第12話(綾編)
水の音がする。
小さな水が落ちる音。
それもひとつではない。一瞬の間に数え切れないほどのそれらが落ちていき、ひとつの音を作っている。
それは視える世界を包んで触れるものに影響を与える。大きな音だけれど、でも不思議と耳を塞ぐほどのものではない。
普段は景色として見るそれを特別意識したことなんてなかった。だからその中でこうして目を瞑るなんてことは、キッカケさえなければしようとさえ思わなかった。
そうしていて何があるのかというと、まず周囲が包まれたかのようにその音だけになる。耳障りだった雑音が消えてそれだけの
心地良いと思えたから与えられた僅かな時間の中、耳を澄まして音に入り込もうとする。そうしていることで自然と音は細かく分かれていった。
轢く音。踏む音。受ける音。弾く音。
意識しなければわからないそれらが集まってひとつの音になっている。
もっと深く聞き分けてみようとすると、遮るようにカッコウのメロディが流れた。その瞬間に水の音は消え、耳から離れていた雑音が近寄るようになる。
目を開け、眼前にある光景を見据える。
灰色の空から小さな雨が降っている。下にあるのはそれに覆われた交差点。花が開いたかのように広げられた傘が不規則に交差点の中で揺れている。
雑踏の上に並ぶ人達の顔をすっぽりと隠した傘は偶然にも異なる色あいが並んでいる。殺風景な灰色に彩りをもたらしているのを見て、自分の傘を見た。
透明な水を貼ったように無機質な傘しかない。そんな鮮やかな色を持つ傘なんて家にはなかった。
「……」
カッコウの声を合図に、前へ前へと傘が離れていく。ぼんやりと目にしていたせいか、足は止まっていた。日常で見られる些細な光景なのに雑踏の上を被さる色めいたそれらが不思議と目を引き寄せる。赤、ピンク、白、藍と持ち主の個性を主張させるように、雨がそれらを映えさせているからか。
離れる色に誘われるかのように、遅れた足を動かす。
今は一人で街にいる。
目的地も待ち人もなく、事前に決めた場所を歩いている。
今日は一時間という目標を立てた。歩くルートは人通りが多い場所にしているので駅周辺となる。交番も病院も近くにあるので何かあればすぐに助けは求められる。
そういう場所を歩いてほしいと陽菜から言われていた。
彼女は今、家で私からの連絡を待っている。
街を歩く際私から彼女に定期的に連絡することを約束していた。歩く場所や時間は事前に伝え、出掛ける前や帰りの際にも連絡する。先程設定したアラームが鳴ったらすぐに彼女に連絡しなければ、家を飛び出してここまでやって来てしまう。だから不安にさせない為にも連絡は絶対に遅れないようにしなければならない。
過去を乗り越えて、普通の女の子に戻りたい。
そう決意して街を一人で歩く。貴重な時間を使って陽菜はそれに付き合ってくれている。だからしっかり足を動かさなければと、歩を進める。
できる限り前を向いて歩いているので以前と違って今は周囲がよく見える。
今のところ特に問題はなかった。だからこのまま進もうと屋根のあるアーケード商店街へと入る。土日の人が多い時間帯に一人で来るのは中学の時以来だ。
少し歩くと人の出入りが多い雑貨屋が目に留まる。新規オープンしたばかりらしく建物が真新しい。店内にはお客さんも多いので、あそこなら店員に話し掛けられることもないだろうと中へ入る。
商品を見ながら店内をゆっくりと回る。三階建てのお店の一階スペースはレトロ調な雑貨が多い。外国の古い標識のようなものや外側に錆のデザインを施した箱、昭和テイストのポスターなどと、値段といい大人向けだ。
二階三階も行こうかと思ったけど、店内を一周し終えるよりも前に店を出ようと思った。
欲しい物があるわけでもなく興味を持っているわけでもないからか、一部の店員から射抜くような視線を感じる。他にもお客さんはいるというのに、私のようなタイプは彼らからしてみれば異質で目立って見えるようだ。
不審な目を向けられている気がしたので話し掛けられる前に出ようと、なんでもない風を装って店外へと出た。ああいうお店は人が多くても店員の目は行き届きやすい。人も多く店内も広い家電量販店の方がいいかもしれない。
それからしばらく商店街を歩くが、特に何も問題はなく時間だけが過ぎていく。終わりの時刻が近づく頃となったので、駅へ戻ろうと思った。
そうして振り返った直後、すぐ後ろを歩いていた親子の姿を目にした。
女の子とお母さんの二人。
それを見て、一瞬足が止まる。
彼女達の進行方向で立ち止まっているせいか、笑顔で歩いていた女の子と目が合ってしまった。
「……」
すぐに目を逸らして足を動かし、彼女達の横をすり抜ける。ズズズと奇妙な音を耳にして足が止まりそうになったけど、なんとか堪えた。
女の子は視線を逸らした私が気になるのか、擦れ違った後も私をじっと見ていた。きっと変な人だと思われたに違いない。
「……」
そのすぐ後にスマホが鳴る。女の子のことを忘れたくて歩きながら確認するとお父さんからだった。
『今日は夕方に帰る』
珍しいと思った。今週は土日も帰りが遅くなると言っていたのに。
以前夕方に帰宅したのはいつだったっけ?
思い出せない。もう数カ月も前のことのように思える。
二人だけの家族になってからは、お父さんは仕事で家を空けることが多くなった。
毎日の帰りも遅く、あまり休もうともしない。
そのせいか家で毎日顔を合わせているというのに、これから顔を合わせるのがなんだか不思議な感じがする。
どうしたのだろうかと思っていると、少し遅れてラインが届く。
『大事な話がある』
足が止まりそうになったがそのまま動かす。急いで家に帰った方がいいみたいだ。
……なんだろう。
頭の中にポツポツと予想が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
「……」
浮かび上がってくるものは……どれも嫌なものばかりだ。
『母さんとやり直したい』
『母さんを捜そう』
『再婚する』
それはたった今浮かんだものではない。以前から身を潜めていたものだった。
恐れているものがキッカケを掴んで我先にとその姿を現してくる。これからそうした現実が起こるぞと、私を怖がらせている。
それらに髪を引っ張られているかのように、不快感が押し寄せてきた。
アーケード商店街の入り口近くまで動かした足を止め、周囲を見渡す。誰も利用していないベンチを見つけた。一旦そこへ体を預けることにした。
まだ――あの女を待ってるの?
座って俯いた瞬間、そんな声が聴こえた。
ハッキリと、そうだと過去にお父さんが口に出したことは一度もない。けどお父さんを見ていると、そうなのではないかと感じてしまうことが何度かあった。
これから家に帰って……あの女を捜そうなどと言われたら……。
「……」
ただの予感が、不快感を助長する。
一時間を知らせるアラームが鳴った。ボンヤリと見下ろすスマホの画面。いつの間にかグッと握り締めていたスマホの画面中央に、アラームを止めるボタンが浮かぶ。
音は耳に入っているのに、停止ボタンが表示されているのに手が動かない。
止めないと。
陽菜に連絡しないと。
帰らないと。
そう思うのにそうできない。
体は不思議と重くはなかった。
何かに掴まれていたり、押さえつけられているようなものでもなく、動かない手足は不思議とふわふわとしている。今にも体が宙に浮かび上がりそうなほどの浮遊感が体全体に流れている。
……まるで水の中を漂っているかのように。
そうしていつか見た夢。青い水の中を思い返す。
漂っている何もしない自分。
動こうとしない自分。
またそれに……飲まれそうになる。
ダメだ。逃げないと。
そう思った瞬間、遮るように近くで音が鳴った。
ハッと音のする方を見る。まだ動くアラーム音を蹴散らして割って入ってくるのは先程とは大きく内容を変えた雨の音だった。
目先にある屋根のない道が激しい雨に叩きつけられている。慌てて走って避難してくる人の声や足音も遮ってしまうほどに雨音は強く耳に鳴り響く。
ようやく手が動くようになった。アラームを止め、豪雨に叩かれる歩道を見つめながら陽菜に連絡する。
返事はすぐにきた。でも中を確認しようとする気も、足を動かして家へ帰ろうとする気にもなれない。雨のせい、というわけではなかった。
――どうすればいい?
疑問に足を引っ張られていた。
飛び交っているそれに答えを見つけられず、頭の中が空っぽになってします。耳の中に地面を鳴らし、屋根を叩く水音だけが入ってくる。
そんな中で、しばらくの間灰色の雨を見つめていた。
家に帰り着くと玄関にあるお父さんの靴を見つける。本当に早く帰っていた。
「――おかえり」
遅かったねと、お父さんがリビングから顔を覗かせる。雨音の響く暗い玄関まで笑顔で迎えてくれている。暗いけれど、その疲れた顔はわかった。
ただいまと、そう言いかけたそのとき。
『――おかえりなさい』
割って入ってきた声に背筋がゾッとする。
見上げた先――お父さんの隣に女の影がある。微笑むお父さんの隣で歪んだ顔を私に向けている。
「……」
耳に響いていた雨音が消える。
代わりに、ドクリと心臓が大きく鳴った。
視えない手で心臓をギュッと掴まれたかのように不安を招いてバランスを崩そうとする。
――違う。
必死で否定する。
いない……いるわけがない。
自分を落ち着かせて、手を伸ばして電灯のスイッチに触れる。
拡散した光の中でお父さんの隣を見る。
出迎えた影はなかった。ホッとする。
やはり幻覚だった。私にしか視えない影が嫌なタイミングで出ていただけだったのだ。
「――今日は早いね」
平静を装ってお父さんに笑顔を送る。上手く笑えただろうかと心配になりながら。
「早退させてもらったんだ」
大事な話があるからと、これからリビングで話をしたいとお父さんの顔が言っている。胸の奥からまた嫌な音が鳴ってくるのを感じながら、靴を脱いで玄関へ上がる。
「――ちょっとまってて」
そう言って一度部屋に戻る。動揺を抑えてから話を聞いた方がいい。
なんで……こんなときに?
嫌なタイミングで出てきた影。街で親子を見かけたせいだろうか。
部屋で気持ちを落ち着かせた後、鏡に映る自分を見る。顔色は思ったよりも悪くはない。大丈夫。
なにが発端となったかわからないまま部屋を出ると無意識に足が止まった。
目を引っ張られるように、あの女の部屋を見ていた。
「……」
息を呑んで見た先、いつも無言で佇んでいるはずのドアが微かに揺れているのを目にする。おそらくそれも本物じゃない。中に誰かがいるように感じるのも幻覚だ。
慌てて目を逸らす。幻覚だとわかっていても背中が粟立つ。これ以上はダメだと階段を下って一階へと逃げる。
もし話の最中にあの影が出たら、見て見ぬふりをするしかない。
「待たせてごめん」
リビングへと入ると、テーブルの上にはコーヒーがひとつ置いてあった。私が帰る前にお父さんが淹れたみたいだけど、ほとんど口をつけずに冷ましている。
「――そこに座ってくれるか?」
「うん」と、言われたソファへと座る。
父親の顔を見ることができず、膝の上に置いた自分の手を見つめる。緊張と幻覚を見たせいもあって、指が微かに動いている。
左手の上に右手を重ね、ぐっと掴んで悪くない話であってくれることを心の底で祈る。
「本題から先に入る」と、ソファに座るお父さんが私の方を見た。目を合わせるのが怖くて、私は俯いたままでいる。
「綾――――」
お父さんは大事な話をしているのに話をする自分の顔を見ない娘を叱ることもしない。
そんなお父さんに、お願いと奥底で予想したものが出ないことを必死で願う。
お父さんの口から、あの女の名前が出てこないことを……。
「――この家を売って、マンションで暮らさないか?」
そんな不安を一瞬で払拭した声。
「え……?」
思わずお父さんの顔を見る。
「この家を出よう」と、お父さんは真っ直ぐな瞳で私を見ていた。
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