第31話(陽菜編)


 綾の声を聞いて、私の足は動いた。

 他の三人も私に続いてくる。

 だいぶ遠くにいるように思えた二人までの距離は一瞬で縮まった。

 でも――泣きながら声を上げる綾の顔を見た瞬間、アタシの足は動かし方を忘れたように止まってしまう。

「……」

 声も出せないまま、愛海を抱きしめる綾を見ていた。

 そして綾が意識を失って、力を失った綾を愛海が支える。

 それがわかったのに、体は動かない。

 事前にこんなことが起こったらこうしよう、ああしようと予想を立てていつでも動けるようにと意識していたのに。

 浮かべた光景と似たようなものが目の前にあるのに。

 予想の中で動いていたアタシの足は……現実では一歩も動かない。


「――陽菜」


 アタシを動かしたのは愛海の声だった。

 眠っていたのを叩き起こされたかのような強いそれにビクッとして、硬直が解ける。


「お願い――」


 綾を支えながら愛海がアタシの方を向く。


「――綾を助けて」


 振り返ってみても思う。

 このとき冷静だったのは間違いなく愛海だけだった。

 ようやくアタシの体が動く。最初にスマホを確認して母さんからの『着いた』というラインを見た後、すぐに愛海に駆け寄った。

「郁美、真帆。駐車場まで案内して」

 受け取った綾を抱き上げ、声を出すと残りの三人も動くようになった。

「こっち!」と真帆が先を歩く。

「志穂は愛海とちーちゃんの所へ、こっちのことはいいから先に帰っててくれ」

 郁美の声を聴きながら、アタシは真帆を先頭に母さんの待つ駐車場へと向かった。

「足元気をつけて!」

 真帆の声を頼りに注意しながら、綾を抱えて進んで行く。

 アタシのやっていることは小柄な郁美や愛海だったら難しいと思う。

 それだけに。このときばかりはウンザリしていたこの体にも感謝した。

 昔は身長も綾の方が高かった。

 いつの間にか綾と同じくらいになって、いつの間にかアタシの方が頭一つ分も大きくなってしまった。

 小さい頃、こんな未来を少しも想像したことなんてなかった。

 綾を抱えて走る自分の姿なんて掠りもしなかった。

 ……こんなに軽かったんだ。

 初めて持った綾の体。小動物を抱いているんじゃないかとそう錯覚させる。帰宅部で軽めの運動しかしないアタシでも運べてしまう。

 それほどの軽さに今頃気づく。

 ほんとにアタシは――後悔ばかりだ。



 綾を車に乗せ、郁美と真帆の二人とは駐車場で別れた。

「――落ち着いたら連絡する」

「うん、待ってる」

 二人に見送られる形で母さんの運転する車が欲羽山を離れて行く。

 車は近くの病院へと向かっていた。後部座席で寝かせた綾の手を握りながら、病院へ電話をかけようとスマホを耳にあてる。

「――陽菜?」

 コール音を鳴らす前。思いの外早く綾が目を覚ました。

「……愛海は?」

 一旦電話を切って、綾の身に起こったことを伝える。今は近くの病院へと向かっていることを話すと綾はそれを拒否した。

「――大丈夫だから」

 家に帰らせてと、そう訴える。

「……」

 少し迷った。でも気を失ってしまったとはいえ、見た限りでは綾が悪い状態には見えない。顔色は悪いわけでもないし、呼吸も安定している

 ――言う通りにしよう。

 そう判断して母さんの方を見る。運転する母さんは頷いていた。車は予定していた道とは別の方へと走り出す。

「わかった。でもおじさんには連絡するよ?」

 綾に向かってそう言うと、彼女は目を閉じてコクリと頷いた。

「それと――」

 綾の手を握り直して呼び掛ける。

「――今日はアタシも綾の家に泊まるよ?」

 このままの綾をあの家に置いて帰るなんて、アタシにはできない。

 今までずっと綾を救えなかった……こんなアタシだけど。

 これからはずっと……あなたを支える人でありたい。

「……」

 口に出さず、のみ込んだままで返事を待つ。

 目を開けた綾はこっちを見る。

 綺麗な顔がコクリと頷き、片目から一滴の涙を流した。

「……一緒にいてくれる?」

 ホッとした顔がアタシの手を握り返す。

 彼女の手から温もりを感じる。ここにあの冷たさはもうない。

 ただ、それだけで涙が溢れそうになる。


 泣いてる場合じゃない。

 しっかりしろ。


 そう自分に喝を入れながら、滲む視界の中で「うん」と頷く。



 綾を家へ送り届けた後、母さんはおじさんへの連絡や一度家に帰って私の着替えなどを持ってきてくれるだけでなく、おじさんが家に到着するまでの間ずっと傍にいてくれた。

「――色々やってくれてありがとう」

 もう親がやることはないから帰る。

 そう言って車に乗り込む母さんに向かって言った。

「明日は何時?」

 運転席から顔を覗かせ、迎えに来ると言ってくれる。さすがにそこまでしてもらうわけにもいかない。

「明日は歩いて帰るからお迎えはいいよ」

「困ったことあったら真夜中でもいいから」

「うん。そのときはお願い」

「旅行バッグが届いたらラインする」

 綾とアタシの旅行バッグは千明さんが今届けてくれている。久し振りに会ったというのに、色々と手間をかけさせてしまった。

 母さんの車が見えなくなるまで見送った後、玄関に戻ると二階から下りてきたおじさんと鉢合わせた。綾との話が終わったのでアタシを呼びに来たのだという。

 このとき、アタシは生まれて初めて大の大人から頭を下げられてお礼を言われた。

 母さんにしていたことと全く同じことを子供の私に向かっておじさんはやったのだ。

「……」

 正直戸惑った。深く下げた頭に向かって何て言えばいいのかわかんなくて、情けないことに言葉を失ってしまう。

「――あ、あの」

 ようやく出た声。

「ア、アタシも今日は綾の傍にいて……いいですか?」

 それだけでいっぱいいっぱいだ。頭を上げてくれたおじさんは優しい声で「お願いします」とアタシに頼んでくれる。

「はい」と、今度はそれにはっきりと返事できた。

 それからしばらく綾は眠っていた。その間おじさんはずっと家のことをしていて、アタシは家まで届けに来てくれた千明さんから綾の旅行バッグを受け取ったり、みんなへの報告をしていた。

 それ以外はずっと綾の傍にいた。

 綾の部屋の隅には引っ越し用のダンボール箱が積まれてあった。あまり荷物がないのか、少ない箱だけで部屋は片づいている。他の部屋の荷造りも大分進んでいるのを見て、おじさんと綾が本当にこの家から出るんだと改めて実感した。

 大分暗くなってくると下からいい匂いが漂ってきた。

 多分台所でおじさんが何か作っている。見た目の印象のせいか、おじさんが台所の中を動き回るイメージは全然なくて意外に思う。でも匂いと静かな物音だけで、おじさんがおいしいものを作っているのがわかった。

 静かな寝息を立てる綾の顔を見て、抱き上げた際の軽さを思い出す。食べてくれるだろうかと不安になった。

 それからすぐに綾は目を覚ました。おじさんが丁度夕飯を作り終えたので、部屋に持って行くと言うと綾は首を横に振った。

「――三人で一緒に食べたい」

 その提案にアタシとおじさんは頷く。そうしようと一階の居間で三人一緒に食べた。

 会話は少なかったけど、綾は嬉しそうにしていたしアタシも同じような気持ちだった。静かなのに不思議と居心地は悪くない。

 食べながらふと、綾の家族とこうして過ごすことが数年振りだったことを思い出す。

 当然、数年前と違ってここには一人いない。

 その一人がここへ戻るなんてことはもう……二度とない。

 それはもう訪れない未来で遠い昔の話になってしまった。

 でも、それでも今の居心地の良さは本物だ。

 決して一時的なものなんかじゃない。

 だからわかる。

 欠けてしまったけれど、ここは壊れてなんかない。



 お風呂から上がって、綾の髪を乾かしている最中に志穂からラインが着た。


『今電話いい?』


「綾。ちょっと志穂と電話してくるね」

「うん」

 持っていたドライヤーを綾に渡しスマホを片手に廊下へ出る。時計を見て志穂は寝ていないのだろうかと思った。

 今夜配達あるって言ってたけど、寝なくて大丈夫か?

 こちらから電話するとすぐに志穂は出た。

『――今いいの?』

「うん。大丈夫」

『綾は?』

「もう大丈夫だよ。ご飯もちゃんと食べたし、これからのんびりして寝るつもり」

『そっか。なら良かった』

「……愛海は?」

『ずっと返事なし。帰りは家まで送ったんだけど、無言で魂がないような感じだった』

「連休明けは学校来れるかな?」

 明日から三連休なので学校は火曜から始まる。その間に愛海は復活するだろうか。

『難しいかも。さっきまなママに電話したんだけど、ごはんも食べずにずっと部屋で寝てるらしいんだ』

「そっか……」

『とりあえず今はそっとして月曜の夜また連絡取ってみようと思う』

「そうだね。その方がいい」

 そしてふと、頭の中で欲羽山での出来事が蘇る。

「ねえ志穂――」

 そう口に出して、しまったと思う。

 これは今……聞くべきではないか。

『ん?』

「あ、いやごめん。なんでもない」

『そう?』

 志穂は追求せずに、それだけで終わらせてくれた。

「――それじゃあまた月曜に連絡する」

 会話が終わってスマホを閉じる。

「……」

 シーンとした暖色の廊下の中、志穂に言おうとしていた言葉が頭の中で回る。

 愛海は……何を怒っていたんだろう。

 欲羽山でそれに気づいたのは……きっとアタシだけじゃない。他の三人も気づいていたはずだ。


『――陽菜』


 あのとき、アタシを呼んだ声。

 アタシの硬直を解いたそれに滲み出た感情。


『綾を助けて』


 それはこっちを見た愛海の目にも確かに宿っていた。



「――それじゃあ、消すよ」

「うん」

 パチンと音を立てた後、部屋の中が真っ暗になる。

 志穂と話した後は二人でテレビを観ていた。

 二時間もののバラエティ番組はおもしろいわけでもつまらないわけでもなく、アタシも綾も頭を空っぽにして観ていたと思う。会話らしい会話はなかった。

「――そろそろ寝よっか」

 番組が終わって11時を迎える頃に綾が提案した。

 頷いて二人部屋に戻る。綾はベッドの上でアタシはその隣に敷いてもらった布団に横になった。

「……」

「……」

 二人揃って仰向けになっているけれど、どちらからもおやすみという声が出ない。綾もアタシと同じように瞼を開け天井を眺めているような気がした。

「――陽菜」

 綾の声。でも顔は動かさず「んー?」と返事する。

「愛海とまた、今まで通りになれるかな?」

「……そうなりたい?」

「……うん」

 アタシもそうしてほしいと思ってる。

 でもそれを愛海が拒否してしまえば、綾は何も言わずに受け入れるだろう。

 そうなってしまえばアタシも志穂も関わることはなくなってしまって、最終的にはみんな友達でもなんでもなくなる。

 恋は終わった後も、そういう悲しいことが起こる可能性がある。

 でも、それはない気がした。

「多分だけどさ。愛海も綾と同じだと思うよ」

 これで相手が愛海じゃなかったら、それは相手次第という答えになっている。

 でも愛海ならそれはないと思う。愛海が綾を避けるイメージなんて少しも出てこない。

「明日くらいに連絡してみていいいかな?」

「いや、連休明けにしよう。今はお互いに落ち着く時間が必要だと思うんだ」

「そっか……そうだね。ごめん。なんか焦っちゃった」

「いいよ。火曜はアタシもついてくから。もし怖くなったら代わりにアタシが声掛ける」

「ありがとう。でもそれはいい――」

 強く、それを拒否した彼女の声。

「――自分でやる」

 それに引かれるように綾の方に顔が向く。

「勇気を出して告白してくれたんだから、今度は私が勇気を出さないと」

 暗闇に慣れてきた目は天井をジッと見つめる綾を捉えた。

「――そうだね」

 微かに笑みがこぼれる。

 きっとすぐに、二人の間にある壁はなくなると思った。

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