第8話(綾編)
お大事にという言葉を背中に受け、冷えた室内から屋外へと出る。
九月も終わりが近いというものの、まだ夏は健在なせいかどの建物内でも冷房が絶えない。屋外との気温差は激しく、迎えればウンザリするような気温に襲われる。夜も半袖で過ごせるほどの季節はまだ少しだけ居座るつもりのようだ。
受付で渡されたものが入ったビニール袋を提げ、真っ直ぐに陽菜が待つ場所へと向かった。
途中、薄い空の脇にある入道雲を発見し自然と足が止まる。
見上げた先――遥か先にあるそれはてっぺん部分は真っ白な色をみせているものの、下は随分と黒い色を帯びているのがわかる。人の形をしているように見えるそれは顔が白く体が黒い。
大丈夫かなと手元を見る。あるのはビニール袋に入った薬だった。
まだこれ……持ってたんだ。
まるで他人事のようにビニール袋の掛かった自分の右手を見つめる。
どうしようか。そう辺りを見渡していると左手にあるコンビニを目にする。足も止まっていたし丁度いいと、入り口前に設置されてあるゴミ箱の方へと歩いていく。
『燃えるゴミ』と書かれたゴミ箱へ近づき、中に入っているものを迷わず袋ごと突っ込むと、背を向けて待ち合わせ場所へと足を急がせた。たった今もらったものは、捨てたことに少しも後悔しないほどいらないものだった。
歩いて五分もしないところにある人気の多い広場に辿り着くと周囲を見渡す。
――いた。
すぐに彼女を発見する。遠くから見てわかるくらい彼女の存在は目立っている。男の子並みの長身で志穂よりも大きいせいか、他の人に紛れていてもすぐにわかる。
周囲の人達ごと見渡せる私の位置からだと、彼女に対して好奇な視線を送っている女の子達が何人かいるのがわかった。
「――あの人おっきいね」
彼女へ向かって歩いていると、そんな声が耳に入ってきた。
「大して高いヒール履いてないのにウチらとすごい差あるよ」
「私もあれぐらい欲しかったなー」
「カッコイイー」
羨む色が混じった声は視線の先にいる彼女には決して届かない。流れた声の全てを録音して彼女に聞かせてあげれば、彼女はどんな反応を見せるのだろうか。普段あまり話さないが、陽菜は背の高さを少し気にしているところがある。それが彼女の魅力のひとつであるということに彼女はまだ気づけていなかった。
「――陽菜」
私の視線に気づかずにスマホを覗いている彼女に声をかける。こちらを向くとホッとしたような顔をしてこちらへ寄って来る。
「――おつかれ。もういいの?」
「うん」
そして私の表情が暗いことからすぐに察したのか「今回もダメだった?」と尋ねられる。
「……うん」
だからもう行かないことにしたと付け足すと、そっかと残念そうな顔。
「ごめんね。わざわざ付き合ってくれたのに……」
陽菜と会う前に人と会っていた。
女の先生で親身になってくれる。
とても頼りになる人。
その噂を聞いて今日はその人を尋ねた。あまり自分の過去を人に話したいとは思わないけれど、自分を前に歩かせる為にと勇気を出して踏み込んだ。
結果は最悪だった。
改めて振り返ってみても嫌な内容だった。
先生と呼ばれている女性はあまりこちらを見ようともせず、ただ私の話に頷いているだけの人だった。誰と会話しているのだろうかと、第三者がその光景を見ればそう思うほどに、彼女は私の話をほとんど聞いていなかった。上の空というわけではなく真剣に聞く気がないのか、口に出したくない過去を頑張って吐いても、どうでもよさそうな顔をこちらに向けていた。
とげとげしさも見えた。
何か気に入らないことでもしてしまったのだろうかと自分の身を振り返ってみるけどわからない。私が部屋に入ったときから嫌な感じはしていた。何か知らない内に失礼なことをしてしまったのだろうか。
けど結局彼女は何も言わないまま、私は何が悪いのかわからないまま時間だけが進行し、ほとんど頷いているだけの女性との会話は終わりを迎えた。
『夜はちゃんと眠れてるの?』
『ごはんは食べてるの?』
彼女のやったことといえば、誰にでもできそうな質問を投げただけ。全て話終えた私は酷くぼんやりとしながら彼女の質問にはいとだけ答えた。
この人のコレを聞きに行く為だけに私はここへ来たのだろうかと、この場所に来たことを酷く後悔した。付き添ってくれた陽菜に申し訳ない気持ちになった。
偶々だったと、そう思えば次を探す気にもなれただろう。でも二回目である今回ではもうそんなことは思えない。以前と同じ内容だとは言わないが、どこへいっても結果が変わらないのは確かだった。紹介状もなく未成年で親の同伴がなくても診てくれると言ってくれたのに、診る以前に話を聞いてくれる様子がないのなら行く必要なんてない。
――もう嫌だ。
これ以上自分の
勇気を出して過去を打ち明けても余計に不快な思いをさせられ、その上要らない薬を渡されるだけ。ああいう治療を行っている人達の着ている白衣も、苗字の後ろについている先生というご立派な呼称も意味がないとさえ思ってしまった。
――結局、自分でなんとかするしかなかった。
「――甘い物でも食べにいかない?」
自然と顔に嫌な気持ちが出てしまったことを反省し、努めて明るく振舞って陽菜を誘う。暗い顔をする彼女を救う為でもあった。
「うん」と、私に合わせて微笑んでくれる彼女と一緒に街へ向かって歩き出す。
「――これからはどうしようと思ってるの?」
紅茶とケーキのセットを注文し終えたタイミングで陽菜は尋ねる。
「自分の力で乗り越えようと思ってる」
さきほど、いらない薬と会計を待っている間にそうしようと考えた。
――けど、明確に何をするかまでは決まっていない。
今考えて思いつくことといえば、一人で外を歩くぐらいのことしか浮かんでこない。普通の人ができて今の私ができないことはそれぐらいだ。
少し前に散歩をしてみたことがあったけれど、嫌なものを目にするからという理由で簡単にやめてしまった。
それをもう一度。できれば人の多い場所で……。
「一人で街を歩いてみる」
昔はできていた当たり前のことを、またできるようにしなければ私は前に進めないような気がした。陽菜には一人で街を歩きたくない理由は話してある。掃除のことが彼女に気づかれてしまってからは彼女には私の身に起こっていることは全て話している。
「わかった。じゃあそのときアタシは綾が帰って来るのを待っているだけでいいのかな?」
本当は一緒についていきたいのだと思う。でもそれをやれば私の為にはならないと彼女はわかっていた。
「うん……ごめんね」
「いいよ。帰るまでずっと待ってるから」
行くときは必ず連絡してねと、ニカッと笑う彼女。
掃除の件以来、陽菜は私をよく見るようになった。
私がずっとあの部屋に囚われていたことに気づかなかった自分に対する戒めにしているのだと思う。そんなにジロジロ見なくても大丈夫だよと言ってあげると、顔を赤くして慌てて否定していた。
支えてくれるのは嬉しい。
でも……無理してそうしているのだろうかと考えてしまう。
もしそうだとしたら、これも全部……嘘をついた私のせいだ。
店を出ると、見上げた空を怪しげな雲が支配していた。
さっき見上げた入道雲が体を思いっきり広げたように空は暗雲に覆われている。最初に見えていた白い部分は何処か別の場所で漂っているのか視界に映らなくなった。
「うわっ、きそうだね」と陽菜。彼女も傘は持っていない。
「駅ビルの方へ急ごっか」
そう提案し、二人並んで少しペースを早めて歩く。
周囲の人達はそんなこと気にした風もなく、自分のペースで歩いているように見えた。最近では外国人のように傘を差さない人が増えてきていると聞いたけど、そういうタイプの人達なのだろうか。
走った方が良かったねと、少し濡れてから陽菜に話し掛ける。
シャッターの閉まったとある店の赤い
「……」
ぼんやりと、雲が降らす雨を見上げる
あの雲が降らしたものとは思えないほどの似あわない雨だと思った。
滝のようなにでなく、サーっと静かな音。
それがよく街を濡らしている。
「ねえ――」
隣から声がした。少しだけ水気のある前髪の毛先をつまんでいたときだった。
横を向くと、陽菜はこっちを見ずに視線を真っ直ぐに前へと向けていた。
追うように彼女の視線の先を見る。
針のような雨が降っているだけの、誰もいない景色しかない。
彼女は別に何かを見たくて前を向いているわけではないことを理解する。
「――どうして急に、乗り越えたいって言い出したの?」
それは彼女にとって面と向かって言えないことだったのだろうか。
倣うように私も前を見続ける。
……途端に雨の音が消えて無くなった。
『過去を乗り越えたい』
陽菜にその決意を伝えたのは最後に愛海と遊んだ日の翌日だった。
突然そう言われ、陽菜がそんな疑問を抱いたのは当然のことだと思う。
掃除していたことが陽菜に発覚されても、自分がおかしいとわかっていても、今まで何も行動しなかった私が突然そんなことを言い出したのだ。
……何かあったのかと思われても仕方がない。
「……」
どう言えばいいのか、わからない。
口に出すか迷っているのではなく、答えることができない。
勝手にそれを言うのは相手にとって失礼だ。
だから……少しだけ考えて口に出す。
「――向き合いたい人がいるの」
今はまだ、そんな答え方しかできない。
それは誰なの?
そんな質問をされれば言えないと答えるしかなかった。相手の名前を口にすればそれがどういう意味なのかを話さなければならない。
愛海の顔が浮かぶ。
気が強くて。負けず嫌いで。こだわりが強くて。
私を真っ直ぐに見てくれる優しいあの子の顔。
まだ口に出していない彼女の気持ちを今ここで勝手に出すことは絶対にできない。
「……」
「……」
少しの沈黙が流れ、気まずくなってしまった私は陽菜から向けられるかもしれない追求と視線を避ける為に俯むいた。視線の中心に水気を帯びて色が濃くなった自分のサンダルが見える。
視界の端で、陽菜がこっちに顔を向けたのを感じた。
どうしようか。そう思った瞬間「わかった」と納得する声が耳に届き、思わず彼女の方を見上げる。
「大丈夫。それが誰か言えなくても何も言わないよ」
いつも通りの声。
「頑張ろうね。その人の為にも」
アタシもちゃんとバックアップするからさと、そうしていつも通りの笑顔を向けてくれる。
「……うん。ありがとう」
「だからさ、綾……もうごめんねなんて言わないでよ」
さっき待ち合わせた場所に着いたとき、そう言ってしまったことを思い返す。
「この際だから言っとくけど――」と、真っ直ぐに私の目を見つめたまま陽菜は続ける。
「――アタシは義務だとか罪の意識でこうしているわけじゃないんだ。綾の隣にいたいからここにいるんだよ」
「え?」と、雨を横にする彼女を見る。
彼女の横で透明の水の線が刺すように落ちて行く。
「――綾が大切なんだ」
音を立てない、静かな恵みの中で彼女だけの声が反響する。
「……」
一瞬の間の後、彼女の口から放たれた言葉の意味を理解して、驚く。
「えっ……それって……」
私の動揺を見た陽菜は「あっ」と、思い出したような顔をした後、ボッと、ストーブのスイッチを入れたように顔を赤くして否定する。
「あーいやいやいや! 違う違う! 愛の告白じゃない! そうじゃない!」
「え、そ、そうなの?」
「違う違う! いや、その……愛の告白じゃなくて! その、友情の告白っていうのかな?」
「ゆ、友情の告白?」
「あー! 違う! いや合ってる! なんていうかその――ああ! えっと! 家族と同じくらい大切な友達ってこと!
「そ、そうなんだ」
「そうそう! とにかくそういうことであってラブじゃない! ライクライク!」
「ライクなんだ……」
びっくりした。
思わずライクってあっちの意味じゃないよねとスマホで確認したくなる。
「だとしても、ちょっと恥ずかしいかな」
陽菜のおかげで顔が熱くなってきた。これが愛海だったらもっと大変なことになっていたかもしれない。
「確かに恥ずかしいっていうか、なんていうかそういう状況であることは間違いないね」
アハハと笑う陽菜。恥ずかしくて顔を逸らしたくなる。
「――とにかく!」っと、恥ずかしさを吹き飛ばすように彼女は声を出す。周囲に人がいない場所で良かったと思った(おそらく陽菜も後でそう思うだろう)
「そういうわけだから。無理して付き合ってなんかないから」
こんな中で勇気を出す彼女も愛海と同じくらい凄い。
「もう後悔したくないから。アタシはここにいるんだ」
綾の隣に立ってるんだよと、照れながらも真剣な顔を見せる。
それに「わかった」と今度はすぐに返事した。
「これからも隣で見守らせてよ」
互いに落ち着きを取り戻す。
そして私なんかの為に一生懸命に言ってくれた彼女に応えなければと思った。
「頼りまくっちゃうよ?」
いい? と彼女に尋ねる。しっかり気持ちをぶつけてくれた彼女に誠意を込めて、彼女の目をしっかりと見て今後のわがままをお願いする。
「どんとこい。最後まで付き合うよ」
強い口調でずっと一緒だと強い意志を表してくれた。
「これからもよろしくお願いします」
そう小さく頭を下げ、彼女に頼ることを私も決意する。
そんな私を見て陽菜はホッとした顔をすると「はぁー汗かいたぁー」と呟く。
「私も結構暑くなっちゃった」
「見た感じ全然涼しそうだけど?」
「そんなことないってば」
そうして消えていた雨音がまた姿を現す。
今度は会話が途絶え、暗黙の了解で互いに口を動かさずにしばらく雨を眺めていた。
どれぐらいそうしていたのかはわからない。
しばらくして「あら?」っと言った陽菜が屋根の外に手を差し出す。
「急に止んだ?」
「――ホントだね」と同じように空を見上げる。
蛇口の栓を止めたようにパッと細い雨はその姿を消した。
チャンスだと駅の方に向かって二人で歩いていくと、遠くの空で僅かな青を見つけた。
「見て。あんなの初めて見た」
指差した先を見た陽菜が「おおーなんか凄い」と言いながらスマホを取り出す。
雲に覆われていた空に丸い青が覗いていた。
まるで棒でも刺したかのようにぽっかりと見せる黒い雲の中にある青。
あそこから……少しずつ青が広がっていくのだろうかと、そう思わせるような景色。
陽菜と一緒に見上げた青は数年振りのような気がする。
パシャリと写メを撮る音が響いたと同時に清涼を持つ風が一瞬だけ流れてくる。
鼻腔をくすぐったそれは僅かに心を弾ませる。
風の中に、雨の匂いに混じって秋の色を感じ取ったからだろうか。
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