第62話・訪れたその時

 あと数日で夏休みを迎えようというある日の朝。

 この日も俺は、いつもの様に朝食の準備をしていた。そこまではいつもと何も変わらない日常だった。

 しかし、いつも起きて来る時間になってもリビングに現れない明日香を変に思った俺は、明日香を起こす為に部屋へと向かった。


「明日香。起きてるか? そろそろ起きないと遅刻するぞ?」


 コンコンと扉をノックして中に居る明日香に声を掛けるが、中に居るはずの明日香からは一切返答がこない。


「入るぞ?」


 その事に妙な胸騒ぎを感じた俺はそう言ってから扉を開き、部屋の中へと入った。すると部屋の中にはベッドで寝ている明日香の姿があったが、明日香は何か小さく寝言の様な事を呟いていた。

 俺は明日香が何を言っているのかが気になり、そのまま明日香へと近付いてその言葉に耳を傾けた。


「由梨……ちゃん……いか――で」


 ――由梨ちゃん?


 あまりに声が小さくて全てを聞き取れはしなかったけど、由梨ちゃんの名前だけははっきりと聞き取る事ができた。

 その事に由梨ちゃんが夢の中に出てるのかなと思って再び明日香の顔を見ると、その閉じた瞳から一筋の涙が流れ落ちるのが見えた。

 そんな明日香を見て嫌な予感がした俺は、急いで明日香の身体を揺らして起こそうとした。普通ならそれくらいで起こしたりはしないかもしれないけど、ここ最近の由梨ちゃんの行動や、明日香達が幽天子である事を考えれば、嫌な予感の一つや二つがしても仕方がないと思う。


「明日香! 起きるんだ明日香!」

「あっ……おにい……ちゃん?」

「うなされてたみたいだけど、大丈夫か?」

「お兄ちゃん!」


 薄っすらと目を開けた明日香は俺の姿を確認するとパチッと瞳を開き、素早く上半身を起こしてから俺に抱き付いた。


「お、おい!? いったいどうしたんだ?」

「由梨ちゃんが……由梨ちゃんが……」


 明日香は俺に抱き付いたまま泣きじゃくり、由梨ちゃんの名前を何度も声に出す。しかしそのあとの言葉がどうしても続かないみたいで、ずっと由梨ちゃんの名前だけを泣きながら口にする。


「慌てなくていいから。ゆっくりでいいから」


 俺はそう言って明日香の頭を優しく撫で、気持ちが落ち着くのを待った。


「――いったいどうしたんだ? 怖い夢でも見たのか?」


 約十分くらいが経ったあと、ようやく落ち着きを取り戻した明日香と一緒にリビングまで下り、ソファーに座らせてから何があったのかを尋ねた。


「……由梨ちゃんがね、お別れを言いに来たの」

「えっ!?」


 明日香の口から飛び出たその言葉は、俺を驚かせるには十分だった。


「お別れを言いに来たって……どういう事だ?」


 その言葉の意味はなんとなく分かっていたけど、俺も相当に気が動転していたせいか、思わずそう聞き返してしまった。


「由梨ちゃんがね、私の所に来て言ったの。『明日香ちゃん、今まで楽しい時間をありがとう。友達になれて良かった。いつかまた会う事ができたら、今度も一緒に遊ぼうね。大好きだよ、明日香ちゃん』って……」


 そう言ったあと、明日香の瞳からは再び大粒の涙がこぼれ始めた。

 そんな明日香の話を聞いて想像できる事と言えば、もう一つしかない。それはつまり、幽天子である由梨ちゃんが、この世界から旅立った――という事だ。


「で、でもさ。それって明日香の見た夢だろ?」


 空気を読めてないと言われるかもしれないけど、俺は泣いている明日香を見てそんな事しか言えなかった。だって、ずっと一緒に居た親友が居なくなってしまったなんて、思いたくないじゃないか。


「…………」


 そんな俺の言葉に、明日香は何の反応も示さない。

 希望と言うよりも願望に近いかもしれないけど、俺は明日香に『学校に行ったらいつもみたいに元気な由梨ちゃんが居るさ』と言って元気づけ、その日は一緒に小学校の校門前まで付き添った。

 そして俺が花嵐恋からんこえ学園へ着いた時には一時間目の授業が始まった頃で、俺はクラスメイトの注目を浴びながら席へと座って授業を受けた。


「――涼君が遅刻するなんて珍しいね。何かあったの?」


 一時間目の授業が終わってすぐ、琴美が心配げにそう尋ねて来た。


「ああ、いや。ちょっと明日香が嫌な夢を見たとかで朝に落ち込んでたからさ、ちょっと慰めてたら遅くなっちゃったんだよ」

「そうだったんだ。相変わらず涼君は優しいね」

「そんな事ないさ」

「でも、あの明るい明日香ちゃんがそんなに落ち込んじゃう夢って何だったの?」

「うん。詳しい内容はよく分からないけど、由梨ちゃんとお別れする夢を見たらしいんだよ」

「ゆりちゃん?」


 俺の返答を聞いた琴美は視線を小さく泳がせながら黙り込み、何か考えを巡らせている感じの様子を見せた。


「どうかした?」

「えっ!? いや、あの……ゆりちゃんて、誰?」

「はっ?」


 琴美の口から出た言葉を聞き、俺は間抜けにも裏返った声が出てしまった。


「誰って、明日香の親友の由梨ちゃんだよ。キャンプやもみじ狩りやお花見に行った時も一緒だったじゃないか。それに、この前の七夕でも一緒に短冊を飾っただろ?」

「えっ?」


 その言葉を聞いた琴美の表情はさっきよりも更にけわしくなり、首を傾げる角度もより深くなっている。

 そしてそんな琴美の様子を見た俺は、いよいよおかしいと思っていくつか質問をしてみる事にした。


「なあ、琴美。去年の夏にキャンプに行った事は覚えてるか?」

「うん」

「その時、自分を含めて何人でキャンプに行った?」

「ええっと……私を含めて五人だったと思うけど?」

「えっ!? そ、それじゃあ、去年のクリスマス会の時に琴美のプレゼントを受け取ったのは誰だった?」

「えっ? それは明日香ちゃんだったじゃない」


 そこまで聞いて俺ははっきりと確信した。琴美は由梨ちゃんの事を忘れているわけじゃなく、覚えていないわけでもない、単純に知らないのだと。

 それが証拠にキャンプに行った人数も違うし、何よりクリスマス会で琴美のプレゼントを獲得したのは、他ならぬ由梨ちゃんだ。それすらもまるで書き換えられているかの様に違っている。


「琴美ごめん。俺ちょっと大切な用事を思い出したから早退する」

「えっ!? ちょ、ちょっと涼君!? 待って!」


 呼び止める琴美の言葉が聞こえながらも俺は鞄を持って廊下へと飛び出し、そのまま学園の外へと走り出た。

 そして俺は更なる確認をする為、急いで自宅への帰路を走った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る