第1話(綾編)


 夢を見た。

 誰も、何もない静かな海の中で一人浮かんでいる夢。

 イルカのように青く染まった体。でもイルカのように泳ぐことはせず、ふわふわと水の中を漂う。底に落ちることも浮き上がることもなく、水面に映る光と向かい合うようにしている。

 キラキラと蠢く光の中で青だけが海の中で拡散されている。水はそれ以外の色を全てのみ込むだけでは飽き足らず、私の耳から泡の音をも消し去って静寂を流す。奪うばかりの水が与えてくれるのは、この中を漂うことを許す軽さだけだった。

 夢という箱に内包された水の世界は息苦しさを微塵も感じさせない。

 コポリ、コポリと口から吐き出された泡が真っ直ぐに水面へと進んで行くのをなんの恐怖もないままに見送る。

 指先すらも動かさない体は水に押されることでようやく動いた。水面を見上げながら、ゆっくりと流されていく熱のない、空っぽの青い体。

 そんなもので水の心地良さなんてものは当然得られるわけもなく、こうしていることで感じられるものは自分の姿だった。

 流れはこうして人に戒めるのだとようやく理解する。

 動かない。動こうとしない自分を見つめさせ、過ちと失っているものに気づかせる。

 夢の中なのに。夢だと自覚はあるのに。現実のように思えてしまう緩慢な流れの中、ただ自分の醜さだけを感じさせる。

 動かない人、向き合うことのできない人はずっとそれを見続ける。

 こうして、ずっと水の中にいる。

 私は――。



 日曜の午前10時。駅のホームから空を仰いでいる。

 一面に広がる空の青がいつもより力強くその存在を放つ。太陽は邪魔をしないように小さく輝き、雲は控え目に脇に浮かんでいる。ふたつとも今日の空の主役は青なのだと、見上げる人達に示していた。

 ――綺麗だな。

 そう意識した瞬間に風を感じる。ホームを横切るようにして静かに吹き抜けたそれは、僅かに夏より先の匂いと感触を含んでいるものだった。

 風の心地良さ。空の青さ。その両方から活力を貰っている。絶好のお出かけ日和。

 こんな青空の下を歩くのは久々だった。

 以前はいつだったか記憶にない。陽菜と私がまだ同じくらいの身長のときだったような、そんな昔だったような気がする。

 あの頃はこんな空を大事にしていた。少しでも長くあの青に触れていたくて、自分から陽菜や他の女の子を誘っては遊びに行っていた。近所の公園だったり山だったり、目的地はいつもバラバラ。お金なんてなくてもそのときそのときで楽しいことを見つけては笑い合って過ごしていた。習い事や勉強もそれなりにしていたけれど、それ以上によく遊んでは青い空を見上げていた。

 一日は一瞬だと思えてしまうほどにあっという間だった。すぐに消えて、また次がやってきてもまた一瞬で終わる。早くて、季節はすぐに一周して始まりの春を見せていた。

 家族が一人いなくなってから、それが急激に変化した。

 時間がひどく緩慢に流れるようになった。見える毎日は録画したテレビドラマをスローで再生しているかのようにゆっくりと進む。

 異常な長さに驚き、戸惑い……恐怖を抱いた。

 どうすればいいのかわからなくて、動かなくなった。

 そうしていたせいであの青を求めることもしなくなった。

 空を見上げてその存在に気づくことはあっても、それに触れようともせず、あの黒い家の中でボンヤリと見上げているだけで終わらせていた。

 一人でも見上げようと外に出ていたあの頃の私は影もなく、一人で外に出ることを抵抗する今の私だけしかいない。

 あの頃の私はもう死んでしまったのだと思う。

 外には嫌なものがたくさんある。

 いろんな形となって至る所へ張り付いている。

 目にしてしまうとそれはまとわりついて不快にさせる。

 取り乱したりすることはないけれど、酷く疲れてしまうせいか一人では出掛けようとは思わない。

 気にならなくなるのは今日みたいに友達と遊ぶときだけ。

 そうしているときだけ目に入らなくなるし、たとえ見てしまったとしてもそこまで気にならない。陽菜やこれから会う彼女と一緒にいるときだけは長い一日を感じないでいられる。

 まだ一人だから悪い考えばかりが浮かんでしまう。

 けど、彼女と会えば大丈夫。

 楽しく過ごせる。

 だから今日を大事にしようと心掛ける。

 今日は大切な友達と街へ遊びに行く日だ。



 待ち合わせ場所へと向かう為に駅のホームで電車を待つ。彼女と会うまでは一人だけど、歩いた先に待っている人がいれば、それまでの道も苦ではない。

 アナウンスの後に滑り込んできた電車に乗り、座席には座らず開かない方の扉側へと移動する。車内を見渡してみると、乗客は自分も含めて10人もいなかった。

 ホーム側の扉が閉まり、列車がホームから離れていく。座席側にはもたれかからないように気を付けながら、扉の窓から外を眺めた。

 住宅街を流してから広い河川敷へと差し掛かると、キラキラと輝く河面が見える。やけに眩しく感じたそれは見上げた空よりも輝いているせいか、河の中に太陽が入っているように思えた。今日の空の主役が青なのでふてくされてそこへ逃げ込んでしまったのかもしれない。

 9月を迎えてまだ半月しか経っていないのに河川敷ではこの時刻から既にランナーがいる。今日は偶々そんな日なのか、女性ランナーの方が多く目につく。被っている帽子から束ねた髪が左右に揺れていた。

 車内に響いたアナウンスに耳を傾けると、数時間前に発生したトラブルの影響で遅延が発生しているとのことだった。スマホの時計を確認しながら、改札を通った際に見上げた電光掲示板にはそんなことは表示されていなかったことを思い返す。

 でも大丈夫。待ち合わせ場所は3つ目の駅だ。このままいけば約束の時間よりも5分早く着く。遅れることはないと思う。

 おそらく彼女はもう待ち合わせ場所に着いている。

 鏡を手にこれで何度目になるのかわからない最終確認をしている彼女の姿が自然と頭の中に浮かんでくる。

 それを思うと不思議と頬が緩んだ。

 河川敷を通過して、立ち並ぶ住宅街を抜けると一つ目の駅に着いた。車内の乗客は誰も降りない。ホームにいた乗客が車内へ入るとみんな椅子の方へと向かっていき、車内の席の8割が埋まる。扉が閉まると静かだった車内に乗客の声が回り始めた。

 電車がホームから離れると、住宅よりもビルを多く目にするようになった。ボンヤリと流れていくビルや家の屋根を見ていると乗客の声が耳に入ってくる。ふと気になって、声のする方を向くと中学生っぽい女の子達を捉えた。

 その内の一人と目が合う。

 どうやら私のことを見ていたようだ。

 隣にいた女の子もそうだったのか、二人揃って慌てて顔を逸らす。

 なんだろう?

 なんとなく、私に向けられた声であることは感じ取れた。私を見て何か話をしていたみたいだけど、何かおかしなところでもあるのだろうか?

 ……まあいいか。

 大して気にしなかった。こういう隠れているのかいないのかよくわからない人達は昔からよく目にする。トラブルは嫌だから問い質すつもりもないし、どうでもいい。教室でも外でも、こういうのはいくらでもいる。気づいても気にしない方がいい。

 それよりも……視界の端に映ってしまった親子の方を気にしてしまう。

 女の子とお母さんの二人。

 見るだけで心がザワザワする。でもこれ以上見なければいいだけだと、親子から目を逸らしてスマホをいじる。可愛い動物の動画でも探すことにした。

 けどこれも観た、あれも観た、それも観たでなかなか新しい動画が見つからない。だいぶ観過ぎてしまったせいで探すのに苦労する。

 ようやく観たことのない動画を見つけた。子供パンダが飼育員の足にしがみついて離れない動画だった。可愛すぎて笑みが出そうになったけど我慢して動画を閉じる。後で彼女に見せるまでとっておくことにした。絶対彼女も喜んでくれるからそのときに一緒に笑おう。その方がきっともっと笑える。

 二つ目の駅へと辿り着く。ホームには結構な人だかりがあったけど、乗り込んだ乗客はそこまでの数じゃなかった。席が全部埋まり、立っている人が多くなったけど私の周囲にはまだまだ余裕がある。

 次の駅だ。

 おそらく乗客の9割の人が次で降りる。次の駅までは5分もかからないので、私も最終確認と前髪を確認する。うん、大丈夫。

 アナウンスが次の駅名を告げると、ホーム側の扉へ近づく人がチラホラと出て来る。最後に出たいので、動かず同じ位置で周囲の動きを見ていた。

 降車するホームへ辿り着くと、遅延の影響のせいかホームにはたくさんの人だかりができていた。私達が降りた後、出て行った数以上の人が乗車するのが一目でわかる。車内はすし詰め状態になりそうだ。

 乗車してからずっといた場所から一歩離れる。最後にもう一度後ろを振り返って窓の外を見上げた。ビルと住宅が乱雑している中で、ひと際強い青を見る。人工物が前を遮っていても、やはりその色は目を引くほどに青く。主役の力強さを見せつけていた。

 プシューっと音を出してドアが開いたので前を向いて降車する人達に続く。私がホームへ降りた後、ホームにいた人たちが入れ替わって乗車し、我先にと席を取っていた。

 人が多いせいかホームが暑い。淀んだ空気にみんなウンザリしたような顔をしている。誰にも好まれないこの空気から逃れるように、私よりも先に降りた人達は早歩きで階段かエスカレーターへ向かって行く。

 人の列に加わり、エスカレーターをゆっくりと昇っていく途中で鈴の音が鳴った。

 二つ前の人が鳴らしたのだろうか。チリンとまた揺らしたそれは雑音の中でも良く響く。

 なんだろうと思っていたその答えはエスカレーターを登り切った後にわかった。

 小さな女の子が背負っているリュックにつけた鈴。

 女の子の隣を歩く母親がつけたのだろう。さっき車内で見かけたのとはまた別の親子だった。

 楽しそうにして、手を繋いでいる。

 それを見て、また胸に嫌な痛みを感じた。

 それだけで終わればよかったのに。

 棘が刺さったように痛みは離れない。一瞬だけの痛みで終わらせないぞと主張するように、小さく疼く。

「……」

 不快なそれを意識しないように、少しだけ目を閉じて小さく息を吐く。あと少しだからと、目を開けた私は改札口まで足を急がせた。

 彼女が待ってる。こんな気持ちじゃダメだ。

 今日これから一緒に遊ぶ彼女とは今年の夏前に知り合った。小柄で大人しそうな見た目だけど、実は気が強い。

 そんな彼女と二人きりで遊ぶのは今日で二回目。

 改札を抜けるとすぐに彼女を見つけ、ホッとする。以前二人きりで遊んだときも彼女は私よりも早く待ち合わせ場所へ来ていた。

 壁にもたれかかる彼女。スマホを覗きながら髪をいじっている。

 じっと見つめながら、彼女に向かって足を動かす。いつ気づくかなと思っていると視線を感じ取ったのか、早いうちに彼女の顔がこちらへ向く。

 少しの距離を間にして目が合う。

 彼女が――私を見つける。

 花が開いたように嬉しそうな顔をしてくれる。

 少し前までは隠すようにしていたそれを、今は少しも隠すことなく向けてくる。

 

 恋をする――女の顔。


 でも彼女の持つそれは私が見てきたものとは違っている。

 私をこんな風にしたあの女が持っていたものとは……全然違っている。

 まだ全てが視えているわけではないけれど……でも不思議と嫌な気持ちにはさせない。

 いつか……彼女はその全てを私に見せてくれる。

 そのときが来る日はそんなに遠くないと思えた。

 確実に彼女は私へと向かって来ている。

 最近になってその距離が近く感じてきたせいか、こんなことを考えるようになった。


 全てが視えたら私はどうなるのだろうかと。


 真っ直ぐに向かってくる彼女と向かい合うことで私は変われるのだろうか。

 水の中を揺蕩たゆたうことをやめて、自力で泳いで、あの海から出られるように――。


あや―」


 彼女の声が通る。行き交う雑踏の中、周囲の音に搔き消されることもなく私の元へと届く。ここだよと小さく手を振ってくれるから私も手を振り返す。

「おはよ。愛海まなみ

「おっはよー。今日は絶好のお出かけ日和だね」

 彼女の前に立つと、私だけのために笑顔を向けてくれる。

 その表情に不自然さはもうカケラもない。

 少し前までは気持ちが悟られることの恐怖や恥ずかしさが邪魔をしてできなかったそれを、今は揺れることなく真っ直ぐに私へと向けてくる。

 逃げずに、正面からぶつかって来ている。

 そうした彼女の姿勢がサッと私の中の棘を抜く。

 胸の中がフワッと浮いたような心地良さを感じた。

 自分の心に形があるとすれば、おそらく羽の形をしている。

 そう思えてしまうぐらいに今は軽く、そして温かい。


 彼女は――私の友達。


 私に恋をしている友達。

 いつか私に好きだと告白する女の子。

 今日はこれからそんな彼女と二人きりで遊びに行く。


 今の気持ちは――あの青に触れているときのように弾んでいる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る