第63話・そこにあった存在

 学園で交わした琴美との会話に異変を感じた俺は、学園を飛び出してから急いで拓海さんの家へと向かい始めた。しかし持っていた鞄が邪魔で走り辛く、俺は拓海さんの家へ向かう途中で通過する我が家の玄関先に鞄を放り込んでから再び走り始めた。

 我が家から拓海さんの家までは歩いて片道二十分ほどだが、元々から体力が無い俺は、途中で立ち止まっては息を整えるという行動を繰り返しながら進んでいた。


「そ、そうだ!」


 走っている途中で携帯電話の存在を思い出した俺は、急いで立ち止まってポケットから携帯を取り出し拓海さんに電話をかけた。しかし何度コール音を鳴らしても、拓海さんが電話に出る気配はなかった。

 そうこうしている内にある程度息が整った俺は、通話を切ってポケットに仕舞ってから再び拓海さんの家へと向かって走り始めた。


「――ハアハア……」


 息切れと休憩を繰り返しながらようやく拓海さんの自宅前へと辿り着いた俺は、まず拓海さんの部屋がある二階の窓を見た。

 そこには以前お邪魔した時に見たのと同じ水色のカーテンが引かれていて、その様子からは拓海さんが部屋に居る気配は感じられない。

 だけど俺は、何の迷いも無く玄関のチャイムを鳴らした。しかし何度チャイムを鳴らしても、拓海さんが出て来る気配はなかった。

 そして、やっぱり誰も居ないのかなと思って扉のドアノブを回して引いてみると、意外にもドアはカチャ――っと音を立てて開いた。


「拓海さーん。居ますかー?」


 開いた扉から顔を覗かせて恐る恐る声を出し、拓海さんを呼んでみた。しかし、その声にまったく反応は無い。


「拓海さーーん!!」


 俺は静まりきった家の玄関へと入り、さっきよりも大きな声で呼び掛けてみた。すると二階の方から、ゴトッ――と何かが床に落ちた様な音が聞こえてきた。


「すみません! お邪魔します!」


 拓海さんに何かあったのかもしれないと思った俺は、大きな声でそう言ってから靴を脱いで家へと上がり、急いで階段を駆け上がった。

 そして階段を上がりきった所のすぐ横にある拓海さんの部屋の扉が大きく開いているのが見え、俺はそこへと近付いてからそっと部屋の中を覗き見た。


「拓海……さん?」


 部屋の中には虚ろな目をして座り込んでいる拓海さんが居て、その虚ろな視線の先には複数のアルバムと沢山の写真が散らばっていた。

 そしてそんな拓海さんの姿からは、まったくと言っていいほど覇気を感じない。


「拓海さん? どうしたんですか?」


 静かに拓海さんの前まで行ってその肩に手を伸ばし、俯いて座っている拓海さんの身体を揺する。

 しかし拓海さんはその行為に何の反応も示さない。俺の手が身体を揺らす勢いに、ただ黙って無抵抗に揺られているたけだ。


「拓海さん! しっかりして下さいっ!」

「……あっ、涼太君か……どうしたんだい?」


 さっきよりも強く身体を揺すって何度か呼び掛けると、拓海さんはようやくその顔を上げて反応してくれた。


「拓海さんこそどうしたんですか? 俺が来た事にも気付かないくらいぼーっとして」

「そっか……ごめんな、涼太君……」


 拓海さんはそう言うと再び俯き、床にある写真へと視線を向ける。

 そして俺はそんな拓海さんに釣られる様にして写真へと視線を向けた。


「これは……」


 そこにはほんのちょっと前、七夕に明日香と由梨ちゃんが二人で短冊の取り付けをしていた時に拓海さんが撮っていた写真があった。

 しかし、その写真に写っているはずの由梨ちゃんの姿は無く、明日香の姿だけしか写っていなかった。


「……拓海さん。由梨ちゃんは?」

「…………由梨は今朝、笑顔で新しい未来に旅立ったよ」


 拓海さんは顔を上げて泣き腫らした様な赤い目を俺に向け、にこやかな微笑を浮かべてそう言った。


「拓海さん……」

「涼太君。僕はね、由梨との約束どおり泣かなかったよ。笑顔で由梨を見送った。でもさ、由梨が旅立ったあとでアルバムを見たら、どこにも由梨の姿が無いんだ。確かに由梨はここに居たはずなのに……まるで最初から居なかったみたいに――」


 段々と拓海さんのつむぐ言葉は震え始め、最後には言葉にならなくなった。そしてまた俯いてしまった拓海さんの下にあった写真に、大粒の涙がこぼれ落ちるのが見えた。

 初めて見る拓海さんのそんな姿に俺は何も言ってあげる事ができず、ただ黙っている事しかできなかった。


「――ごめんな、涼太君。しばらく独りにしてくれないかな……」

「はい……分かりました」


 ここに居ても俺には何もできない。拓海さんの気持ちが分かったとしても、それを慰める事はできない。

 俺は自分の無力に思いっきり歯を食いしばりながら部屋を出た。


「由梨――」


 そして部屋を出てから階段を下りようとしたその時、部屋の中からぽつりと由梨ちゃんの名を口にする拓海さんの声が聞こえた。


× × × ×


 拓海さんの家をあとにして自宅へと戻った俺は、自室に置いてあるアルバム取り出してその中の写真を見始めた。

 そのアルバムには明日香が妹になってしばらくしてから撮り始めた写真があり、沢山の思い出がその中には詰まっている。そしてそこには、明日香の親友である由梨ちゃんが写った写真も沢山収められている。だが、俺が今開いているアルバムにはその写真が一枚も無い。

 いや、正確に言えば由梨ちゃんが写っていた写真自体はある。しかしその写真は、最初から由梨ちゃんだけが居なかったかの様にして綺麗にその姿が無くなっていた。


「サクラ! 出て来てくれっ!」


 いつもなら近くに居れば呑気な声を出しながら目の前に現れるサクラだが、今回は何度呼んでもサクラはその姿を現さなかった。

 そしてその日の夜。

 明日香と一緒に食事をしていたリビングは異常なほど静かだった。お互いに何も喋らず、ただ目の前にある食事を黙って箸で口へと運ぶだけ。

 しかし時々だが明日香の箸の動きが止まる事があり、その時に視線をチラリと向けると、手で目の辺りを拭っているのが見えた。でも、そんな明日香の姿を見ても、俺は何も声を掛けてあげる事ができなかった。


「ごちそうさま……」


 まだだいぶ食べ物が残っているにもかかわらず、明日香は小さく手を合わせてから食器を台所へと運んで行く。

 明日香が自宅へと帰って来た時、俺は玄関で明日香を出迎えた。そしてその時に明日香が一言、『由梨ちゃん、消えちゃった……』と呟いた。

 そんな明日香の言葉を聞けば、大体どんな事があったのかは想像がつく。俺が学園で琴美と話した時の様に、おそらく小学校の先生も、クラスメイトでさえも、誰一人として由梨ちゃんという存在を覚えていなかったんだろう。

 まるで最初からそんな人物など居なかったかの様に。


「ごちそうさま……」


 俺も明日香と同じく、大半の食べ物を残した状態で箸を置いた。

 明日香と違って手を合わせる事もなく呟いたその言葉は、静かな部屋の空気にスッと溶け込む様に消えた。

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