフードの少年に近寄り、大きな瞳で睨み付けた。

「お兄ちゃんをいじめないで!」

「別にいじめてないにゃー。オイラはちゃんと説明してあげただけにゃん。」

黒いフードの少年は、さくらの迫力に後ずさりをしながら言う。

「さくらはまだこんなに小さいんですよ?なのに、死んだなんて……。さくらだけでも、家に帰してあげてください!」

カイトは必死に頼み込んだ。だが、天界のルール上それは出来ないことなのだ。黒いフードの少年は、落ち着けにゃと2人を落ち着かせると、

「待っててにゃ。オイラちゃんと調べてくるから。だから、それまで列に並んでるにゃ。」

そう言い残すと、黒猫の姿に変化して走り去ってしまった。カイトは必死に記憶をたどった。どうして、こんなことになってしまったのか。そして、そういえばと、思い出してきたのだ。図書館からの帰り道。比較的車通りの少ない道を歩いていた。今日の晩ごはんは何にしようか、そんな他愛もない会話をしていた気がする。だが、突然車がこちらに向かってきた。避ける余裕などどこにもなかった。カイトは、きっとこの事故のせいだと確信した。そして、なぜあのとき、妹のさくらを留守番させなかったのか。もし、家で留守番をしていたなら、こんな事故に巻き込まれずにすんでいたのに……。後悔してもしきれなかった。

「まだかな?お兄ちゃん。この行列はどこまで続いているの?」

「きっともう少しだよ。さくらはもうお姉さんだから待てるよね?」

「うん!お兄ちゃんと一緒ならずーっと待っていられるよ。」

妹の笑顔を見るたびに胸が締め付けられた。この純粋で無邪気な少女は、まだ自分になにが起きているのかわかっていないのだ。説明出来るはずもない。自分のせいで、妹をこんなめに合わせてしまったと、カイトは自分をせめた。長い時間が経ち、ようやく順番がまわってきたようだ。煌びやかな長い廊下を進み、豪華なドアを開けた。そこには、キラキラとしたカーテンがかかっており、その奥に誰かがいるようだ。あまりにも豪華で広々とした空間に、さくらはおびえたようにカイトの背中に隠れた。

「ここは……どこなんだろう……。」

そのとき、黒い煙が突然とたちこめて、黒いフードをかぶった少年が姿を現せたのだ。

「あのときの!!!」

カイトとさくらをここまで案内してくれた少年だった。少年は焦りながらフードを脱いだ。そこには猫の耳が。

「エンマ様!!!オイラ大変は失敗をしてしまったにゃ。」

エンマ様と呼ばれた人物は、カーテン越しに返答した。

「なにがあったんだね?コトリくん。」

「それが……、オイラこの兄弟2人とも亡くなったと思い込んで、魂を持ってきちゃったんだ……。でも、兄の方はまだ生きてるみたいにゃ。記憶があるなんて変だと思って確認したら……。」

コトリは額から汗を1粒流した。

「それ、どういうこと……ですか?」

カイトは、自分だけ生きていると聞き、いてもたってもいられなかった。

「お前さんたち兄弟は、交通事故にあってしまった。でも、兄の方が奇跡的に助かったみたいにゃ。」

コトリは申し訳なさそうにうつむいた。するとエンマ様は心臓に響くような低く迫力のある声音で言った。

「2人とも記憶があるのか?」

「そうみたいにゃ。」

エンマ様は考え込んでしまった。

「きっと、妹の女の子は、自分が死んだってわかっていなんいだと思うにゃ……。兄の方はまだ生きているから、悪霊化しない……。」

カイトは2人の話についていけず、不安そうにしがみつく妹を見た。

「かわいそうな話だが……、コトリ、お兄さんの方だけ、現世とつながる門へ連れて行ってあげなさい。妹さんの方は、間違いなく天国行きだから安心していい。」

「良いんにゃ?」

「おおごとにすれば、兄弟は長い時間ここにいてもらうことになる。なら、今ここで判断してしまった方が良い。」

コトリはほっと肩をなでおろす。

「ちょっと待ってください……、ボクだけ生きていて帰れるなんて……。そんなの嫌です。ボクも残ります。」

カーテンに向かい、強い口調で言った。

「それは出来ないのだ。魂の数が合わなくなってしまう。残念だが、妹さんに別れを言うんだ。大丈夫。天国はとても良いところだ。」

天国がどんなところかなんて、カイトにはどうでも良かった。妹には生きていてほしい。ただそれだけだ。

「魂の数が合えば良いんですか?」

「お前さん、なに言っているんだにゃ?」

カイトはカーテンに詰め寄り言い放った。

「ボクのかわりに、妹を家へ帰してあげてください。ボクが残ります。」

「それは出来ないにゃ!そんなことしたら、エンマ様……罪になっちゃうにゃ!」

カーテンの奥からは何も聞こえてこない。それでもカイトは続ける。

「妹はまだこんな小さいんですよ。こんなところで死んじゃだめだ。交通事故なんて……。もともとは、ボクがいけないんです。兄なのに……、ちゃんとさくらを守ってやれなかった。だからっ」

「本当にそれで良いのか?」

ようやくエンマ様が声を出した。カイトはなんの迷いもなく、力強く答えた。

「はい!もちろんです。」

カイトのまっすぐな眼差しを見て、エンマ様は決心した。

「よかろう。」

「エンマ様⁉でも……」

「私たちだけの秘密にしておけば、なんの問題もなかろう。コトリ、妹さんを門へ。」

カイトは、エンマ様のその言葉を聞いて安心した。

「わかりましたにゃ。エンマ様の言う通りにするにゃ。それにしても、お前さんたいしたもんにゃ。」

カイトはコトリに苦笑いをすると、妹の前にしゃがみこんだ。

「さくら、お家に帰れるよ。あのお兄さんについていくんだ。」

「本当に?やったー!やっと帰れるのね。お兄ちゃんも一緒に行こう。」

カイトは涙をこらえながら答える。

「お兄ちゃんは行かれないんだ。もう……帰れない。でも、さくらはちゃんと帰れるから安心して。」

妹の方を両手で優しく包んだ。

「どうして?またあの人にいじめられてるの?」

「違うよ。」

ほほえみながら答えた。

「じゃあ、どうして?お兄ちゃんも一緒じゃないと帰りたくない!」

「さくらはもうお姉さんでしょ?ちゃんと言うことを聞くんだ。」

優しくなだめるも、妹はカイトのそばから離れようとしない。しがみついて離さないのだ。コトリは見ていられないと言わんばかりに、フードを深くかぶった。あまりにも残酷な光景なのだ。

「絶対お兄ちゃんから離れないから!」

涙を流しながら必死に叫ぶ妹と、無理やり引きはがすなど、カイトには出来なかった。

「お兄ちゃんは……、さくらに生きていてほしいんだ。お別れだよ、さくら。ずっと忘れないから、さくらも覚えていて。」

そう妹に告げると、カイトはぐっと腕を伸ばし、妹を遠ざけた。そしてコトリの方を見て静かに言った。

「妹を……お願いします。無事に、家に……、家族のもとに帰してあげてください。」

コトリはうなずくと、

「わかった。それに、本当にごめんなさいにゃ。お前さんは生きていたのに……オイラのミスで、こんなことになって……。」

カイトは涙をぬぐいながら、笑顔で答えた。

「あなたが、ボクの魂まで天界に送ってくれたおかげで、妹は生きて戻れるんです。最後にこうして会うことも出来た。ありがとう。」

カイトの言葉になにかを察したのか、妹のさくらが涙ぐんだ顔でカイトを見つめた。

「お兄ちゃん……、また会えるよね?」

先ほどとは、うってかわって静かにそう言った。カイトはなんと答えたら良いのかわからず、無言のまま部屋を出ていく妹を見送った。

「名はなんという」

エンマ様が怖いが、どこか優しげな声で言った。

「久遠……界斗です。」

「そうか。かわいそうなことをしてしまったな。だが、生きている魂を交換することは、ルールに反する。償いとして、ここで働いてもらう。良いか?」

「わかりました。妹が助かるなら何でもします。」

こうして久遠界斗は【カイト】と名乗り、正体を隠すため、エンマ様の息子として天ヶ崎で働くようになった。このときも、コトリがカイトの手の数字を消したらしい。



ハルはパンクしそうな頭をフル回転させながら、カイトの話を聞き終えた。

「混乱させてしまったね。」

「じゃあ……カイトは、僕のおばあちゃんのお兄さんで、かわりに天界に残って……、なんかもうわからないや……。」

ベランダの手すりをぎゅっと握りしめ、美しい星空を見上げる。少しでも心を落ち着かせようとしたのだ。秋の少し肌寒い風が、2人の間を吹き抜けていく。

「カイトは、もともとは現世の人間ってことだよね?僕と同じように。」

カイトは軽くうなずき

「エンマ様と契約したから、もうこちらの住人さ。ハル、混乱させてしまって悪いが、もう部屋に戻った方が良い。なんだか今夜は風が冷たい。安心して、ボクも近くにいるんだから。」

カイトはハルを部屋まで送ると、長い廊下の奥に消えてしまった。

ハルは布団に潜り込むと、今までの不思議な気持ちを思い返した。カイトの笑った顔を見ると心が安らいだ。カイトの言葉は不思議と説得力があり安心出来た。どれも、大好きなおばあちゃんと似ていたからだ。ここに来て不安だったとき、彼を信じ、心を許せたのも。おばあちゃんに会いたい。そして、カイトのことを話したい。おばあちゃんが話してくれた夢の話は本当にあったことだと。だが、そんな事を考えていると、胸がざわめきはじめてしまう。今は寝よう。考えるのは明日だ、と心の中で思いながら目を閉じた。



何気なく目が覚めると、早朝の5時半だった。昨日はあまり眠れなかったらしく、いつもより早い時間に起きてしまったのだ。疲れがまだ残っているせいで、体が重い。こんな目覚めは初めてだ。

コンコン、とドアが鳴りカイトが入ってきた。

「ハル、6時過ぎにここを出ようと思ってるんだけど、大丈夫?」

そう言いながらカイトはハルのボサボサの白髪をなでた。その手は優しく、おばあちゃんになでてもらったときを思い出した。仕草や表情までそっくりだ、と思いながらカイトを見ていた。

「なに?また、さくらに似ていた?」

「うん。そっくりだよ。なんかすごく安心して……また眠くなってきちゃった……」

大あくびが出てしまった。昨日寝ていないぶん、今になって眠くなってしまったのだ。

「ハル、今から寝ないでよ?」

「うん……寝ない……よ?でも、寝ちゃいそうだ。」

重たいまぶたがくっついてしまいそうだ。カイトは

「ほら、ちゃんと起きて。支度をして、朝食を食べよう。」

優しくほっぺたを引っ張った。そういえば、おばあちゃんにもほっぺたをさわられた事があった。

「そういえば、鬼瓦への橋は渡らないの?最近、あの橋の警備が強化されたらしいし……、コトリさんも秘密の道があるって言っていたし。」

ハルはテキパキとパジャマから着替えながら質問する。

「もちろん。見つかっては薬を届けには行けないからね。」

カイトがいたずらっぽく笑うと、ハルもつられて口元が緩んでしまった。だいぶ緊張がとけ、いつも通りに会話をしていた。こんな状況でも、カイトによるハルへの影響力は強大なのだ。

2人は、まだ日が昇らない、薄暗く静かな夜明けに満月塔を出た。列車は始発運転を始めたばかりで、駅に人はほとんどいない。駅を通りすぎ、キラキラと水が流れる川の横をまっすぐに登っていく。川のほとりには、木造の古い家が何軒か建っている。どれも歪んでいて、今にも崩れてしまいそうだ。

「あの家はね、川で仕事をする人たちが住んでいるんだ。」

ハルが不思議そうに視線を送っていることに気付き、カイトがほほえみながら言った。

「川で仕事するって……河童とか?」

「小豆洗い。知ってるでしょ?現世でも有名な妖怪だよね。」

「小豆洗いかー!川辺に住んでるんだね。初めて知ったよ。」

その時、木と木がこすれるような心地の悪い音が響いてきた。驚いて川辺の家を見ると、いつも通勤時間が一緒になる高校生くらいのおにいさんがドアを開けていた。手には大きな桶が。それを、ザラザラと音を立てながら川に入っていく。

「もしかして……新井さんが妖怪……なの?だって、骨董品屋で働いてるって……。」

「知り合いなんだ?」

「うん。いつも列車で会うんだけど、まさか妖怪だとは。」

「新井小豆さんは、小豆洗い一族の長男なんだ。とても優しい人だから、ハルとは気が合うと思うよ。」

確かに気の会う優しいお兄さんだ。だが、妖怪・小豆洗いだとは一言も言っていなかった。

「あいさつしたいだろうけど、あまり人には知られたくないから。先を急ごう。」

歩く速度を早めるカイト。色白で華奢な足からは考えられないほど力強い一歩一歩を踏みしめている。

「カイト?どうしたの……なんか、怒ってる?」

異変を察したハルが控えめな、小さな声で聞いた。カイトは、はっとしたように我に帰ると、ハルにいつもと変わらない優しい笑顔を見せた。

「ごめん、つい。つぼみちゃんのことを考えていた。治安維持局が、鬼の行動出来る範囲を狭め、天ヶ崎への進入禁止命令を出さなければ、彼女は元気になるまで高度な治療がうけられるのに。」

カイトの怒っている理由がわかり安心した。いかにも彼らしい理由で、怒りの原因は治安維持局への個人的な不満ではなく、鬼への差別だった。

「こっちだよ。」

カイトは道から外れ、背の高い草むらの中へ入っていく。

「こっちに行くの⁉だって、ここって……」

「誰も来ない荒地へ続く獣道。さぁ、行こう。足下に何かいるかもしれないから気を付けて。」

そう言って手を差しのべた。満面の笑みにつられ、ついつい手を取ってしまった。一歩足を踏み入れると、足下にいた何かが逃げていく。草だけがガサガサと音を立て、遠ざかっていった。

「大丈夫。現世で言う、ネズミのような生き物だから。」

「ネズミのような?そ……、そうなんだ。」

(かなり大きかったような……。)

そのままカイトに手を引っ張られながら進んでいく。近くにいた何か、が2人の足音に驚いてガサガサと音をさせる。たまに逃げ遅れた何か、が足に触れる。

「うわぁっ‼足に当たった。」

足に触れたのは、毛が生えているものではなく、人間の肌に近い感触だった。

「ちょっと大きなネズミさ。ほら、洞窟が見えてきた。」

(ちょっと大きなって……。しかも、感触が気持ち悪かったけど。)

ハルが顔を上げて、指差された方を見てみると、枯れて、グニャグニャとねじれた木と木の間から洞窟が現れた。コケやつる、見たこともない植物で覆われ、その入り口はほぼ見えない状態だ。

「この辺りは魔女の手下のカラスが獲物を狩る場所だから、他の人は絶対に入って来ないんだ。完璧な隠し場所でしょ?」

「うん。言われなきゃ洞窟だなんて気付かないよ。でも、魔女って……。それにさぁ、獲物ってもしかして、」

「ちょっと大きいネズミ。」

「早く行こう。食べられてるとこなんて見たくないよ。血とか嫌いだし……。」

今度はハルがカイトを引っ張り洞窟の入り口へ向かった。

「丸飲みするから大丈夫なのに。」

カイトが聞こえるか聞こえないかくらいで言った。

「カイト、このつる、頑丈で中に入れない。」

入り口に覆いかぶさっているつるを手でどけようとしたが、鉄のように頑丈でびくともしない。すると、カイトは手のひらサイズの小さなベルを取り出した。それをチリンと鳴らすと、つるが生きているかのように動き出した。あっという間に植物たちが入り口を開けてくれた。

「なにそれ‼今のなに?」

「このベルはエンマ様にもらったもの。どこにでも入れるんだ。」

「すごい……。魔法みたいだ。」

「ここは魔女の庭だからね。」

洞窟へ入るとすぐに光が見えた。この魔法の洞窟は魔女の作ったもので、どこへでも行けるらしい。赤色や黄色、カラフルな光が飛び回る幻想的な空間を進み洞窟を出た。

「あ、ここは……」

そこは、鬼瓦の深い森の中だった。よく覚えている。

「ここなら鬼たちも来ないね。もう

……来たくないと思ってたけど。」

足下には大量の虫たちがカサカサとうごめき回っている。

「急ごうか。この時間は仕事であまり鬼たちはいないだろうけど、治安維持局が見回りをしているだろうから。」

天ヶ崎だけでなく、天ヶ崎付近の地区でもその警備は強化され、ピリピリとした空気が漂っている。例えば、ほとんどのものがガラスで出来ている美しい地区、アストリアでは、その場に不釣り合いなスーツ姿の男たちが警備をしている。そのため、住民からの苦情が届いている。鬼だけでなく、治安維持局の警備の目を潜り抜けながら、つぼみと出会った井戸の近くまでたどり着いた。

「昼間のうちは番犬はいないはずだよね?」

「そのはずだよ。でも、魂が目撃されたのは鬼瓦だから警戒しているんじゃないかな。」

キイチとつぼみの家の前には、番犬が2匹目を光らせている。家からキイチが出ようとしても番犬が牙をむき、外へは出してくれないのだ。

「なんなんだよ‼外にくらい出たっていいだろうが‼このクソ犬がっ‼」

キイチの声が外まで響いてくる。そしてまた外へ出ようと、今度は鉄パイプを手にして姿を表す。

「さすがのキイチも番犬2匹は……あれ、つぼみちゃん⁉」

ハルも番犬も、キイチに気を取られて気付かなかったが、2階のベランダからつぼみが手を振っていた。

「ベランダからは、こちらが見えたようだね。そうだ、ハル。ベランダから忍び込もう!確か右隣の家は誰も住んでいないんだ。」

「ベランダから⁉」

2人は隣の家の割れた窓から中へ入ると、2階への階段を静かにかけ上がっていく。

「番犬がキイチに気を取られているうちに、急ごう。」

荒れ果てた畳の部屋は、おばけ屋敷よりも雰囲気があり、足を一歩踏み出すたびに床がきしむ。向かい合うベランダがある部屋を見つけ、音が出ないように慎重にガラスを開けた。

「カイトくん、来てくれたんだ!」

「つぼみちゃん、今からそっちに飛び移るから下がっていて。」

カイトは先に行くね、と言い残すと身軽にジャンプをして静かにつぼみのいるベランダへ着地した。

「さぁ、次はハルの番だよ。」

カイトは出来る限り腕を伸ばした。

「カイト、僕、運動神経良くないんだけと……」

「大丈夫、見た目より遠くないよ。それに、もし落っこちてしまっても、今ならキイチがクッションになってくれるさ。」

下を見ると、キイチが番犬に向かい鉄パイプを振り回しながら移動していた。

「ったく、ウザいなお前らっ‼もう、どっか行けよ。そんな1軒1軒見張んなくたって良いのによぉ。」

ハルは意を決してジャンプした。

(もし落ちたらごめん、キイチ‼)

ギリギリのとこで、ベランダの手すりに届かず、カイトが腕をつかんでくれた。宙吊りになりながら下を見ると、真下にはキイチの姿があった。

「あ、ありがとう……カイト……。」

心臓をバクバクさせながらハルが言った。カイトは力いっぱいハルを引き上げる。細く、女の子のような体型をしているが、かなりの腕力があるらしい。

「キイチならケガしないだろうけど、下には番犬がいるからね。大人に知られては大変だ。」

「ねぇ、カイトくん、その子は?」

赤色の生地に、色とりどりの花の柄がついた可愛い着物を着ているつぼみが訪ねた。

「よーく見れば誰だかわかるよ。」

「私の知っている人……、もしかして、遥界くん?」

つぼみが大きな瞳でハルを見つめる。

「そうだよ……」

ハルが白髪を恥ずかしそうにいじりながら答えた。

「全然わからなかった!変装ばっちりだね!また会えて嬉しいわ。さぁ、中に入って。」

つぼみの部屋だというそこは、畳に花柄のカーペット、レースの可愛いカーテンと洋風だ。しかも、お姫様のようなベッドに鏡のついた机は日本家屋の一室とは思えない。

「お薬持ってきたよ。体調はどう?」

「ありがとう!私ね、最近すっごく元気なの。でも、お外で遊びすぎるとクラクラしちゃうから……1人でのお散歩もダメだって言われるし。」

「そういえば、つぼみちゃんのお父さんに会ったよ。」

つぼみの出してくれたお茶を飲みながら話す。

「お父さんと?」

「うん。ハルのお仕事をもらいに行ったときにね。」

「そっかぁ、遥界くんお仕事してるなんてすごいね‼私のお父さんに会ったんでしょ。」

つぼみにそう言われたが心当たりが無かった。

「つぼみちゃんのお父さんて?」

「エンマ様に会いに行く途中、エレベーターの所で鬼に会ったでしょ?」

そういえば、エレベーターの両脇には2人の品格のある鬼が立っていた。

「もしかして、あのときの⁉……紳士的な鬼の人?」

「そうだよ!お父さんね、すっごく心配性で、毎日番犬に見張らせてるの。魂の正体は遥界くんだから……、じゃなかった。ハルくんだから大丈夫なのにね。」

「聞きたかったんだけど、もしかしてニセの情報流してくれたのって、つぼみちゃんたち?」

治安維持局には、魂は天ヶ崎とはまったく別の方へ逃げたと証言した鬼がいた。

「ふふふ。」

つぼみが自慢げにほほえむ。

「お兄ちゃんがね、適当な事言っとけ。どうせバレねぇから。って言って嘘ついたの。でもね、私はハルくんのために嘘をついたんだと思うよ。素直になれないのよ。恥ずかしがり屋さんだから。」

「そっか。キイチにはお礼を言わないとな。」

とても嬉しかった。現世では親友だと思っていた人物から裏切られ、辛い思いをした。貴明にいじめられた際は、正には見てみぬフリをされた。キイチはまだ出会って間もないが、信頼の出来る人物だ。和やかな雰囲気の中、3人で会話をしていると、下からキイチの大きな声がして会話が止まった。

「あの心配性親父めっ、今日は肩たたきしてやらねぇっ‼」

そう言いながら中へ入ってきたようだ。

「今日もダメみたいね……。毎日ああやってるのよ。ちょっと待ってて。お兄ちゃん呼んでくるから。」

みつあみにした長い髪をゆらしながら部屋を出て行く。女の子の部屋など入ったことがないため、妙に緊張してしまう。

「元気そうで良かった。」

カイトが安心したようにつぶやく。

「2人のお父さんがエンマ様の元で働いているから、その関係で知り合ったんだ。2人のお父さんも、鬼への差別をずっと訴えているんだけど……。」

「治安維持局が天ヶ崎の住人にありもしない鬼の悪い噂を流して味方を増やしてんだよ。つーかお前らどうやって入って来たんだよ!」

キイチが不機嫌そうな顔で入ってきた。ドサッと座ると、番犬との攻防戦で体力を奪われたらしく、ハルのお茶を奪い飲みほしてしまった。

「で?なんで戻ってきたんだよ。鬼瓦は天ヶ崎の次に警備がうぜぇ地区だそ?老け込んで白髪(しらが)になってんし。」

「しらっ……そんな老けて見える?」

「一瞬老人かと思ったぜ。」

「ちょっと、ボクは白髪(しらが)じゃなくて白髪(はくはつ)のつもりなんだけどな。」

カイトが2人の間に入るように言う。

「言い方の違いじゃねぇか。ったく、ここにいたら危険じゃねぇのかよ。」

相変わらず口は悪いが、ハルの心配をしているようだ。

「お兄ちゃんは、お父さんに似て心配性なの。外に番犬がいるから、まさか中にハルくんがいるとは誰も思わないよ。」

つぼみにそう言われ、口をとんがらせて黙ってしまった。そこでカイトが天ヶ崎での事について話始めた。ハルが疑われている事や治安維持局の不法捜査。

「じゃあ、ハルくんが魂だってバレちゃったの⁉」

「いや、まだ証拠が足りてないんだと思う。でも、完全に局長ににらまれてるよ……。あの人本当に怖い……。」

思い出しただけで震えてしまう。

「おいカイト、まだなんとかなんねーのか?遥界」

「お兄ちゃん、今はハルくんだよ。」

つぼみがキイチの肩に頭を乗せながら言った。

「っ……は、ハルが記憶持ったままの原因がわかりゃ解決策がなぁ」

「今日、コトリが現世での調査をしてくれているんだ。」

カイトは悔しそうに言った。

「コトリに頼りっぱなしで情けないな。」

カイトはエンマ様との契約により、こちらの住人になった時点で現世への扉を通れなくなってしまったのだ。そのため、天界でも1番自由に現世への扉を通れるコトリに頼るしかない。

「そんなことないよ。僕がみんなに迷惑をかけちゃってるのが悪いんだ。」

「ハルくん、私は迷惑だなんて思ってないよ。今とっても楽しいもん。」

つぼみがハルの手を握り、笑顔でそう言った時だった。番犬たちが急に激しく吠え出したのだ。

「誰か来たな。」

キイチが警戒し、鉄パイプを握りしめる。

「番犬が恐れるのは、エンマ様と死神だけだ。もしかしたらー……」

カイトが冷静に言うと、部屋中黒い煙に覆われた。

「カイトッ、鬼瓦に来てるにゃんて聞いてない‼探し回ってたんだにゃっ。」

余裕のない表情はコトリらしくない。かなり焦りながらカイトの居場所を探していたようだ。

「おい、なんで死神なんかが入ってくんだ。気味悪い。死神は偉そうな態度とるから気に入らねぇ。」

キイチが嫌そうな顔をして言う。

「なんにゃ、コイツ。」

「コトリ、ケンカしている場合じゃないよ。そんなに急いで何があったの?」

ハルが不安そうに聞く。もしかして、自分の居場所がバレ、治安維持局がこちらに向かっているのではないかと、ハラハラしている。

「どれから話したらいいのかにゃ……」

コトリは耳と尻尾を忙しく動かしている。

「急を要する話から。」

カイトにそう言われ、息をととのえながらコトリが話始めた。

「まず、天ヶ崎中で、魂が悪霊化して暴走してるにゃ。しかも、1体や2体じゃない。こんなの初めてにゃ。住民は天ヶ崎から避難し始めてる。鬼瓦にも緊急避難場所が設置されたにゃ。この辺は田舎だから静かだけど、鬼瓦通りは混乱してるにゃ。」

「天ヶ崎が⁉ボクは戻らないとっ」

カイトが立ち上がろうとすると、コトリが最後まで聞けにゃと止める。

「治安維持局は、記憶のある魂の正体をハルだと断定して、天界中に警告を出したにゃ。顔もバレバレ。どうするにゃ?」

「そんなっ……。」

天界中にということは、逃げ場はない。治安維持局に捕まれば、監獄、もしくは地獄行きが決定してしまう。

「それとにゃ、」

「まだあるの?これ以上悪い知らせはないだろうけど……。」

思い詰められたようにハルがつぶやく。コトリは深々とハルに向かい、頭を下げた。突然の行為に、ハルはどうしたらいいのかわからずあたふたとしてしまった。

「コトリさん⁉いきなりなにするんですか。」

カイトたちもコトリの行動に動揺した。コトリのことをよく知るカイトからしてみても、彼のこんな行動は珍しく、ましてや、知り合ったばかりのハルに対してするなど驚きなのだ。

「さすが、オイラの後輩死神ってとこにゃ。オイラと同じミスをするなんて。ハル、本当にすまないにゃ。ハルはまだ生きているにゃ。」

「え?」

コトリのその言葉に、部屋の中は静まり返った。

「ちゃんと確認せずに、ハルの魂を天界へ送ってしまったみたいにゃんだ。今日、ハルの住んでいた所へ行ってみたんだけど、交通事故で少年が病院へ運ばれたって聞いて、病院に行ってみたら昏睡状態で……。カイトとまったく同じにゃ。」

「じゃあ、ハルはまだ生きているんだね。本当に良かった。」

カイトは望んでいた結果で、安心したように体の力を抜いた。自らも生きたまま天界へ送られてしまった経験から、もしかしたら、ハルは生きているのかもしれないという可能性を願っていた。

「ハルくん、現世に戻っちゃうの?せっかくお友だちになれたのに……。」

安心するカイトとは正反対に、ショックを受けるつぼみ。隣でキイチはつぼみをなだめながら言う。

「喜んでやれよ。生きてたんだ。これ以上嬉しいことはない。」

らしくない静かで優しい声音をしていた。

「僕、生きてるんだ……。」

「そうだよ。すぐにでも扉に案内してあげて、コトリ。治安維持局に見つかる前に。」

今、捕まってしまったら、現世へ戻るのが困難になってしまう。だが、カイトはハルの様子がおかしいことに気付いた。

「ハル?なぜ、悲しそうな顔をしているの?帰れるんだよ?」

ハルの顔色をうかがいながらカイトが言う。

「昏睡状態だから、すぐに目が覚めるかはわからにゃいけど、体に魂が戻れば……」

「戻りたくないんだ。あんな場所へ。ここでは、僕を必要としてくれる人もいるし、友だちも出来た。」

ハルのその言葉に、つぼみ以外動揺を隠せず、口々に「何言ってんだよ。お前ここにいたらヤバいんだぜ?天ヶ埼では魂が暴走しててヤバイって言うじゃねぇか。早く帰った方が身のためだ。」「濡れ衣を着せられてるにゃ。指名手配されてるにゃ。オイラたち以外、全員ハルのことを危険だと思って、捕まえようとしてるんだにゃ!いくら死神でも扉を緊急閉鎖されたら開けられにゃいんだ。」と、ハルを説得させようとする。

「ハル、いくら現世が嫌いでも生きていれば、いつかきっと幸せになれるさ。生きていなきゃ。」

カイトのその言葉に心を動かされた。

「カイト……。でも、このまま帰るなんて出来ない。だって。天ヶ埼は今大変なんでしょ?魂の暴走は僕のせいじゃない。あの時目撃した治安維持局……」

ハルは、植物園での事を思い出した。治安維持局なら人々の安全を守るため、魂の記憶が戻るかもしれないという緊急事態に、何もしないというのはとても不自然だった。それに、ハルを疑っている治安維持局が、魂の暴走を彼のせいにしたのなら、そう考えたのだ。

「ハルを魂だと断定出来るだけの証拠がないなら、罪をなすりつけてしまおうという事か。」

カイトは冷たい口調でそう言う。

「魂の記憶が戻って、こんなに同時多発で悪霊化するのもおかしな話にゃ。」

「治安維持局の野郎どもがわざとやったってか?」

キイチが怒りに拳を震わせながら言うと、つぼみがその手を小さな手で包み込んだ。

「そうとしか思えない。」

ハルはポツリと言うとおもむろに立ち上がった。

「ハルくん?」

「天ヶ埼へ行こう。僕は何もしていない事を証明して、治安維持局のたくらみを暴くんだ。」

「どうやって。お前は指名手配犯なんだぜ。向こうに行きゃすぐに捕まっちまう。」

キイチはあきれたように言う。

「僕には魂を悪霊化させたい理由はない。まだ、生きているんだから未練で悪霊化する恐れもない。話せばわかるさ。大人が、子どもの言う事を信じるかわからないけど……。捕まったって良い。そしたら治安維持局と直接話せる。」

ハルの決意は固いようで、止めようとしたキイチの話など聞かない。

「キイチ、止めても無駄だよ。うちの家計は頑固者が多いらしい。ハルがそう決めたならボクは止めないよ。ただ、1人では行かせられない。ボクも行くよ。治安維持局の陰謀を暴こう。」

カイトも立ち上がり、髪飾りをキラキラと揺らした。ただ立ち上がるだけの動作も優雅だ。

「絶対ヤバイにゃ……。ハルとグルってバレたらどうにゃるか。オイラも共犯になっちまうにゃ。」

あぐらをかいて大きなため息を吐く。そんなコトリの姿を見たキイチが無造作に立ち上がり、上から目線で言う。

「死神の仕事はここまでだ。休んでろよ猫。俺は治安維持局の奴らが大っ嫌いなんだ。奴らをぶっ飛ばせるんなら俺も行く。鬼の侵入禁止とか言ってられないだろ。」

バサッと上着を羽織ると、つぼみが腕にしがみついた。

「待って、お兄ちゃん。お兄ちゃんが行くなら私も……」

「危ない所には連れていけない。お前に何かあったらどうすんだ。ここで待ってろ。」

首を横に振るつぼみ。

「つぼみちゃん、キイチの言う通りだよ。ここで待っていて。必ず帰ってくるから。」

つぼみは腕を離すと、ベッドにちょこんと座り、不機嫌そうに顔をゆがめた。

「いっつも私を仲間外れにする。良いよ。男の子たちだけで行けば。」

「ああ。男だけで行ってくる。」

キイチはケンカを売るようにコトリを見た。

「お前さん、性格悪いって言われにゃいかい?よく、ハルも友だちになったにゃ。ハル、こんな鬼よりもオイラの方が役に立つにゃ。」

「2人とも、ケンカしないで。」

ハルが言うと、コトリは黒いフードを深くかぶり直し、自分の近くに集まるように指示した。ハルとキイチが目を合わせて首をかしげていると、説明しないコトリに代わってカイトが口を開く。

「コトリは好きな所へ一瞬で移動できるんだ。コトリの上着をつかんで。」

天界で唯一死神だけが出来る移動手段だ。

「早くしろにゃ。」

最後にキイチが嫌そうにつかむと、4人は黒い煙となり、一瞬でつぼみの部屋から姿を消してしまった。

「男の子なんて信じらんない!つぼみだって。」

つぼみは1人、部屋に残されてしまった。



全身が黒い煙に包まれ、視界までもが真っ暗になったと思うと、次の瞬間天ヶ埼の大通りに移動していた。いつもなら大勢の人で賑わっている大通りも、緊急事態で人ひとりいない状態だ。中にはガラスが割れている店も何軒か確認出来た。

「こりゃ相当暴れているにゃ。で、どうするにゃハル。悪霊退治?それとも治安維持局の大人退治?」

「まずは魂だ。悪霊化してしまった魂を元に戻すんだ。……どうやれば良いのかわからないけど。カイトは知ってる?」

キイチはグルグルと大通りを見渡す。

「みっともない。田舎もん丸出しにゃ。」

コトリがさっきのお返しだと言わんばかりにからかう。

「んだと?」

「2人とも静かにして。見つかったら大変だよ。ケンカは後にしてね。」

カイトが2人の間に入り、ハルの質問について答えた。

「治安維持局は、悪霊化してしまったら手遅れだと言って、地獄の門へ無理矢理送るんだ。」

「そんな……、他に手はー」

ハルは突然黙り込んでしまった。誰もいない大通りは、風の吹き抜ける音しかしない、静かすぎる空間になった。

「どうしたの、ハル。」

「なんの音?これ……。すごく怖い。人の悲しい声みたいだ。」

3人は耳をすませた。ハルの聞いたという、人の声のようなもの聞き取るためだ。さらに静かになる。すると。遠くからオォーという人の声のような機械音のような不気味な音が聞こえてくる。

「みんなも聞こえるでしょ?なんか、こっちに近づいてくるような……」

不気味な声がだんだんとはっきり聞こえてくる。ハルは恐怖に身震いをした。

「あっちからも、そっちからも聞こえるにゃ。」

「悪霊かもしれない。隠れるんだ。」

カイトはハルの背中を押し、3人を誘導した。どんな状況においても、頼れる存在だ。4人は鍵のかかっていないガラ空きの店に入り、窓際の物陰に隠れた。恐る恐る窓の外をのぞくと、声の主と思われるモノが姿を現した。木で出来た堀の深い不気味な顔に、真っ黒の着物、首だけが前にのめりだしたおかしな体形。見るからに不気味な存在だ。

「あのでっかいのが悪霊なのか?」

悪霊化した魂を見た事がないハルとキイチが聞く。

「そうにゃ。オイラも久しぶりに見た……。」

「魂案内人という仕事が出来てから、ほとんど魂が悪霊化なんてしていないから。大変だ。彼らは思い出をたどって現世へ戻ろうとする。」

「ねぇ、現世への扉ってどこにあるの?」

ハルがカイトに視線を送る。とてもじゃないが、ずっと悪霊を見ているなんて出来なかった。ハルの背後から外をのそきながらカイトが答える。

「扉は、エンマ様のオフィスから現世への扉に通じる道があるんだ。だから、きっとエンマ様はそこを守っている。今は天ヶ埼内を徘徊して彷徨っているけど、そのうち扉を見つけてしまう。」

店の目の前の道を、悪霊が不気味な声を発しながら通り過ぎる。

「なんだか……、悲しんでるみたいだ。この声も表情も。」

その時、どこからか人の声が聞こえてきた。かすかだが、はっきりとハルの耳に届いた。

「逃げ遅れた人がいるのか?」

キイチが窓から、声のした方を見るが、ここからでは確認出来なかった。するとハルがすくっと立ち上がり、声がした方へ行こうとした。

「ハル、待つにゃ。お前さんが思ってる以上に悪霊は危険にゃ。」

「でも、」

こうしている間にも助けを呼ぶ声は聞こえ続けている。幼い少女のように聞こえる。ハルはコトリの制止を振り切り、先ほどとは別のドアから出ていく。

「追いかけよう。」

3人はハルの後を追う。通りの向こうの方を横切る悪霊や、遠くの方からハルを見つけ、こちらへ向かってくる悪霊。ゾッとするような光景だが、悪霊の事をよく知らないハルは声の主のもとへと急いだ。狭い路地裏を抜け、橋を渡ると、幼い少女が物陰に身をひそめていた。ハルが見つけたときにはすでに悪霊に見つかり、悪霊ががま口のような大きな口を開け襲いかかっていた。するとどこからか、空き缶が物凄い勢いで飛んできて、悪霊に直撃した。

「かおりさん⁉」

「あんた、こんなところで何してんのよ!」

見るとかおりが木刀など武器を持って駆けつけた。

「私は逃げ遅れた人を探して……、って、何ぼーっとしてんのよ。早く逃げれば?」

冷たくハルに言い放つ。いつも強めの口調で話すが、いつものそれとは違った。ハルは、自分が魂だという事を隠し嘘を吐いていた。しかも、魂を暴走させたのは自分だと思われ、冷たくされたのかと思った。

「ここら辺は治安維持局がウロウロしてるわ。悪霊を地獄へ送るためにね。ハルも捕まったらどうなるかわかんないんだから、逃げなさい。」

予想はずれの言葉が返ってきてポカンと口を開けたままのハルにかおりは続ける。

「私だって最初はハルの事……、でも、あんたにはこんな根性ないだろうし、私を助けてくれたのもハルだった。だから安心しなさい。」

かおりのその言葉を聞いて安心した。

「信じてくれるんだ。良かった。かおりさんには嫌われるかと思ってた。」

「ちょっと、私をなんだと……」

かおりの背後から悪霊が忍び寄っていた。やはり大きな口を開いて襲い掛かる。かおりは少女を抱きかかえながら必死で逃げる。幼い少女と言っても、ひと1人分の重さを抱えて走るのは、細身のかおりにとって、簡単じゃない。

「かおりさん、橋を渡って、向こうの通りへ行ってください!カイトたちがいるはずです!」

「ハルは?」

「囮になります。」

ハルはかおりとすれ違うと、橋とは反対側に向かって走り出した。悪霊は誰でも良いらしく、目の前を通り過ぎたハルへ興味を移した。


「あいつどこ行きやがった!」

キイチは声を上げ、コトリの尻尾を力いっぱい握りしめた。

「痛いにゃ!」

相変わらず2人はケンカしながら歩いていくと、

「かおり?」

カイトが少女とかおりを見つけ駆け寄る。

「カイト、ハルがっ」

かおりにハルと最後に会ったを場所を教えてもらい、カイトはその方向へ走り出した。コトリもついていく。「お前さんは2人を安全な場所に案内しろにゃ。」と、コトリに指図されて、キイチは舌打ちをした。

「言われなくてもわかってんだよ。猫野郎。」

かおりが抱き抱えている少女をおんぶしたキイチが聞く。

「どこに行けば良い?この辺の事はなんも知らねえんだ。」

「逃げ遅れた人たちは、うちの会社に集まってる。そこなら安全かも。案内するわ。」

かおりは魂案内観光会社へと急いだ。絹川社長は避難せず、最後まで天ヶ埼に残り、逃げ遅れた人々に避難場所を提供していた。



ハルは無我夢中で走った。振り返ればすぐそこに悪霊が迫っているからだ。ずんぐりむっくりの体形に似合わず、かなりのスピードを出している。悪霊には体力や疲労の概念がないらしく、限界を迎えているハルを追い詰める。

「?」

歌が聞こえた。聞き覚えのある、優しい歌声だ。だが、ここで聞こえるはずのない歌だ。

「つぼみちゃん?」

優しく包み込むような歌声はつぼみの歌声とそっくりだった。キョロキョロしながら通りを駆け抜ける。あちらこちらに悪霊の姿があり、つぼみの姿はない。するといつの間にかハルに迫っていた悪霊がいなくなっている。

「何してるんだ?」

悪霊はピタリと動きを止め、涙を流しているように見えた。すると、明るい光に包まれて、そのおぞましい姿を変化させていく。

「なにが起こってるんだ?」

何が起きているのかはわからなかったが、ハルは悪霊に背を向け、歌声が聞こえる方へ歩いた。その道中、他の悪霊たちにも同じことが起きていた。どの悪霊も動きお止め、歌を聞いているようにも見えた。

「ハルくん!!!」

大きな声を出しながら、物陰からつぼみが飛び出してきてハルに抱き着いた。やはり歌声はつぼみのものだった。

「つぼみちゃん、なんでここにいるの?」

「みんなで私を置いていくから。」

まだ少し拗ねているらしい。

「でも、怖いのがたくさんいるから、歌を歌っていたの。そうすれば見つけてくれるかもって思って!」

つぼみは頬を膨らました表情から、満面の笑みを見せた。その時、ピタリと動きを止め、光に包まれていた魂が、もとの人間の姿に戻りだした。

「やっと見つけた。ハル、ケガはない?」

息を切らしながらカイトとコトリが駆けつけた。無傷のハルを見て安心するも、つぼみを見て2人は驚いた。

「にゃんでお前さん……」

コトリはそう言いかけたが、最後まで言い終わらなかった。コトリの視線の先には治安維持局の男たちがいたからだ。黒スーツの男たちは1人1つ手鏡を持ち、悪霊たちにそれを向け次々と吸い込んでいく。

「あれは?」

ハルが顔をしかめながら聞いた。

「悪霊たちを地獄へ送っているんだ。鏡には不思議な力がある。ひどい事だけど、仕方のない事なんだ。」

カイトは唇を噛みながらその光景を見た。ハルはふと魂を見た。なぜこの人たちはもとの姿に戻れたのか。

「お前さんたちも早く逃げにゃ。」

コトリが魂に話しかける。魂は混乱しているようで動けずにいる。コトリは「魂たちを避難させるにゃ。」と。言って魂たちを誘導していく。

「その人、さっきまで悪霊だったんだ。なんで戻れたんだろう……。つぼみちゃんの歌が聞こえてきて……」

「本当に悪霊だったの?悪霊が魂に戻れるなんて信じられない。」

「そこで何をしているんだね?」

冷たい声が響き渡る。ハルにとって1番聞きたくない声だった。

「治安維持局局長……」

背の高いその男はハルたちを凝視して、口を開いた。

「君は本当に魂なのか?」

その言葉にカイトは

「あなたたちが、そう判断してハルを指名手配したのでは?しかも、とんだ濡れ衣を着せて。」

凛としたその表情は、大人でさえ圧倒されてしまいそうだ。

「私はまだ断定などしていない。中途半端な証拠だけで判断出来ると思うか?それに、濡れ衣など知らん。」

「どういう事ですか?だって、治安維持局が僕を……」

「私は何も指示していない。私も君が魂を暴走させた犯人だという報道を見て驚いたのだ。」

治安維持局がハルを記憶のある魂と断定した上、魂の暴走をハルの仕業と報道した。だが、治安維持局のトップであるこの男は何も知らないと言う。ハルは混乱しながら、この状況で1番重要な事を忘れていた事に気付く。今、こうして話している間にも、罪のない魂が地獄へと送られているのだ。

「そうだ、今は僕の事はどうでもいい。魂を助けないと……」

すると局長は、

「そうだな。君にかまっているヒマはない。これを使いなさい。」

ハルに古びた手鏡を渡した。向こうで黒いスーツの男たちが持っているものと同じだ。

「これって……」

「悪霊を地獄へ送るための呪いの鏡だ。」

ハルは躊躇する事なく手鏡を地面に叩きつけて割ってしまった。

「ハルくん⁉」

大きな音を立てて割れた鏡は、力を失うようにみるみるうちにさびついてしまった。

「なにをするんだね。」

「地獄へ送らない方法があるはずだよ。だって、実際もとの魂に戻れたんだから。」

ハルは真っ直ぐな視線を局長へ送る。さっきまで局長を恐れていたハルとは思えないその視線に、局長はごくりとつばを飲み込んだ。

「他に方法などない。大人の言う事は聞けと教わらなかったのかね?」

「大人が100%正しいとは限らないだろ?あんたみたいな自分が正しいと思ってる大人はいっぱい見てきた。子どもに意見を押し付けるだけで、僕たちの話は聞こうとしない!だから大人の言う事は信じない。悪霊は魂に戻ることが出来るんだ。この目で見たから。つぼみちゃんの歌が……」

いっきにここまでしゃべると、ハルは考え込んでしまった。

「ハル?」

カイトは優しい声で聞く。

「もしかして、つぼみちゃんの歌……」

「つぼみの歌が何?」

ハルは思い出していた。必死で逃げていると、つぼみの歌声が聞こえてきた。すると悪霊たちは動きを止め、もとの魂に戻っていった。

「つぼみちゃんの歌声が悪霊をしずめた……そういう事かな?」

「カイトくん?つぼみ……、そんなこと出来ないよ?」

オロオロするつぼみ手を握りハルが言った。

「始めてつぼみちゃんの歌を聞いた時、心があたたかくなった。痛みとか恐怖がなくなったんだ。もしかしたらつぼみちゃんの歌にはすごい力があるのかも。」

「試してみよう。ここからすぐのところに放送局がある。そこなら天ヶ埼中に歌を届けられる。」

カイトが提案する。

「そんな事をしている場合ではない。それに鬼は天ヶ埼への侵入禁止だ。監獄へ行きたくなければ……」

「魂を救えるのはつぼみちゃんだけだ!」

ハルはつぼみの手を引き、放送局へ走った。天ヶ埼の地図はすべて頭に入っている。迷う事なく放送局へ向かう。

「待ちなさい!!!」

局長が叫び、追いかけようとするとカイトが立ちふさがった。カイトは先ほどとは違い、優しそうな笑みを浮かべ局長を見上げた。

「何をするんだ!」

「エンマ様の息子には逆らえないでしょう?少しでも可能性があるのなら、法律など無視してやってみるべきだ。」

エンマ様の息子という権力は、普段は絶対に使わない手段だ。カイトが足止めをしている間に2人はドンドン遠ざかっていく。


「ハルくん、この機会なあに?」

「つぼみちゃんの歌を天ヶ埼中に届ける機会だよ!」

広い放送室の中は、学校の放送室とは違い、様々なスイッチやレバーが並んでいて、どれをどうしたら良いのかさっぱりだった。

「このスイッチと、このボタン。これは音量調節。わかった?」

振り向くと、そこには骨とう品屋の(妖怪小豆洗いと判明した)お兄さんが立っていた。

「俺の兄がね、放送局で働いてるんだ。もう避難したみたいだけど。せっかく迎えに来たのに。」

「ありがとう!新井さん!」

ハルは機械を手早く動かし、天ヶ埼中のスピーカーにつないだ。

「つぼみちゃん、歌って。」

「でも、本当に私の歌に力があるの?」

「信じて。」

つぼみはハルの袖をつかみながら、不安そうにマイクに顔を近づけた。小さな口を明いっぱい開け、か細い声を出した。その歌声はスピーカーを通し、天ヶ埼中へ響き渡る。その場で聞いているハルと新井もうっとりしてしまい、自分がどんな状況に置かれているのかも忘れてしまう。


「なんですかねえ?この美しい歌は。」絹川社長は体を窓にべったりとつけ、つぼみの歌に聞きほれている。

「本当だわ。女の子の歌声が聞こえてくる……。スピーカーからかしら?」

「つぼみ……?」

隣でそうつぶやいたキイチに、かおりは

「知ってる子?」

「妹だよ。スピーカーってことはどこにいるんだ?」

「きっと放送局ね。案内しましょうか?あんた、こっちに詳しくないんでしょ。」


「優しい歌にゃ。これは……」

コトリの周りでは、悪霊が次々と動きを止め、光に包まれていく。魂に戻った人々は、涙を流しながら口々に言う。

「この歌は何?寂しさを忘れせてくれる。」

「こんな方法があったにゃんて。」

コトリはスピーカーから聞こえてくる歌を、大きな耳で聞きながら周りの魂たちに手を差し伸べた。


「すごい……成功したね、ハル。」

カイトは辺りを見回した。おぞましい姿をして襲いかかってくる悪霊はもういない。あたたかい光に包まれ、魂に戻った人々がいるだけだ。局長はその光景を信じられないと言わんばかりに目を見開いた。

「局長、ハルは魂を暴走させたりなんてしていません。それに、確かに魂ですが、まだ生きているんです。我々の手違いでここへ送られてしまっただけだ。現世へ、帰してあげましょう。」


「つぼみちゃん、やったよ!悪霊が消えていく!」

窓の外を見ながらハルが言った。つぼみはほっとするように近くにあった椅子に座った。

「つぼみっ!!!」

キイチが勢いよく入って来た。

「お兄ちゃん、つぼみ、がんばったよ!」

笑顔のつぼみを見て、キイチは安心した。

「つぼみに何かあったらどうしようって、ずっとうるさかったのよ?やったわね、ハル。」

後から入って来たかおりが、ハルの隣へ腰かけた。

「みんなのおかげだよ。」

和やかな雰囲気の放送室に、突然スーツの男が入って来た。突然の事で、みんなから笑顔が消えた。

「ハル様、エンマ様のオフィスへお越しください。」



ハルはどうなってしまうのだろうとドキドキしながら、エンマ様がいるオフィスへと続く廊下を歩いていく。そしてかおり、キイチとつぼみが後に続く。爆発しそうな心臓をなで下ろしながら、重たいドアを開けた。

「カイト、それにコトリさん……」

「ハル、ハルたちのおかげで悪霊による被害を最小限に抑えることが出来た。その上、悪霊を魂に戻すことも出来た。本当に感謝するよ。」

「でも……、僕は何もしていないよ。つぼみちゃんがいなかったら解決出来なかった。」

ハルはエンマ様の控えるカーテン前まで進んだ。

「本当にすまない事をしてしまった。ことらのミスで生きたまま魂を天ヶ埼へ送り込んでしまうなど。その上、魂を暴走させた犯人にしてしまった。謝らせてくれ。」

カーテンで見えないが、どうやら深く頭を下げているようだ。治安維持局局長も、「私の部下が迷惑をかけた」と、頭を下げた。

「ハル、魂を暴走させたのは、治安維持局の人たちだったんだ。上司である局長に責任を取らせて、局長の地位を剥奪するためにやったらしい。1人が後発してきたんだ。」

植物園での不可解な事件は、すべて治安維持局の部下によるのもだった。

「ハル、本当にごめんね。でも、エンマ様もすぐに現世への扉をひらいてくれるって。帰れるんだよ。」

だが、ハルは浮かない顔をしている。

「ハル?やっぱり、戻りたくない?」

「そうじゃないよ。ただ、お願いがあるんだ。」

エンマ様は、自分が出来る事なら、とハルの話を聞いた。

「鬼の人も自由に天ヶ埼へ出入り出来るようにしてください。今回、魂を助ける事が出来たのはつぼみちゃんのおかげです。キイチだって、現世で友だちだった人たちよりも親切で優しくて。だから、治安維持局の人が言うように、天ヶ埼の治安が悪くなるとは思えません。あと、魂を悪霊化させてしまった人たちを監獄から出してください。今回みたいにわざとじゃないんだ。その人たちは何も悪くない。」

エンマ様は快く快諾し、「早急に処理しよう。」と。言ってくれた。

「じゃあハル、時間だ。」

カイトがほほ笑む。

「ありがとうハル。あんたの事忘れないよ。また、どこかで会いましょう。」

かおりが優しい笑顔を見せた。女の子らしく。とても可愛い笑顔だった。

「もう来るなって言いたいけどな。友だちだから歓迎してやる。」

「ハルくんと友だちになれて、私幸せだよ」

泣きそうになりながらキイチとつぼみか言う。

「早くしろにゃー。ハル。オイラが扉まで案内するんだから。」

コトリが急かした。だが、フードを深くかぶり、表情は見えない。

「ハル、最後に伝えてほしい事があるんだ。」




仲間との別れを惜しみながら扉へと向かった。もう会うことは出来ないかもしれない。そんな事を考えながら、いつの間にか寝てしまい、次に目が覚めると、病院のベッドに寝ていた。目を覚ました遥界を見て泣き出す家族。遥界にはそんな事どうでもよかった。早く、おばあちゃんに伝えなければ。カイトが「またいつか絶対に会えるよ。」そう伝えてほしいと言ったのだ。あの時伝えられなかった言葉。おばあちゃんの到着を待つ遥界の手には、カイトから渡されたベルが握られていた。

「またいつでもおいで。天界は人手不足なんだ。」



今日は2020年8月10日。




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