第22話(戸田自転車商会編 後編)


「――あれって井森さんのだよね?」

 食べ終わって店を出た直後。泉が店の脇に置かれてあるバイクを指差す。来た時には気づかなかったそれは盗難防止用の鍵を大量に付けた状態で物陰に隠れるようにしておかれてあった。

「そうだな」

 随分前にウチで買ってくれたホンダのモンキー50だ。

 50周年記念に発売されたスペシャルモデルのタイプで赤と白の車体にチェック柄のシートが特徴的で多くのファンを魅了してきたバイクだった。

 残念なことに自動車排ガス規制強化で生産は終了。現在では入手困難となっている。

「ちっこくて可愛いな」

 井森さんが主に通勤の足として使っているあれの年間点検も早いものでもう来月だ。店と家を往復しているだけとはいえ、大事に乗ってくれているので修理歴は少ないしいつ見ても綺麗だ。

 ――いつまであれに乗っていられるのだろうか。

 去年ぐらいから目が悪くなってきていると井森さんが言っていたのを思い出す。70代という年齢に加えてそういうものも出てきているとなれば、そろそろ免許返納を考えなければならなくなる。

 そうなると店もやっていけなくなる……。

 寂しくなるなと思いながら「行くか」と言って泉と歩く。

「――井森さん。後二年くらいで店畳むんだってね」

 店からある程度離れたところで泉が少し小声気味にそう言った。

 やっぱりそうなのかと少しため息が出る。

「……そうなんだな」

「去年の暮れに砂羽に話したんだって。奥さんもいなくなって一人だし。息子さん達からも一緒に暮らそうって心配されてるからって」

 あと二年――つまり今年やって来年には終わってしまうわけか……。

「……」

 足を動かしながらさっき食べたカレーの味を思い返す。

 創業当時から続くあれが無くなるだけじゃなく、あの店自体もなくなってしまうのか。

 経営が悪いほど客足がないわけでもないというのに、主人の高齢化という問題だけでそうなってしまうというのは残念過ぎる。

 例えあの味がなくなってメニューが一新されてしまっても、あの店の雰囲気だけ続いてくれれば嬉しいのだが、それも無理ということなのか。

 後継者不足。それで店を畳んでしまうのは国木の飲食店経営者だけの話ではない。

 全国的にも高齢化した経営者からの声はテレビを通してよく届く。とある市では絶メシと称して貴重な飲食店を活性化させ、後継者不足を解消しようと全国的にPRしている市があるというのを聞いたことがある。しかしそれでも名乗り出てくれる若い後継者はいないのが現実だった。

 あの店が誰にも知られていないわけではない。昭和ブームという言葉が広がって、雑誌やテレビで取り上げられたことは何度もあった。

 それでもここを継ぎたい。あの味と店の雰囲気を残したいなんて声は出てこなかった。

「ラストの一年はサービス営業してくれるって」

 はぁっと、もう一度落胆のため息を吐いた後にそうかと返事する。

「だからさ――」

 その後、肩を叩くような強い声を聞いて思わず足を止める。

 横にいたはずの泉はいつの間にか後ろでじっと俺を見つめていた。

「――なくなっちゃう前に四人で行こうな」

「……」

 僅かなためらいの後にそうだなと言えたものの、抵抗を持った返事だと自分でも思った。

 誤魔化すように、泉を放置するように再び前を歩く。

 少し遅れてから泉も歩き出した。早歩きで俺の隣に並ぶ泉は店に帰り着くまで何も言わなかった。



「――それじゃあ。俺は仕事に戻るわ」

 帰り着いて早々に店に引っ込もうとすると「あのさ大吾――」と呼び止められる。泉は上着のポケットに手を突っ込みながら俯いていた。

「私も砂羽も孝宏も……死んだ美穂だってさ」

 そう言って、少しの間を置いてから顔を上げる。

「一瞬でも、お前に怒ったりなんかしてなかったよ」

 安心させる為か。

 僅かに柔らかく微笑んでくれる。

「……わかってるよ」

 そう答えたのは嘘じゃない。

 本当にわかってる。あのときも今も、誰も俺を責めたりなんてしていないことは。

「砂羽に、もう心配しなくていいって言っといてくれ」

 ずっと俺を繋ぎ止めてくれていた砂羽も。

 去年、突然俺に会いに来てくれた鈴木も。

 今ここにいるお前も。

 もうここにはいない富岡だって、そんなこと思ってなかったのはもうわかった。

 俺が勝手にビビってただけだったんだ……。

「今度は四人で会おうな」

 そう言うと泉はコクリと頷いて「それじゃ――」と去って行く。

「ああ」

 背中を向け、静かに歩いて行く泉を見送ってから俺は店に戻った。



 ***



 学生の頃から携帯電話を持つことに抵抗があった。

 居場所を常に監視されているような感じがしていけ好かなかった。


『お前も早く持てって』


 昔から鈴木と砂羽だけでなく、結婚する前の女房からもよく言われ続けていた。

 その度に『性に合わない』だとか『ウルセー』と言っては突っぱね、俺だけが時代錯誤を貫いた。決めつけは大人になっても変わらなかった。

 一家に一台ではなく一人一台の時代。そうなったと言われてもその必要性を感じないのなら持つべきではない。家族の内の一人でも持っていればそれで十分だった。仕事の電話だって常に店の固定電話からかかってくる。買えば買ったで設定や扱い方を覚えるのが面倒な上にびっくりするほど月々の利用料は高い。

 家族の一人だけが持ってればいい。新たに俺が持ったとしても日常は大して変わらない。単に家族や友達との連絡が取りやすくなって余計に携帯の料金を一人分取られる。俺にとってみれば携帯電話なんてそれだけのことだった。

 それでも生活に不便はなかった。結婚して子供が生まれ父親となっても相変わらずで、死ぬまで持つ必要はないじゃないかと本気で思いながら三十代に入った。

 ガキの頃はおっさんだと思っていた三十代も今思えばまだまだ若かった。食欲も体力も十分にあったし風邪引くなんてことは滅多になかった。

 それだけに富岡が入院したと聞いたときには驚かされた。

 元々体が弱くて学校をよく休みがちだったのは記憶していたが、入院するほどのケースはそのときが初めてだったのだ。

 そしてこの頃からだった。富岡の入院回数が増え始めたのは。


『すぐに退院するから大丈夫だよ』


 入院の度、砂羽や泉と一緒に見舞いに行ってはそんな富岡の声を聞いていた。

 病院のベットの上にいる富岡の顔はいつも通りだった。

 声も動きも病人のそれとは感じさせないくらいの元気さがあって、一体何が悪いのか顔を見てるだけの俺達にはわからなかった。

 実際その後も大事に至ることなんてなく、宣言通りすぐに退院することができた。

 でも少しすればまた入院。そして退院を繰り返す。


『何度も心配かけてごめんね』

 そう富岡が言って、

『大丈夫だからそんなに心配しなくていいぞおめーら』と鈴木も似たようなことを言う。


 そんな二人の言葉を疑うことは段々となくなってきていた。

 慣れてしまったのは俺達だけじゃない。富岡本人も医者ですらその後富岡が若くして亡くなることを少しも予測できていなかった。

 そして前回の退院から一年後。また富岡が入院した。

 それを聞いたとき俺はまたかと思った程度に慣れ切っていた。以前ならすぐに砂羽や泉に連絡し三人で見舞いに行こうと提案していた男が後回しでいいかと思うほどに。

 丁度その頃、中学時代の友達と数年振りに会う約束をしていたのもある。もう国木からいなくなってしまったかつての友達と久々に再会するのを俺は心待ちにしていた。

 場所は国木ではなく、それぞれの住んでる所から集まりやすい隣県に泊りがけで会おうということになった。久し振りに会って周辺を観光し、夜はバカ話に花を咲かせみんなで飲み食いする。そんな仲の良いやつ同士だけの再会だけで済ませておけばいいものを、欲張った俺は女房に帰る日を誤魔化した。一日だけ延長し、久々に一人を満喫しようと企んだのだ。

 帰ってから砂羽や泉を誘って富岡の見舞いへ行こうと考えていた。

 当日。早ければ最終日の午前には帰ると女房に伝え、当時一緒に仕事をしていた親父に店を任せた俺は意気揚々と家を出ていった。

 富岡が亡くなったのは俺が家を出た日の午後だった。

 国木を出る前。少しだけでも富岡のところへ顔を出しに行こうか一瞬だけ考えたことはあった。

 だが鈴木が仕事でいない富岡一人だけの病室へ行くことに抵抗があった。

 富岡に対する特別な気持ちがもうなかったとはいえ、それでも初恋だった人と二人だけになるのは避けたかった。

 学生の頃からそれに慣れなかった。いつも誰かを間に挟まなければ富岡と話せない。俺一人だけじゃ、なんて話せばいいのかわからなかった。

 俺だけでは病人に気を遣わせてしまう。

 それを恐れて後回しにした。


 今更思っても遅いことだが恐れる必要なんてなかった。

 富岡はそんなこと少しも嫌に思わなかっただろう。何も喋れない俺を前にしても、いつも通りの笑顔を向けてくれていたはずだ。

 なんであのときの俺はそう思えなかったのだろうか。

 なんで富岡に対しては悪いことばかりが出てきてしまうのか。

 学生時代勝手に俺が想って。

 失恋して。それからずっと勝手に気まずさを感じていた。

 そんなものさえ持っていなければ――。


 国木を出て友達と久々の再会を果たし楽しんでいる間、鈴木からの報せを受けた女房は慌てて隣県にあるホテルや観光地に電話を掛けて俺を探していた。

 女房には中学時代の友人と隣県で会って来るとしか伝えていなかった。女房も鈴木達も高校の頃に知り合った関係だから、誰も中学時代の俺の同級生の連絡先なんて知らない。

 どこへ泊まるか。どこへ行くかなどの正確な場所は少しも話さなかっただけでなく、当時の俺は出掛け先で家族を心配して家に電話を掛けようなんて頭が少しもなかった。

 結局、女房は俺と連絡を取ることができなかった。

 俺はそのまま何も知らずに遊んで過ごし、最終日の午前で帰る予定は寄り道ばかりしていたせいで遅くなった。

 国木に戻ってきたのは夕方だった。

 その帰り道で娘を連れた鈴木と出会ったのだ。


『――久しぶりだな』


 夕暮れの商店街。

 鈴木の顔を見かけてすぐに声を掛けた。

 以前顔を合わせてから半年振りに見たあいつ。

 俺に向かって静かに笑うあいつの顔を見て、おかしいと思った。

 そこでようやく喪服を着ていることや娘を連れていることに気づく。

 声をかける前。鈴木の顔を見つけたとき。なぜそのときに気づかなかったのだろうか。

 本当に配慮に欠けていた。


「おお、久し振り」


 落ち着いた声が頭の中に響く。

 あいつには似合わないそれが俺の動きを止めた。

 目の前で鈴木の娘が頭を下げて挨拶するのを、俺は呆然と見ていた。当時は髪が短くてパッと見男の子のようだった彼女の小さな挨拶はとても静かだった。

 それ以上の会話を憶えていない。

 気づけばじゃあなと言って、鈴木は一度も振り返ることなく去って行った。

 あいつの姿が視えなくなるまでそれを見送った後、酷く怖くなったことを今でも憶えている。


 そして家に帰り着いて全てを知った。

 俺が出掛けた日に富岡が死んだこと。

 女房が必死で俺に連絡を取ろうとしていたこと。

 俺の代わりに女房が葬儀へ参加したこと。

 その葬儀が終わったのがついさっきだったこと。

 富岡はもう焼かれて、骨だけとなってしまったこと。


 それからその日をどう過ごしたかは記憶にない。

 気づけば日にちが変わっていた。


『あんたが携帯持ってないから――』


 頭の中をそう言った女房の声が耳鳴りのようにずっと響いていた。

 ウルセーだとか。

 性に合わないだとか。

 そんな否定する声は出ない。女房の言う通りだった。

 富岡が死んだとき俺は隣県にいた。

 携帯さえ持っていれば報せを受けることができた。

 真夜中でも帰って来ることはできた。

 たとえ富岡が死んだ日に帰って来れなくても……葬式には間に合っていた。


 ……大事な親友ひとを見送ることができてたんだ。

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