第30話(綾編 修学旅行編 最終日)
振り返ると、目を瞑った愛海が深呼吸をしていた。私が振り返ったことに気づかず、胸に右手を当て、左手は下ろしたままで静かにゆっくりと息を吐く。
三回目で目を開いて、視線と視線が重なり合う。
「……」
「……」
言葉を交わさない私達の間だけでなく、周囲は風の音さえも隠してしまったかのように静寂が包む。
愛海と私の間にある距離はもう、縮める必要はない。
彼女もそれがわかっている。
「――ごめんね。待たせちゃって」
最初にそう言って静寂を切る。微笑むことはなかった。
「ううん。大丈夫」
私はどんな顔をしているだろうか?
そう疑問に思うほど、今の自分がわからない。
「綾――」
呼ばれて、自分の足が震えていることに気づく。
「……」
気づかれていないことを祈って、必死に自分を保った。
精一杯の強がりを持って隠し通さなければ、全てが台無しになる。
だから絶対に気づかれるなと、心に言い聞かせる。
「――」
そして何かを言おうとしていた愛海の口が止まる。
予め並べていた言葉が緊張のあまり崩れてしまったのだろうか。私の視線を逸らすようにして愛海が俯いてしまう。
「……」
でも、不思議と不安はない。
そんな愛海の姿を見ても、大丈夫だと思った。
「綾、私ね――」
だってほら、とすぐに愛海は顔を上げる。
「――綾のことが好き」
そして忘れていたと言った具合に、
「私と――付き合ってください」
続く言葉に笑顔を添える。
「……」
……やっぱりそうだった。
なんとなく、こんな形で伝えるだろうなって思ってた。
前置きなんかせず、真っ直ぐに。
本当に愛海らしい。
いつだってそうだ。
いつだって……こんな風に少しも陰らない光を向けてくる。
最初からこの最後の瞬間まで、愛海は少しも恐れたりなんかしない。
彼女は私が今までに出会った男の子や女の子の誰よりも勇敢で、少しも自分の信念を曲げない。
「ありがとう――」
そんなあなたに――私は憧れた。
あなたと出会って、
あなたの恋を知って、
あなたのようになりたいと思って、過去を乗り越えようと自分で動くようになった。
あなたを愛したくて。
愛してもらえるようになりたくて、必死で動いた。
「――でも、ごめんなさい」
でも私は、愛海のようにはなれなかった。
「愛海の気持ちには応えられない」
待っててなんて言ってしまえば愛海は一生待ってくれるだろう。私なんかの為に、愛海は平気で全てを投げ捨ててしまう。
そんな私のわがままなんかに、あなたを付き合わせられない。
私のコレは……一生治らない。
私はあなたを幸せになんてできない。
あなたを幸せにできるのは、私のような壊れた女の子なんかじゃない。
私はもう……あなたの光を見せてくれただけで十分だから。
これからも、海の中であなたを見ているだけいいから。
「……」
「……」
沈黙を流すように、少し冷たい風が吹いた後、愛海が一度深く目を閉じた。
「――ありがとう。聞いてくれて」
想いが途切れても、愛海から笑顔は消えなかった。
きっと答えなんてわかってた。
それでも愛海はこうして目の前に立ってくれたのだ。
だから私も伝えなければならない。
「ううん。こちらこそ、私なんかに――」
「――嫌な気分にさせちゃってたら、ごめんね」
その声を聞いた瞬間、何かが割れる音がした。
「――え?」
音の後、視界のオレンジが真っ黒へと塗り変えられていく。
立っている両足にあった不安定な揺れの感覚がピタリとなくなる。
今――なんて言った?
代わりに足元からゆっくりと、胸の中心を目掛けて何かが近づいて来るのを感じる。
不快なそれは止まることをせず、確実に昇ってきている。
少し俯く愛海の顔が暗い。
笑顔は消えていないけど……でも、その顔は私を見ようともしない。
「おかしいって思うかもしれないけどさ――」
暗い声。耳が遠くなったのか、彼女が自信を失ってしまったからなのかはわからない。でも届く声は酷く小さくて、私の頭を真っ白にさせようとする。
「――でも本気だったんだ」
そんなこと、ずっと前からわかってる……。
「本気で綾と付き合いたいって思ってたんだ」
真剣だってことも。
「それを知ってもらいたくてさ――」
ふざけてなんかいないこともわかってる。
「――嫌な気分って何?」
我慢できずに言葉が遮る。
愛海が顔を上げてこっちを見た瞬間、足元から迫って来た不快感が胸に届いて、体に一本の亀裂を生んだ。
「何がおかしなことなの?」
どうしてそんな自信を失くしたような顔をしてるの?
「私が愛海のこと……そんな風に思うとでも思っているの?」
いけない。
心の中で警告が鳴っている。
これ以上は――。
「そもそもおかしいって、どこの誰が決めたの?」
ダメだ。もう警告なんてそんなの……どうでもいい。
そんなことより愛海の勘違いを解かないと。
このままだと、愛海の恋を傷つけて終わらせてしまう。
「……綾?」
そうしてしまうくらいなら……。
こんな綺麗な物に傷をつけて、あの汚い部屋のある家に帰るくらいなら。
私なんか……。
私なんか!
「――何がおかしいっていうの!?」
壊れたっていい!
「――女の子同士だったら、ダメなの?」
張り裂けた声。
詰め寄って、愛海の小さな肩を掴む。
見下ろす私と、見上げる愛海の視線は合っているのに、何度尋ねても彼女は言葉を失ってしまったかのように口を開かない。
「――それならどんなに好きでも許されないの?」
それが悔しい。
さっき言ったことを、今すぐ否定してほしい。
自分が選んできた決意に自信を持ってほしい。
「じゃあ男と女ならいいの? それなら少しもおかしくないって言うの?」
お願い愛海……何か言って。
じゃないと私……。
「――それなら私とお父さんを捨てて、他の男と恋したあの女は許されるの?」
いけない。
違う。それはダメ……それは私の話であって……。
「嫌な気分にならないの? おかしくないから認められるっていうの?」
愛海には全く関係のない話だ。
「――そっちの方がおかしいじゃない!」
なんで私はこんなに声を荒げているのだろうか。
どうして泣いているのだろうか。ずっと前から出ていたのか、吐き出したと同時に溢れ出てしまったのか。どちらかはわからない。
でももう――そんなことどうだってよかった。
自分の顔の酷さなんてどうでもよくて、大事なのは彼女が私に向けてくれたものだ。それ以外のなんでもない。
「愛海はおかしくない! 少しもおかしくなんかない!」
「……」
「違うの愛海。おかしいのは私なの――」
近寄って、彼女の手を取る。
「――手だって繋げる」
一歩踏み込み、彼女の小さな体を包み込むように抱き寄せる。
「――抱きしめることだってできる」
グッと包む手に力を込める。
「私がおかしくなかったら、壊れてなんてなかったら……キスだってできる」
感じるぬくもりは少しも嫌じゃない。
ここにおかしさなんてない。
「――ねえ愛海。ここに愛は存在しないの? 恋なんて錯覚だったの?」
お願いだから……自分の恋に自信を持ってほしい。
「そんなわけない。そんなこと絶対にない!」
誰かの足音が耳に入ってきた。きっと陽菜達だ。私が声を荒げたからだ。
「あなたが私に見せてくれた恋はこんなにも綺麗なのに……なんでそれを悪く言うの……」
視界の隅で黒い渦が回っている。
ずっと付きまとっていたあの影が来る。
「……あなたのやったことは、少しもおかしなことなんかじゃない」
ダメだ……もう限界だ。
「違うの愛海。応えられないのは、そういう理由なんかじゃないの。そうじゃないの……私……私ね……私――」
そこで、
「――立ち直れないの」
私の意識は途切れた。
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