第一章 銀髪の少女 (二)

 ルードはゆっくりと目を開けた。そこは先刻の野原でも、崖でもなかった。

 彼は荒野に横たわっていた。顔を少し動かすと山の連なりが霞んで見えた。首を戻すと、太陽が真上に見えている。そしてルードは、先ほどのケルン達との会話が夢であったのを知った。

 ルードはゆっくりと身を起こした。右手が何かをつかんでいるようだ。見てみると、彼の手はあの少女の華奢な腕をつかんでいたのだった。ルードがゆっくりと彼女から手を放す。と、ぼんやりしていた意識がようやく目覚めた。

(ここはどこなんだ? なんで俺、こんなところにいるんだ? 生きているのか? 崖から落ちていたはずなのに? 大体、なんであんなことになったんだ? それに、この娘は一体?)

 その時ふと、彼の頭の中に抽象的なイメージが閃いた。それは次第に形を成し、やがて言葉となる。それは夢の中でルード自身が語った一節だ。


『……常識なんて、俺達が勝手にそうだと思いこんでるもんだろう? 明日も通用するなんて、誰も分かんないさ……』


 それからルードは、今までのことをゆっくりと考え直した。

 ――突然、野原に異質な空間が出現し、自分はその中に入り込んでしまった。そして、その空間にいた少女に触れたことで、さらにそこから転移した――

 そう納得するほかなかった。おとぎ話のようなことだが、今までの体験は紛れもなく現実に起きたことだ。自分はまったく違う場所にいるし、謎めいた少女は隣に倒れている。

(そうだ、この娘は……)ルードは銀髪の少女を見た。

(どこの地方の人なんだろうか? いや、見たこと無いよな。こんな髪の色は……)

 銀髪。それはフェル・アルムではありえない髪の色なのだ。

 フェル・アルム人の髪の色は二種類に分けられる。ルードのような北方の民の青みがかった黒と、ケルンのような南方の民の金。年を取り髪が白くなれば、人によっては銀色に見えることはある。

 だが、この少女は違う。淡く紫がかった、繊細で奇麗な銀色をしているのだ。肩甲骨のあたりまで伸びた彼女の髪は、正午の光と穏やかな風を受けて時折きらきらと輝いた。

[ねえ、おい、ちょっと……ってば]

 ルードは彼女の横でひざまずき、目を閉じたままの彼女の顔に向かってそっと声をかける。

(まさか、死んじまってるのかな……)

 ルードは、少女の両肩に恐る恐る手をまわした。彼女のふわっとした暖かい肌の感触と穏やかな息遣いとをルードは感じた。彼女の身体を軽く揺さぶりながら、もう一度話しかけてみた。

 彼女は小さくうめき、ゆっくりと目を開けた。

 ルードは、彼女の瞳に吸い寄せられるような感じを覚えた。底知れない奥深さを感じさせるその色は、翡翠ひすい。ルードの顔がその瞳に映っているのが分かるほど奇麗だった。

(可愛いひと、だな……)ルードは素直に感じた。 当の少女は、ぼうっとした虚ろな表情でルードを見ていたが――。彼女の顔に意志がよみがえるやいなや、途端に表情を変え、怪訝けげんそうな顔で彼を見やる。

 そして彼女は立ち上がり、大声で叫んだ!

[わわっ?!]

 ルードはびっくりし、尻込みした。少女のほうもよほど驚いたのか、口から発するものが言葉になっていないようだ。

[大丈夫だって! 俺は何もしやしないよ!]

 ルードは立ち上がると両腕を横に広げ、半ば錯乱していると思われる少女に語りかけた。

 ルードの言葉を聞いた彼女は叫ぶのを止め、次にきょとんとした顔でルードをじっと見る。構えた姿勢をやや戻して。

[大丈夫]ルードは優しく言った。少女のほうは、多少警戒を解いたようだが、なおも不思議そうな顔をしている。

[いやね、君が驚くのも分かるよ。けどさ、俺だってわけ分かんないうちに、こんな所に来ちゃったんだ]

 緑色の少女の目を見ながら、ルードは笑みをつくって話しかける。少女は一切の言葉を口に出さない。まいったな、と思いつつも軽く苦笑してルードは言葉を続けた。

[俺はルード。ルード・テルタージっていうんだ。スティン高原で羊飼いをやってる。まだ一人前じゃないけどね。……君はなんていうんだい?]

 そう言うルードの脳裏に、ある状況が浮かび上がる。それは、怯える羊をなだめようとするルードだった。

(まさにそれだよな、……今の俺って)

 しかし、いっこうに少女はしゃべろうとしない。ルードは不安になってきた。この少女は一体何者なのだろう?

 そんな折、ようやく彼女の口が開いた。

……あ……う……

 ルードが聞き取れたのはそれだけだった。ルードに訴えかけるような、そんな切実な表情をしている。再び、彼女は何か声を出そうとしたが、口を閉ざし、表情を曇らせた。

(もしやしゃべることが出来ないのか、この娘は。それとも、さっきのショックで言葉を失ったのか)

 ルードはそう思い、半ばひとり言のように話しはじめる。彼女に対する笑みは崩さないが。

[さあて、っと! ここはどこなんだろうな? あそこの山がスティン山地だとすると……太陽の位置からして、今はその北の平野にいるのかな? ということは、だ。どこかにクロンの宿りとダシュニーを結ぶ街道があるはずだよな]

 ルードはゆっくりと歩き出し、振り返って少女に自分の歩く方向を指し示す。

[とりあえず歩こう! な、街道に出れば何とかなるさ!]

 少女に対してもう一度意思を込めて身振りを示し、ルードは歩き出した。少女は彼の数歩あとからついてきた。


 それからしばらく経った。お互い無言のまま、ただ歩く。

 ルードにとってその沈黙は耐え難いものだった。連れているのは、謎めいた銀髪の少女。ますます不安感が募ってくる。だが、この少女を放っておくなど出来なかった。彼女を怪しむ気持ちと同時に、彼女に惹かれる気持ちも存在したからだ。

 先ほどルードが口にしたように、ここがスティン北の平野なのかさえ、実は彼自身怪しかった。少なくとも、彼女と接触する前――野原にいた頃とは違う時間に彼らはいるということだけは確かだ。だが、あとはまったく分からない。どことも知れない場所で、ただうろつきまわっているに過ぎない。だが、この荒野に突っ立っていた所でどうしようもない。よりよい方向にことを運ぶには歩くしかなかった。


 歩き疲れた頃、二人は人の手によって整備された街道に出た。道端には杉板に書かれた道標が立っており、分岐後このまま一メグフィーレほど道なりに進めば、クロンの宿りに到着することが書かれていた。

 ルードはまず、ここが自分の知っている大地であることにほっとした。もし本当に異次元の世界だったら、彼にはなすすべもなかっただろう。ここがスティン北の平野と分かった今、早いところ高原へ戻らなければならない。

[まずはクロンの宿りに行こう。俺はこの後、スティンの村に戻るけど、君はどうする?]

 ルードは少女に話しかけるが、やはり彼女からの言葉は返ってこない。少女は道標の前に立ち、それを凝視したままだった。彼女は嘆息を吐き、ゆっくりとルードのほうへ首を向ける。その表情は心なしか寂しさを感じさせるものだった。

 ルードは自分が進む方向を指差しながら言った。

[とにかく、こっちへ行こう。一緒に高原へ戻るかい? 君と会ったのがムニケスの麓だったから、村に行けば君がどこの誰なのか、分かるかもしれないしね]

 果たして身元が分かるとは思えないが、一言もしゃべらないこの少女を放っておくわけにもいかなかった。

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