ローバー
大きな雲がふわふわと浮かぶ快晴の空。時折吹く風で草原が揺らぐ。無限に広がる緑を引き裂くように引かれた一筋の線。土色の道路の上で私は赤いハイラックスと共に立ち往生していた。
この草原に辿り着くまで、体内の血液が茹だってしまいそうな暑さの砂漠の中を抜けたりしたのが原因だろうか。この、心地良い風の吹く草原に入り、私の長年の相棒はバッテリー上がりを起こしてしまったらしい。
「私達の旅もここでおしまいかな?」
ハイラックスは何も答えない。キーを入れても今のこいつは答えを返してはくれない。
ふと思った。私達人間が死ぬ時は心臓が停止するけれど、彼ら車が死ぬ時とはいつなのだろうか。ガソリンが切れたなら補充すればまた動く。故障したならパーツを変えればいいし、パンクしたならタイヤを取り替えればいい。長年乗らずに放置しても、錆をとって整備すればまた動くかもしれない。なら、彼らの生と死の境界線はどこにあるのだろうか。髪を撫でる涼し気な風も、青い空も、そんなことは知りやしない。旅の終焉を迎えようとする私達をただ遠目に、かつ近くで見つめ続けているだけだ。
私は振り返り、かつて来た道を見た。草原に伸びる一筋の道の上、赤い車がこちらへ向かって走ってきていた。やがてその車は、私の居る場所に近付き、停止する。多分、泥棒の類ではないだろう。
「おい、どうしたんだ?」
車を降りた男が、私に声をかける。私は、今更この男を警戒する気も起きず、素直に現状を説明した。
「どうもバッテリーが上がっちゃったみたいで」
「そうか。なら任せろ」
男はコードを取り出し、それをお互いの車のエンジンに接続し、言った。
「俺が手をあげたら、車のエンジンをかけてくれ」
「分かりました」
男は自分の車に戻り、エンジンをかけた。直後、男が手を上げたので私もハイラックスのエンジンを始動させる。
「……動いた!」
一度死んでしまったかのように思えたハイラックスは、再び息を吹き返し、重い音を吐き出した。
私は車を降り、男に礼を言った。
「ありがとうございます。あなたが助けてくれなかったら、私はここで旅を終えていたかもしれません」
「おや、君も車で旅をしているのか」
男はどこか嬉しそうに、そう言った。
「どこか目的地はあるのかな?」
「いいえ、ありませんよ」
「それなら、途中まで一緒に旅をしないか。食べ物も燃料もあるから、君に手間はかけさせないつもりだ。どうだい」
こうして私は少しの間、この男と共に旅をすることになった。
男の乗る車はレンジローバーと言うらしく、生まれた国は違うものの、私のハイラックスと毛色の似た車のようだ。彼の乗るレンジローバーは私のハイラックスと同じく泥跳ねこそついているものの、それ以外には目立った汚れもなく、パーツも全て揃ったままで、目立つような傷もなかった。どうやら、彼と私では車の取扱が随分と違っているらしい。
その日の夜、彼と私は二人で焚き火を囲み、食事をしながら話をした。
「俺は普段焚き火をすることはないんだけど、火の温かみってのもいいもんだな」
「それなら、寒い時はどうするんですか?」
「車の中で毛布に包まって寝るさ。案外、車の中は何もしなくても暖かいんだよ」
こんな風に他愛もない会話をするのは久々だった。いつも、強盗とやり合ったり、車相手に独り言を呟く以外に口を開かなかったので、自分が変な喋り方をしていないか不安になってくる。
「……そうだ。君は、世界最後の日を経験したのかい?」
話題もつき、二人の間に少しの空白が訪れた後、彼はそう質問してきた。
「いいえ」
「そうか。じゃあ、あの車は?」
彼は私のハイラックスを指差した。
「私を育ててくれた人から譲り受けました」
「父親みたいなものか。その人は?」
「死にました」
「……悪いことを聞いてしまったね」
「平気です。それより、世界最後の日について教えて下さい。私が生まれる前にあったということしか知らないものですから」
「といっても僕も、怖くてずっと家の中に居たから、実際に外がどうなっていたかは知らないんだ。拍子抜けだったかな」
「そんなことはありません……じゃあ、なんであなたは今こうして旅をしているんですか?」
「家に篭っていたら食べ物が尽きて、いっそそのまま死んでやろうかと思った。けれど、今俺が乗っているレンジローバー……俺はあの車が心底好きでね。せめてあいつが壊れて走れなくなるその日まで、生き抜いてやろうと思ったのさ」
そう言った後に、彼は私に質問をした。
「君は、なんで旅をしているんだい」
「育ててくれた人に、世界を見に行けと。そう言われたんです」
「ほお、そうか。どうだい、世界を全部見て回ることはできそうか」
「思っていたより、広いかもしれません」
「ははは。違いない」
その会話を最後に、この日の夜は終わった。
次の日も、私と彼は旅に出た。草原に伸びる道は長く、長く続いている。しかし、進むにつれ、打ち捨てられた軍用車や朽ち果てた死体が見えるようになった。
私は車を停め、彼に提案した。
「きっとこの先は古戦場です。不発弾があるかもしれませんし、どこか別の方向に向かうべきかと」
「成る程。そしたら、ここらで別れるとしようか」
彼の言葉に、私は少しの間をおいて、頷いた。
「しかしここは、かつて戦場だったというのに随分と綺麗だね」
昨日、雑草しか見えなかった草原も、ここでは少し変わり、草の中に様々な花が咲き、朽ち果てた戦車には苔が生えていて、かつてここが戦場であったという事実よりも、既に戦争の終わった土地であるという印象を私に植えつけた。
「ちょっと、散歩してくるよ。こんなに綺麗な景色を見たのは、生まれて初めてかもしれない」
言って、彼は花の咲く草原へと歩き出す。爆発音がしたのは、彼が草原の中を三十メートルほど歩いた頃だった。
油断していた。ここは、かつて戦場だったんだ。対人地雷が埋められたままでも不思議ではない。私は、爆発音のした場所まで走った。そこには、片脚を吹き飛ばされ、夥しい量の血を流す彼が居た。
「……おいおい。そんな悲しそうな顔をするなよ。君のせいじゃないさ」
瀕死の重傷を負っているにも関わらず、彼の表情は穏やかだった。
「ですが、私が止めていれば、あなたは……それに、痛いでしょう」
「旅はいつか終わりが来るもんだ。きっと君にもいつかそれが訪れる。終わりを泣き喚いて迎えるのでなく、出来れば大人として参考になる終わり方を見せてあげたくてね……そうだ」
「どうしましたか」
「ローバーに載ってる荷物。欲しい奴は全部上げるよ……その代わり、俺の死体をローバーと一緒に燃やしてくれ。それが、最後のお願いだ」
その言葉を最期に、彼は息を止めた。
私は彼のその言葉通り、荷物を選別した後に、彼の死体をレンジローバーの近くに置き、ガソリンを撒き、火をつけた。
それが燃え尽きるのを最後まで見ることなく、私はその場を後にした。
「私達の旅は、いつ終わるんだろうな……」
サイドミラーに映る煙を見つめながら、私は独りで呟いた。その言葉に応えるものは、今や誰も居ない。
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