第36話・優しき少女の在りし頃

 意識が遠のいたあとで身体に突き刺さる様な寒さを感じて目を開くと、俺は闇に染まった空にふわふわと浮かんでいた。

 そしてそんな闇に染まった空でふわふわと浮いている俺の視界に、真っ白く小さな物がチラチラと舞い落ち始めたのが見えた。

 こうやって宙に浮いている自分に疑問を感じつつも、身体に伝わって来る寒さの方が気になり、俺は両手で身体を抱き包みながらスリスリと手を動かして身体を温めようとした。しかしどれだけ素早く手を動かして身体を温めようとしても、身体に感じる寒さはゆるまる事なくこの身体を冷やしていく。

 しかもどことなく寂しい様な悲しい様な、不思議な感覚が心の中に渦巻いている。


 ――この感覚は何だ?


『涼太君。私の声が聞こえる?』

「サクラか!? どこに居るんだ?」


 唐突に聞こえてきたサクラの声に、俺は辺りを見回しながらその姿を捜すが、上下左右のどこを見てもサクラの姿を見つける事はできなかった。


『そこで私を捜しても見つからないよ。私は今、寝ている涼太君の側でその意識に向かって話し掛けているから」

「じゃあここは、夢の中みたいなものか?」

『うん。認識としてはそれでいいと思う。だけどそこはね、夢だけど夢じゃない世界なの』


 ――何だその矛盾に満ちた説明は。


 この身に感じる寒さは、夢や幻と言うにはあまりにもリアル過ぎる。


『涼太君。君が今居る場所のちょうど下に、赤い屋根の二階建て一軒家があるはずだけど、見えるかな?』


 そう言われて視線を下の方へ向けると、そこには確かにサクラの言った赤い屋根の二階建て一軒家があった。


「ああ。確かにあるよ」

『それじゃあ、その家の一階にあるベランダまで行ってみて』

「分かった」


 俺はとりあえずサクラに言われるがままにその家へと向かい、一階のベランダを探し始めた。前に一度サクラの身体を借りて空を飛んだ経験があるからか、そのふわふわとした感覚にもすぐに慣れ、わりとスムーズに移動をする事ができた。

 そしてサクラに言われたとおりに一階のベランダを見つけた俺は、そのベランダの端の足場にちょこんと体育座りをしている女の子を見つけ、その子にそっと近寄った。


「明日香?」


 そこで身を震わせながら体育座りをしている女の子は、細かい違いこそあるものの、ほぼ間違い無く明日香だった。

 明日香は赤の長袖シャツにチェック柄のスカートと、とてもこんな雪が降る夜に外で着る様な服装をしておらず、その身体はブルブルと大きく震えていた。


「明日香! こんな所で何してるんだ!?」


 目の前に居る明日香に近寄って声を掛けるが、明日香はその声に反応するどころか、こちらに見向きもしない。まるで俺の事などまったく見えていないみたいに。


「サクラ! これってどういう事なんだ? どうして明日香がこんな所に居るんだよ!」

『そこに居る明日香は、涼太君の知る明日香であって、涼太君の知らない明日香なの』


 再び訳の分からない事を言い始めるサクラ。さっきからいったい何が言いたいのかさっぱり分からない。


「サクラ。いい加減どういう事なのかちゃんと説明してくれないか?」

『ごめんね。涼太君は今、夢の中で生前の明日香の人生を見ているの。だからこれは夢でもあり、夢でもない世界。そして今の涼太君は、そこに居る明日香と感覚や意識がある程度リンクしているの』


 ――なるほど。さっきからいくら身体をさすっても身体が温まらないのは、目の前に居る明日香の感覚が俺に伝わって来てるからか。


 そうやって理屈が解れば色々と見えてくる。つまりこの心に感じている寂しさや悲しさの様な感覚も、目の前に居る明日香が感じているものなんだろう。

 それにしても、なぜ明日香はこんな暗い寒空の下で震えているんだろうか――と、その事がとても気になってしまう。


「なあ、サクラ。明日香はどうしてこんな所に居るんだ?」

『明日香が生前、母親から虐待を受けていた話はしたよね?』

「ああ。そう言えばそうだったな……」


 確か生前の明日香は家族からの、主に母親からの虐待が原因となってその一生を終えた――と、サクラからは聞いていた。という事は、目の前に居る明日香は今まさに虐待を受けている最中と言う事になる。

 俺はなんとかその身体の震えを止めてあげたいと思って明日香へ手を伸ばしたけど、俺が伸ばした手は明日香に触れる事すらできなかった。


「くそっ!」


 目の前で震えて縮こまる明日香が居るのに、何もしてあげる事ができない。俺はその事に凄まじいもどかしさを感じていた。


美羽みう! そこでしばらく大人しくしてなさいっ!」


 カーテンが引かれた部屋の中から、大人の女性のヒステリックにそう言う声が聞こえてきた。


「美羽?」

『美羽っていうのは、明日香の生前の名前。この時期の明日香の母親は、こうして寒空の下に明日香を出して虐待する事が日常化してたの』

「はあっ!? こんな薄着の子供を寒空の中に放り出すって、いったい何を考えてんだ?」


 俺は生前の明日香の母親に対し、激しいいきどおりを感じていた。

 世の中にはこんな風に子供を虐待する親が居るとは聞くけど、それをこうして目の当たりにすると、これほど胸糞悪いものは無い。


「――温かいお鍋が食べたいなあ……」


 明日香が小さく丸めた身体を震わせながら、白い息と共にポツリとそんな事を呟いた。その瞬間、明日香の感じているであろう孤独と悲しさが、意識のリンクしている俺の心へと流れ込み始めた。

 それは俺が今までに感じた事が無いもので、このまま心が押し潰されてしまうんじゃないかと思うほどに辛かった。


「あれっ?」


 そんな風に思っていた途端、急に流れ込んで来ていたその感覚が途切れ、周りの風景が変わった。

 ついさっきまでは暗い夜空から雪が降っていたというのに、今の俺は茜色の陽が射す公園内に立っていた。そんな状況に対してそのまましばらく公園内を見回していると、その出入口から走り入って来る明日香の姿が見えた。

 明日香は赤いランドセルを揺らしながら半透明の袋を片手に持ち、そのまま一直線に公園の中にある茂みを目指して走って行った。


「遅くなってごめんね。今日は日直だったから」


 明日香は茂みの中から小さなダンボール箱をそっと取り出すと、そう言いながら持っていた半透明の袋からパンを取り出して小さくちぎり、その中へとパンを入れた。

 その様子を見た俺が明日香の方へ近付いてダンボールの中を覗くと、その中には小さな白い仔猫が居て、明日香の差し出していたパンをその小さな口でモグモグと食べていた。


「いっぱい食べてね? 小雪」


 俺はにこにこと笑顔を見せている明日香が口にした名前を聞いて驚いた。

 今うちで飼っている猫と同じ名前を口にしたからだ。


「サクラ。これってどういう事なんだ?」

『十二月の初め。小さな雪が降ったある日の事だけど、明日香は下校中のこの公園で仔猫を見つけたの。そして明日香は、毎日こうして仔猫の様子を見に来ていた。仔猫の名前は、明日香がこの仔を見つけた日にちなんで『小雪』って名付けたみたい』

「てことは……もしかして明日香は、生前の記憶から小雪って名付けたって事なのか?」

『生前の記憶は無いはずだからそれは考えにくいんだけど、まったくありえないとは言い切れないかな』


 ――そっか。明日香が小雪の名前を付けた時のサクラの妙な反応は、こんな事があったからか。


 俺はそう思いながら再び小雪に餌をやる明日香を見つめた。

 その表情はとても優しく、俺の心に流れ込んで来る温かな気持ちから、明日香がとても穏やかな気分なのが分かった。

 そしてそんな温かな気持ちにしばらく浸っていると、再び場面がガラッと移り変わり、最初のベランダの足場に座り込む明日香が目の前に現れた。そんな明日香から視線を遥か上へ向けると、暗い夜空から降る雪は大きさを増し、街を白く染め上げていた。


「小雪、大丈夫かな……」


 明日香は体育座りで埋めていた頭を上げ、降りしきる雪を眺めながら不安げな表情でそう言った。

 そして暗い夜空を眺め始めてしばらくした頃。明日香は何を思ったのか、いきなり素足のままで白く色付いた地面へと足を下ろして家を飛び出し、そのままどこかへと向かって走り始めた。


「お、おいっ!? どこに行くんだ明日香!」


 家を飛び出して行った明日香にそんな事を言いながら、俺もそのあとを追いかけ始めた。

 ここがいわゆる夢の世界なら、俺の言葉など明日香に聞こえるはずも認識されるはずもない。だけど俺は、それが分かっていながらも声を掛け続けた。

 そして明日香は冷たい雪が覆う地面の上を裸足で走りながら、あの仔猫が居る公園へと辿り着いた。


「小雪……大丈夫?」


 明日香は公園に入るとすぐに仔猫が居る方へと向かい、茂みの中にあるダンボール箱を両手でそっと取り出してから小雪の安否を確認していた。

 俺も明日香の上からダンボールの中に居る小雪の様子を覗き見たが、小雪の身体はブルブルと小刻みに震えていて、とても平気そうには見えなかった。


「しっかりして……」


 明日香はそう声を掛けながら、ダンボールの中にあった厚手の布で小雪の身体をそっと包み、必死になって小雪を温めながら声を掛け続けた。そんな明日香の行為に対し、小雪も最初は鳴き声を上げていたが、徐々に明日香の声に反応を示さなくなり、最後には明日香の呼び掛けにまったく反応しなくなってしまった。

 そんな小雪が明日香の声に最期に反応した時の顔は明日香をじっと見ていて、まるで明日香に対して『ありがとう』――と、お礼を言っている様に俺には見えた。


「小雪……ごめんね……何もしてあげられなくて……」


 包み込んだ布の中で動かなくなってしまった小雪を両手で抱きながら、明日香は大粒の涙を流していた。

 そしてそんな明日香の感情が、こうして見ている俺の心の中にも流れ込んで来る。

 なんて激しい悲しみだろうか。それはとてもこんな子供が抱える様な悲しみとは思えない。


「――小雪。もしも生まれ変わる事ができたら、今度は一緒に遊ぼうね……」


 小雪を抱いたまましばらく泣いていた明日香が小雪に向かって小さくそう呟いた次の瞬間、明日香はその場に力無く倒れた。


× × × ×


「明日香っ!!」


 明日香が小雪を抱いて地面に倒れたのを見た瞬間、俺はベッドの上で目を覚ました。

 俺は上半身を素早く起き上がらせ、今見て来た事を思い出していた。そしてあの光景を思い出して瞳から涙が溢れ、俺は顔を俯かせながら泣き続けた。


「――涼太君。大丈夫?」


 心配そうに声を掛けてくるサクラの言葉に対し、俺はすぐに反応する事ができなかった。

 しかし俺はどうしてもサクラに聞きたい事があり、震える口を開いた。


「……サクラ。あのあと、明日香はどうなったんだ?」

「…………十二月二十四日の夜。明日香は小雪を抱いたまま、あの公園で息を引き取ったの」


 俺の問い掛けに少しだけ間を空けたあと、サクラは沈痛な面持ちでそう答えてくれた。そしてそれを聞いた俺は、両の拳を力いっぱいに握ってベッドに思いっきり叩きつけた。


「何だよそれ……何なんだよそれはっ!!」


 ――どうしてあんなに優しい子が、あんな目に遭わなきゃいけない? どうしてあんな理不尽な目に遭わなきゃいけないんだ? ねえよ、そんなのってねえよ……悲し過ぎるだろ……理不尽過ぎるだろっ!!


 ベッドの上にある毛布をこれでもかと言うくらいに力一杯握り込み、激しい怒りと悲しみ、明日香が経験した生前の理不尽で身体を震わせながら、俺はしばらくの間泣き続けた。

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