STAGE13

「あなたが、すきです」


 誰もいない自分の部屋で、クリスはそっと呟いてみる。


「あなたが、好きです」

 運命から逃げない彼が。

 逃げもせず、責めもせず、投げ出しもせず、微笑むことの出来る彼が。

 だれよりも大切で、

 なにに代えても護りたくて、

 ――どうしようもなく、好きだ。

 恋なんていらないと思った。本当は今でも思っている。それでも、どのように呼ぶ想いでも、これだけは真実。

 左手の指を唇に寄せる。最後にふれられた場所。あのとき言えなかった言葉。

「好き」

 欲しいものは、だから――

 目を閉じて、目を開く。

 そう。

 ひとつだけ。


 遠くで自分を呼ぶ声がある。クリスはかぶりを振って立ち上がると、長い衣装の裾を持ち上げて、足早に扉へ向かった。




 その宵、スタイン公爵邸の大広間はかつてない数の着飾った男女で埋まっていた。あまりの人の多さに、むっとした熱気すらたちこめている。フェデリア中の、夜会に出られる身分の人物がすべて集まったのではないか――某男爵が苦笑とともに言った軽口は、あながち誇張とも言い切れなさそうだった。

 彼らの目当てはひとつだ。クリスタル=リーベル=スタイン、フェデリア騎士隊の紅一点。かの有名な女騎士が白珠の巫女の守護騎士となり、王都のはずれの巫女殿に居を移してからはや半年が経った。華美を好まないと伝えられる巫女ともども、こうした夜会の席に顔を見せなくなって久しいクリスの誕生祝賀、しかも今日は婚約発表があるとのもっぱらの噂である。もうひとつの、こちらはかなり疑い混じりに囁かれている噂も手伝って、始まる前から会場は興奮したざわめきに満たされていた。

「今宵は、私の娘クリスタル=リーベルの誕生祝いにこのように大勢お集まりいただき、恐縮にございます」

 楽の音がやみ、主賓席の隣で立ち上がった人物に、列席者の視線が集中した。スタイン公爵家当主チャールズ=グレン国務卿。かれこれ十数年フェデリアの中枢で政務に関わり続けている有能な大臣も、しかし今晩は脇役に過ぎぬことを列席者も当人もよく知っている。

 その、待ちわびられている主役に用意された席は、いまは空席になっている。貴族の子女の誕生祝いの会では、主役は当主の挨拶が始まってから姿を現すのがこの国の通例だ。

「それでは、娘より皆様にご挨拶申し上げます」

 国務卿の台詞に会場がどよめき、そして視線がひとつの扉に集中した。

 広間を見下ろすように作られた二階のバルコニーで、数え切れぬ視線を浴びた扉が、重々しく開いた。国務卿の妻女マリアティーザ=フィアにともなわれ、青いドレスの女性がゆっくりと歩み出てくる。

 広間は水を打ったようにしんと静まり返った。

 誰もが言葉もなく今夜の主役を見つめる。

 長い睫毛のふちどる、湖水を思わせる澄んだ碧眼と、陽光のような豊かな黄金の髪。クリス=スタインの美貌は、以前から誰もが認めるところのものだ。しかしその美しさは初夏の若葉のそれであり、女らしいというよりはむしろ少年のような、恋に恋する乙女が夢見るような美貌であると――それがこの女騎士を語る一般的な言葉であった。

 だが今宵、スタイン邸の広間に現れたのは、それとは別人の乙女であった。いつもは無造作に束ねるだけの髪を優美な形に結い上げ、唇に紅を刷き、細身の肢体を強調するドレスを身にまとい。この三年、一度たりと見られることのなかったクリスタル=リーベル=スタインの女性らしい装いは、会場中のため息を誘った。

 ――なんと、美しい。

 それがそこに居合わせた人々の、共通した胸のうちであったろう。

 髪を飾る花や、ほそい首と腕に巻いた銀と宝石の細工も、瞳の色に合わせた青いドレスの意匠も、同年代の少女たちに比べて特に華やかなものではない。だがその簡素さすらも、美貌を損なうどころかクリスタル自身の気品ある美しさをいっそう際立たせるものでしかなかった。

 沈黙の中、クリスは膝をかがめて礼をとると、落ち着いた足取りで広い階段を降りはじめた。すべるような動きにあわせてしゃらしゃらと、手首で銀細工の菫がかすかな音をたてる。

「……みなさま」

 広間から二段分だけ高く作られた小さな踊り場で父親に右手を預け、クリスはもう一度軽く会釈をした。

「今宵はわたくしクリスタル=リーベル=スタインのためにお集まりいただき、恐縮に存じます」

 その声音――その表情。それは、常のクリスを見知る者には衝撃的とすら言えた。いつもまっすぐに人を見つめる眼には憂い含みに黄金の睫毛の紗がかかり、闊達に喋りよく笑う唇からはほそくやわらかな声がおだやかにつむがれる。

「十八の歳をこのような大勢の皆様に祝っていただき、身に余る幸せに言葉もございません。ささやかな会ではありますが、どうか今宵はお楽しみくださいませ」

 ドレスの裾を軽く持ち上げ、膝を曲げ頭を垂れる。礼儀作法の手本のように完璧な淑女の所作で、クリスはゆっくりと礼をとった。一夜にして若木が百合の花へ変わったかのような変貌ぶりに、男も女もみな動くのも忘れて見惚れた。

 あまりに長い、不自然なほどの静けさに、顔を上げたクリスが戸惑うように視線をさまよわせた。ぱちぱちと瞬きをして、照れたように笑む。――それが魔法を解く呪文だった。どこからともなく拍手が沸き起こり、祝賀の声が広間に満ち溢れた。



 とたんに賑やかになった大広間の、そこだけ人口密度の異様に高くなった階段下で、クリスはえんえんと続く祝辞にこっそりとため息をつく。顔も知らぬ青年貴族に握られたままの右手は、まだ当分戻ってきそうにもなかった。

「クリス」

 親しげに今夜の主役の愛称を呼ぶ声に、邪魔をされた青年が顔をしかめて振り返った。右肩の後ろで、式典用の礼服をまとった若草の瞳の騎士がひらひらと手を振って、クリスに笑いかける。

 友人の姿にクリスが破顔し、青年貴族は相手が悪いと肩をすくめてひきさがった。

「エディ。来てくれたの」

「そりゃあね。誕生日おめでとう、クリス。とても綺麗だ」

「ありがとうございます、ウォリスタ伯」

 手袋に包まれた指先への口づけを受けながら、澄まし顔でクリスは友人の称号を口にする。実家の広大な領地の一部ウォリスタを預かる、カートネル家の三男坊は、ウィンクをひとつよこすと笑みはそのまま、潜めた声で囁いた。

「その格好。もう戻らない気かい、クリス」

「……うん。たぶん、そうなるかな」

 クリスは目を伏せて微笑む。先刻の再現のような、美貌の際立つ憂い顔に、エドマンドはほんの少し目をそらした。鼻の頭と耳が赤い。

「いいのかい」

 ほとんど声を出さずに呟かれた問いに、クリスもまた唇だけで応じる。

「無事なら。それで」

 親身になってくれた友人に、伝えたいことは山ほどある。だがこの賑やかな会場で、口に出来るのはそれぐらいだった。

 欲しいものは、大切な人を護るちから。

 欲しいものは、自分を好きと言ってくれた人に恥じない自分。

 目をそらすのでも、諦めるのでもなく。逃げないために選んだのだと――きっと、いつか伝える機会もあるだろう。

「……そっか」

 複雑な顔で頷くと、エドマンドは二歩ほど離れて立つクリスの父親に一変して明るく声をかけた。

「お久しぶりです、グレン卿。盛大な会ですね。十年は語り草になりそうだ」

「おお、エディ君か。お母上のお加減はいかがだね」

「最近は暖かいですから、ずいぶんいいみたいです。今日も来たがっていたんですが。皆様によろしくと」

 フェデリアの重鎮中の重鎮と気さくに言葉を交わすこの人懐こい友人――エドマンド=ウィリアム=カートネルは、現宰相の父親とフェデリア国軍中隊長の長兄を持つ、押しも押されぬ名家の令息である。スタイン家ともつきあいは古く、クリスが騎士隊入りしてからは特に両家の交流は深い。その昔チャールズ=グレン=スタインの憧れの人だったと噂のある、カートネルの奥方に良く似たこの茶色の髪の青年を、国務卿はいたく気に入っているらしかった。

「ところでグレン卿?」

「ん?」

「今日、クリスの婚約発表があると噂で聞いたんですが。本当ですか?」

 単刀直入な問いに、周囲がぴしりと凍りついた。

 対照的にゆったりと、見ようによっては面白がっているような笑みを唇に乗せて、国務卿は青年を見やる。

「噂か。どこで聞いたのかね」

「どこもなにも。このひと月、そこらじゅうで一番の話題でしたよ。クリスが突然家に戻ったのも、婚約の準備にちがいないと」

「ほう。どこから出た話なのだろうな」

 その返答にエドマンドはおやという顔をした。

「では、根も葉もない噂なのですか?」

「当たり前だよエディ」

 先ほどから豆鉄砲を食らった鳩の顔で父と友人の会話を聞いていたクリスが、やっと我に返って割り込んだ。驚きすぎて口調が完全に素に戻っている。

「婚約なんてそんな馬鹿な話、いったい誰が話してるの。しないよ、そんなもの」

「……そうなんだ? じゃあ、あちらのほうもただの噂かな。……クリスタル」

 思案顔で呟くと、エドマンドは騎士隊流儀の礼をクリスに向けて取った。

 瞬きをするクリスに、顔を上げて片手を差し伸べる。

「踊っていただけますか?」

 気づけば楽の音は軽快な舞踏曲に変わっている。広間の中央のほうでは、すでに何組もの男女が手を取り合ってステップを踏んでいた。

「あ、……はい」

 この友人らしからぬ不自然な会話の流れに、内心で首を傾げつつクリスはその手に自分の手を重ねようとする。

 だがとたんに沸き起こったどよめきがクリスの手を止めさせた。

「……え? なに?」

 誕生日の祝いで、主役の最初のダンスの相手は確かに注目の的だ。だが、家格もひけを取らず個人的なつきあいも深いエドマンドが相手ということに、これほどに騒がれるわけがクリスには思いあたらない。

「こう驚かれると傷つくな。そんなに意外だろうか」

 突然の喧騒にもまったく驚いていない顔で、エドマンドはおどけたように笑う。

「噂ではね。きみが最初にダンスの手を取った人物が、件の婚約者殿なんだそうだよ」

「――そんなの、知らない」

「そうみたいだね。どうする? それでも僕と踊ってくれるかい?」

「…………」

 困惑の表情でクリスはあたりを見渡した。エドマンドに向けられた嫉妬と羨望の眼差し、いまだ宙に浮いたクリスの右手を注視する好奇心に満ちた顔。いまここで誤解ですと言っても、とうてい納得されそうもない雰囲気だ。

「……ごめん。やめておく」

「残念だけど、そのほうが良さそうだね。見なよ男どもの嫉妬の目つき。誤解で殺されちゃかなわない」

 ことさらに軽い口調は、クリスの気を楽にするためでもあるのだろう。胸のうちで友人に感謝して、クリスは右手を軽く握って胸許へ戻す。同時かそれより早いくらいに左手を戻したエドマンドが、にこりと笑って一歩下がった。

「ほかの皆さんも挨拶したがってるみたいだから、僕はこれで。グレン卿、失礼いたします」

 もう一度身についた優雅さで礼をして、エドマンドは踵を返した。見ていると広間の別の一角で、どこだかの伯爵令嬢と談笑を始めている。そのうち彼女の手を取って、広間に歩み出た。その様子に、どうやら彼は「噂の婚約者」ではないらしいと見定めた列席者らも各々のお喋りに意識を戻したようだった。

 クリスはやっと肩の力を抜く。本当にエドマンドには助けられていると、あらためて申し訳なく思っていたところに、父親のぼそりとした呟きが耳に入った。

「婚約発表なら、するぞ」

 クリスは眼を見張った。勢いよく振り返りかけた身体を必死で自制する。父親がほかの誰にも届かぬ声で言っているものを、大仰な反応で周囲の目を惹いていい場面ではない。

「……どういう、ことです」

 笑みをはりつけた顔の下、押し殺した声で低く問う。

「言葉のとおりだ。会の終わりに発表する」

「聞いていません」

「言う必要があるのか?」

 理性を総動員して、クリスは表情がこわばるのを耐えた。そうだ、確かに言う必要はない。親が定めた相手と結婚するのが、貴族の娘のあたりまえの道だ。娘の意向を尊重するかどうかは親の勝手であって、娘のほうから求めうるものではない。それでも、自分の親が――それなりに信頼していた両親が、自分にまったく諮らずにことを進めていたことがクリスにはショックだった。

「わかり、ました」

 歯を食いしばって答えたクリスに、国務卿がわずかに表情を変えた。

「……嫌ならば自分で決めろ」

 さらに低く言われた言葉の意味を、理解するにはしばらくの時間が必要だった。

 自分で決めろ? 婚約発表の席まで用意しておいて?

 不意に解答がひらめく。

(あの噂――父上か)

 最初のダンスの相手が婚約者だという、あのばかばかしい噂。

 おそらくは婚約発表の噂ともども、出所はチャールズ=グレン=スタイン国務卿その人だ。

 婚約などしない、と言ったクリスの言葉を、鵜呑みにした人間はおそらくこの場にはいないだろう。エドマンドが断られたことでなんとなく遠巻きになっていたクリスを囲む輪は、すでにかなり縮まりはじめている。このあともクリスの許には、我こそはと一縷の望みをかけた男性のダンスの申し込みが殺到するに違いなかった。

 その中から選べと――そういうことだ。

 あまりにも突然だし、名家スタイン家当主としては大胆にすぎるやり口だが、人形にならずに済むチャンスを父親はくれたのだろう。

 けれど――

(選べるわけ、ない)

 誰だっておなじだ。

 クリスの心がすでにえらんでいる、たったひとりではないのだから。

 だから選ばないことが、クリスの選択だ。そうすれば父親は、最もスタインの娘に相応しい人物をクリスの相手に定めるだろう。それでいい。

 己の運命を受け入れて生きると決めたのだから。

 一晩ダンスをしなくて済むのは、楽でいいかもしれない。そう結論づけると、クリスはにこやかに微笑んで新たな相手の挨拶に応じた。

 自分の心があげつづける悲鳴には、聞こえないふりをした。

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