第29話(綾編)
「――今日はそっとした方がいいみたいだね」
愛海を家に送り届けた後、おばさんが運転する車の中で陽菜が言った。
私も同じことを思ったから「うん」と頷く。
それから家に辿り着くまで車の中で会話はなかった。
走行音だけの車内で体を揺らされながら窓の外だけをじっと見る。
頭の中はずっと愛海のことしかなかった。
窓の外に何が流れていたかなんて記憶にない。愛海が育った町並みがあったはずなのに、ただのひとつも記憶に残ることはなかった。
――大丈夫かな。
家まで送り届けることはできたけど、それで大丈夫とは言い難い。明日は学校に来れるだろうか。
夜になると愛海に連絡したい気持ちが強くなっていた。
そっとしようと決めたのについスマホを手に持って真っ暗な画面を眺めてしまう。
散々迷ってやめようと自分を抑える。そっとすると決めたのだからそうしなければと早めに寝る準備を済ませてベッドに潜り込んだ。
暗い部屋の中で目を閉じて、朝起きたらすぐ愛海にラインしようと心に決めた。
「……」
――ところがこういうときに限ってなかなか寝付けない。
寝ようとしても頭の中は彼女のことだらけ。
これではダメだと一旦起きることにした。気を紛らわそうと本を読んだり視聴するだけで眠くなるで検索して出てきた動画や画像を眺めたりしてみる。
――でも彼女の顔が浮かんでくるせいか効果はない。
しばらくしてようやく眠気はやってきたけれど、いつもの就寝時間を軽くオーバーしていた。
電気を消し、仰向けになって二度目の寝る態勢に入る。スッと目を閉じて少ししてから瞼を開いてみる。まだ暗闇に慣れない目で見上げた天井は真っ黒にしか映らない。
「……」
しばらく無心無言でじっとそれを見つめていた。目が慣れてくると真っ暗な天井が薄くその姿を見せる。
ハァーっとため息が出る。改めて思った。
こんなにも私……愛海のことが好きなんだ。
朝はいつもより遅めに目を覚ましたせいで慌てて飛び起きてあたふたと支度することになった。家を出る前のタイミングでようやく愛海に連絡する。返信は思ったよりもすぐに着た。
『大丈夫』
そう一言。加えて心配かけてごめんねと二つ目。スタンプも送られてきた。
『学校でね』と送信して家を出る。大丈夫と言っているけれど彼女の顔を見るまでは安心できない。
――朝一で顔を見たい。
そう思っていつもどおり陽菜と一緒に登校し、自分のクラスに荷物を置くと愛海のクラスを覗きにいってみた。
でも愛海はまだ来ていない。志穂もいないクラスの中は知らない人しかいなかった。仕方なくお昼まで我慢しようと自分の教室へ戻る。
それから朝のHRも授業の内容も少しも耳に入らなかった。おまけにいつもの倍の授業時間なのかと思ってしまうほどお昼までが長く感じた。
ようやくお昼休み。先にお昼を買いに行こうと陽菜と一緒に購買部へと向かう。
「――あれ?」
意外なことにその途中の廊下で愛海の背中を発見した。声をかけると「おおー」といつもどおりの声が返ってくる。
「ん? 愛海一人?」と陽菜が周囲を見ながら尋ねる。どういうわけかいつもいるはずの志穂がいない。珍しく彼女一人。
「先生に呼ばれて職員室。だからあいつの分も買わなきゃいけないんだー」
珍しく愛海もお昼はパンにするようだ。いつもお弁当なのに珍しい。
「じゃあ一緒に行こ」
「うん」と頷く彼女と一緒に三人で購買部への列へ並ぶ。入り口は既に人が並んでいるが人は少なかった。
「なんか最近人少ないな」と同じことを思っていた陽菜。
「三年生がもういないからだよ」と愛海が答えを言って「ああー」と二人同時に納得。考えてみれば2月も中旬を過ぎている。国木の三年生は早ければ一月からもう学校には来なくなる。私も陽菜もそんな卒業シーズンに入ったことすら気づいてなかった。
「――ってことはもうアタシらの天下ってことか。怖い先輩たちはもういねぇ」
「散々辛い思いをしてきたからな。今度は私達のやりたい放題だ」と不敵に笑う二人に「そんな上下関係なかったでしょ?」とつっこむ。そもそも私達に三年生の知り合いなんて一人もいないし交流なんて一回もなかったはずだ。
「そういえば見てこれ――」と愛海がポケットからスマホを取り出して画面をこちらに向ける。志穂からお願いされたパンのリストだった。
「よく毎日こんなに食べられるよねー」と苦笑い。確かに多い。お昼に全て食べるわけではなくオヤツの分も入っているからとはいえ多い。
「結構な量だけど全部確保できるの?」
見た感じ愛海一人で買えるかどうか怪しい。
「ん? 難しいかな?」
「結構な量だし私も手伝う」
三年生がいなくなったとはいえ、一人で人気のパンを確保するのは難しいと思う。
「いいの?」
「なら三人で手分けしようよ」と陽菜が言って、バラバラにわかれて各自自分の分と担当した志穂パンを手に取る。
「綾の言う通りだね。手分けして正解だった」
大量のパンが入った大きなレジ袋を受け取る愛海。志穂のオーダーが叶えられたそれを小柄な彼女が持つと袋がいつもより大きく見えてしまう。
「これをいつも一人で買いに行ってたのかあいつは。どうりですぐバイト代なくなるわけだ」
「我慢できないのか教室帰るまでの間に一個食べてるときもあるよ」
「え、そうなの?」
「あったあった」と陽菜が笑う。
「廊下でもしゃもしゃしながら歩いてたから先生に注意されてたの見たわアタシ」
「どんだけお腹空いてんだよ」と笑う愛海。
そんな彼女を見ていて、うん、いつもどおりの愛海だと思った。
いつもどおりの会話。
いつもどおりの表情。
陽菜も何も思わなかったのか普通にしている。何か引っかかっているとかそんな様子は見せない。
――なら、どうしてだろう。
そんないつもどおりのはずの彼女に対し、違和感を持つ。
「……」
気のせいだろうか。昨日のことを引きずっているからそう見えてしまっている可能性が高い。あまり考えないようにしようと思いながら三人で教室へと戻る廊下を歩く。
「あ、いい忘れるところだった――」
その途中でのことだった。
「――初恋の人。思い出したよ」
実にサラッと愛海が昨日のペロンモールでのことを打ち明ける。
「女の人だったんだ」
ずっと忘れていた愛海の初恋相手。
それを思い出してあのときは放心状態になったのだという。
相手はクラスの男の子じゃなくて知り合いの大人の女性だったと言う。
不思議とそれを聞いて私も陽菜も驚きはしなかった。
「でもごめん。その人のことまだ詳しくは言えない。もう少しすれば言えるようになると思うからさ。それまで待っててくれると助かる」
少し翳った顔を見せる彼女に「言わなくていいよ」と陽菜が言って私も頷く。私も陽菜もそういうつもりで愛海を気にかけているわけじゃない。
ありがと。そう返した愛海が微笑んだのは一瞬だった。「あ、そうだ」と今度は真面目な顔に変わる。
「ペロンモールでのこと。誰にも言わないでね」
郁美と真帆だけじゃなく、志穂にも。
そうお願いされて「わかった」と頷く。志穂にも言わないでと言われるとは思わなくて少し驚く。
愛海と別れ二人で教室へと戻る。それ以降は私も陽菜も互いに暗黙の了解で愛海の件は例え周囲に誰もいないときでも会話にしないようにしていた。
二週間が経った。
三年生の卒業式が終わって先月より少し暖かくなって、テレビでは近い花見の行事に合わせてお花見スポットの特集をやっていることが多くなる。全国テレビでは関東圏の名所ばかりが去年の満開の映像と共に報道されていたけれど、国木のローカル番組では梅の宿が報道されていた。郁美のおばあちゃんが開催するお花見イベントは今週の土日を控えている。
そのせいで郁美は大忙し。並ぶように志穂も愛海も忙しく休日に何度か遊びには誘ったものの、予定が合わないことが多かった。
忙しいなら仕方ないなとは思いつつも。内心あることが引っ掛かっていた。
愛海のことだ。
やはり愛海に対して抱いた違和感は勘違いではなかった。むしろ日にちが経つにつれそれは確信へと変わっていった。
どうやら。志穂と彼女の間に何かあったようだ。
学校ではいつも通り二人は一緒にいるし会話もしている。
でもそんな二人のやりとりにはどこか壁がある。
向かい合って本人を目の前にしているというのに、お互いが目を背けている。
ケンカではない。そんな空気ではなかったと思う。
陽菜と三人で映画を観に行った日に愛海が志穂から逃げ回っていたことを思い出す。
理由はわからない。
どうしてそうなっていたのだろうかと浮かぶ疑問は多い。
でも何もわからないままで時間だけが過ぎていった。
連休を直前に迎えた平日の放課後。久々に途中まで一緒に帰れないかと愛海の教室を覗いてみる。
「HR終わってソッコー帰ったよ」
でも既に愛海は教室にはいなかった。そしてそう言った志穂も急いでるんだと言って先に帰ってしまう。
「じゃあね志穂」
「うん」と言って去って行く志穂に陽菜と二人で手を振る。
今週は志穂とも全然話せていない。
ここ最近の彼女は郁美と二人だけで話していることが多かった。いつもふざけ合って笑っているときと違い、珍しく二人供真剣な表情をしていたせいか印象に残っていたのだ。何を話しているのかはわからなかったけど、とても大事な話をしていたんだと思う。
「――帰ろっか」
陽菜に言われて「そうだね」と頷く。今日も二人だけのいつも通りの下校となった。
「最近みんな忙しいな」
昇降口でシューズボックスから靴を取り出しながら陽菜が言う。カタンと地面に落下させた彼女の靴音が辺りに響いた。みんなと遊ぶことができない彼女の退屈だなぁーがそこに現れているかのようだ。
「そういうときもあるよ」
私も同じように靴音を鳴らす。彼女に負けないほどの音が響く。
みんな今週も用事があるとかで都合が悪かった。
郁美は梅の宿があるから朝から大忙し。
真帆は家の用事。
志穂と愛海もどうしても外せない用事があるということで私達はスパッとフラれてしまったのである。
「――私達だけでどっか行かない?」
昇降口から校門に向かう途中で聞いてみると「いいね」と陽菜の嬉しそうな声。
「最近糖分足りてないから久々にガッツリスイーツでもどう?」
「なら『三時に夢中』かな?」
「そこもいんだけど郁美が言ってた新規オープンしたお店が気になってんだよね」
そう言われ街中の映画館の近くに新しくできたと彼女が言っていたのを思い出す。
『超行きてぇー』と言っていた彼女の声まで脳裏に蘇ってきた。まだ行ってない彼女より先に行ったことがバレたら間違いなく怒られるだろう。
「背徳感を味わいながらのスイーツでもどうかね。綾お嬢様」
郁美を裏切ろうと陽菜の提案がやってくる。なぜか宝塚風(?)の口調。裏切りスイーツに文句はないので同じように答えてみる。
「よろしくてっよ」
高い声を意識して言ってみたら変になった。普段は出ない声にアハハと笑われる。
「ん、違うか。この場合はこうか――」
オホホホと笑い直す陽菜に続いて私もやってみた。おほほほ。
まだ校門をくぐるところだったせいか周囲の注目を浴びていた。
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