4-6
故郷に戻り、もう一度ピアノと向き合ってみようと決心したその日から、僕は布団に入れば自然と眠ることが出来るようになっていた。以前ならば過ぎ去った出来事の反省会をし始め中々眠ることが出来ず、それでも眠るために体を疲れさせるために夜中散歩をしていたけれど、ここ一、二週間は夜中の時間に外を出歩くようなことはしていなかった。
しかしながら、今日の夜は布団に入っても一向に眠ることが出来なかった。
今日音楽室でカメラを持った少女が「変な顔をした人を良く見るっていうのはさ、秋野先生のことなんだ」と、去り際に呟いた言葉がどこまでも頭の中で響いていた。
彼女や少女、小さな二人の子供や北川先生、そして両親を含め、故郷に帰って来て数年ぶりにそういった人達と話をして気が付いたことが一つ。気が付いたというよりは、当たり前のことを見落としていたというだけだ。
数日前彼女は「どうしようもないことはあるんだよ」とどこか悲し気に話していたけれど、それは揺らぎようのない事実だろう。理想と現実の溝はとてつもなく深く、どうすればその溝を埋めることが出来るのかと思案しようが、どうしたって届かないことの方が圧倒的に多い。
それでも、もしかしたらという虚しい期待だけは捨てられずにいつまでも思案して、結局はいつしか深い溝に叩き落されてしまう。
僕はプロのピアニストにはなれない。諦めなければいつか届くなどと言う甘ったるい言葉は脳みそを麻痺させるだけで、どこまでも空っぽで虚しいだけの言葉であった。
もう祖母のキラキラ星を聞くことも、祖母と話をすることも出来ない。あの学校だって壊される。今日、晴君と琴音さんは「本当はこの学校にいたいけど、ダメなんだって」とそう口にした。子供のまっすぐな言葉ほど痛々しいものはなくて、「新しい学校で友達出来るかな」なんて話をしている二人の様子を僕は見ていられなくて、こんな時彼女だったらなんと声をかけるのだろうかと考えていた。
そして、カメラを持った少女はどこへ向かうのだろう。夢を追いかけるだけの力がある中学生は、その力を原動力にきっとどこへだって行けるのかもしれない。それでも、どこまでそんな輝かしい燃料を原動力にしていられるかは分からない。僕がそうだ。後戻りは出来ない。これ以外に何もない。もう引き返せない。僕は、気が付けばそう言った泥のようなものを燃料に走るようになっていた。
何においても終点が必要だった。出来る限り後を残さない、出来る限り美しい終点が。きっと、区切りをつけるというのはそういうことで、例えどれほど理想としていた場所と異なっていようと、そうして納得するしかないのだと思う。
僕の場合、それはまさに今この時で、僕は終わらせるために閉校式へ向けてもう一度ピアノを弾いている。北川先生にとってのそれは、もしかしたら僕と音楽室で過ごした日々であったのかもしれない。
もしも終点に辿りつくことが出来なければ、それはずっと長い間自身の首を絞めつける鎖のようなものになるのだろう。時間が解決してくれるなどと言う言葉があるが、それは単に痛みに慣れるということだ。
後悔が一つ。とても大きな後悔。僕にはそれがあって、今なお夢だとか、そういう形で僕に襲い掛かって来る。
ピアノと彼女と音楽室。その言葉には、僕を感傷の波に溺れさせるだけの力があった。
そんな傷の象徴のような言葉を、僕はあの小さな二人の子供やカメラを持った少女に持って欲しくはない。あの学校がそんな傷の象徴のような場所に変わって欲しくはないと、そう思う。
立ち上がって、窓ガラスを開ける。冬の海が揺蕩っている。
帰りたくないと思っていたのに、結局僕はこの場所に帰って来て、こうして日々を過ごすようになった。
数か月前、都会の街で働いていた時には考えもしなかった環境に今いる。
この町に帰って来た時、ここは帰って来て良い場所なのだと言われたことが嬉しくて、彼女にお疲れさまと言われたことで救われて、まだ夢を抱いて進もうとしている人間がいるのだということが美しいことだと思えた。
帰って来ていい場所があるというのは、それだけで支えになるのかもしれない。
一年後、あるいは十年後、もしくはもっと先。時間は過ぎてどうしようもなく変わってしまっても、ここで過ごした日々は変わりようのない事実として残っている。
思い出なんて捨ててしまいたくなることだってあるけれど、それに救われることだってあった。
だから、あの学校が無くなってしまうことが苦しいのだろう。彼女はあんなにも苦しそうな顔をしたのだろう。
無くなってしまうのなら、それに代わる何かを作ればいい。帰って来る理由になるようなものを作ればいい。
そう思い至った時、僕は一つ決めることにした。古傷を抉る覚悟を決めた。
携帯電話を手にして、「タイムカプセルを掘り起こしに行きたいんだ」と、彼女にメッセージを送った。
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