STAGE11

 少女は狭く暗い室内の、わずかな家具である椅子に深く腰掛け、身じろぎもせずに壁を見つめていた。

 がしゃりと錠をおろす音にも見向きもしない。

「アナイア」

 呼ばれて初めて反応した。訝しげに首だけを巡らす。名を呼ばれたことよりも、その声音の記憶に疑問を覚えた顔だった。

 そして瞠目する。

「……騎士様」

「やあ」

 私服姿のクリス=スタインは唇に笑みをのせて、それに応えた。


 白珠の巫女殿のもと女官、アナイア=ディスカスが騎士隊舎の拘束房へと連行されてから、すでに十日が経っている。

 少女はここでも首謀者の名を明かすことを頑なに拒みつづけていた。

「どうしてこちらに……お役目は?」

 躊躇いがちにアナイアが訊ねた。

「ちょっとね。君がどうしても話してくれないと泣きつかれて」

「…………」

 おどけて言うクリスに、どんな表情をすればいいかわからない、という様子でアナイアは黙り込む。

 そのまま続いた沈黙を破ったのは、独り言とも取れるクリスの低い呟きだった。

「――恋、を」

 脈絡のない言葉にアナイアは瞬きをする。

「恋をしたことはないのかと。訊いたね」

「……はい」

「恋とは呼ばないと思う。でもたぶん、護りたい気持ちなら同じなんだ」

「……え……?」

 戸惑うアナイアに構わず、腕に抱えた上着を無造作に小卓に置いてクリスは薄汚れた床に膝をついた。

 仕立ての良い生地に包まれた膝が、白くしなやかな指先が、――そして肩から滑り落ちた蜜色の髪が埃に汚れる。

 アナイアの足もとに、深く、クリスは額づいた。

「クリス様……!」

 怯えたようにアナイアが叫び、椅子を立って逃げる。

 それに構う様子もなく、クリスは落ち着いた声音で言葉をつむいだ。

「どうか、お願いする。貴方の庇っている男の名を教えて欲しい」

「やめて、――やめてください」

 懇願する声にクリスは目線だけを上げた。そして微笑む。

「これくらいしか私に出来ることはないから」

「クリス様……どうして、そんな。私なんかに」

「君が誰かを想うように、私は巫女様をお護りしたい。それだけ。恋と呼ばなくても、同じくらいに私にはあのかたが大切なんだと、そう、君にはわかってもらいたくて」

「そんな、……卑怯です……!」

 必死の叫びに、クリスはいっそう笑みを深くした。

「わかってる。卑怯な脅迫だ」

「――――」

 アナイアは息を呑んだ。

 瞬きすら忘れたように、再び頭を垂れたクリスを凝視するその両の目から、やがて涙がこぼれて床を濡らした。

 祈るように、少女は涙の止まらない目を閉じた。

 そして、クリスに向かい合うように跪く。

「どうか……極刑だけは。私はどうなっても構いませんから――それだけは、どうか、お願いします」

「……アナイア」

「名を。お教えします」

 消え入るような声でそう伝えた少女のほそい指先に、まるで王侯にするように恭しくクリスは口づけた。

「――ありがとう。一生、感謝する」

 湖色の瞳が濡れて輝いていた。



「……誰だって?」

 立て付けの悪い扉を開いたとたん、腕を組んで壁にもたれていた友がそのままの姿勢で問うた。

 その耳もとに顔を寄せ、クリスはひとつの名を囁いた。茶色の髪の友人は表情を硬くして頷く。

「わかった。すぐ手配する」

「お願い」

 早足に歩き出そうとしたエドマンドはふと、足を止めてクリスの横顔を見やった。視線に気づいてクリスが、なに、と言いたげに片眉を上げた。

「――『恋とは呼ばなくても』?」

「聞いてたの」

 クリスの頬に朱が走る。

「聞こえたんだよ」

「だって――他にどう言えって?」

 拗ねるようにそっぽを向くクリスに、エドマンドは喉の奥で笑った。

「じゃあ、もう行くよ。首尾よく行くよう祈ってて」

「あ。――エドマンド」

「なに?」

「……ありがとう」

「どういたしまして。大切な親友のためだからね」

 屈託のない微笑みを投げて、それじゃと手を振るとエドマンドは廊下を駆け出した。




*


「それは、白の宝珠の巫女様が本当は男のかただっていうのと、関係あるのかい」

 その台詞にクリスが絶句したのが、一瞬。

 硬直が解けたあとの行動もまた、一瞬だった。

「……ああ。やっぱりそうなんだ」

 エドマンドはごく無表情に呟き、それから両の手をひらいて肩の高さまで持ち上げた。

 友の胸許に使い込まれた短剣の切っ先を突きつけたまま、ごく低くクリスは宣告する。

「誰かに話したら殺す」

 どこを探しても躊躇いの見当たらない己の心のありように、クリスは胸中で苦く嗤った。友を刃で脅すことに、傷つく誇りすらもはやない。

「誰に聞いた。どこで知ったの」

「……誰にも言ってないし、誰に聞いたわけでもないよ」

 無表情を変えずにエドマンドは答えた。

「僕が勝手に、もしかしたらと考えてただけ。さっきのはだから、ほんとは全然自信なかったんだ」

 驚愕にクリスは目を瞠る。

 かまをかけられたことに怒ってもよかったのだろうが、それよりもその台詞の内容のほうがクリスには重大事だった。

 事情を知るクリスが見ても、エアリアスの演技は常に完璧だった。あの偶然がなければ、きっと今でも真実を知ることはなかったはずだ。

 それを、たった半日接しただけのエドマンドに看破されるなど、あり得ていいことではない。

「どうして? 判るわけない。あんなに完璧だったのに」

 当然の問いに、だがエドマンドはふいに表情を崩した。伏せた睫毛の下で視線が泳ぐ。

「エディ?」

「たしかに完璧だったと――思うよ。きっと、ユーリグも他の奴らも全然気づいてやしない」

「だったらどうして。なんでエディだけ気づいたの」

「僕は」

 言いかけて、苦いものでも飲み込むように、エドマンドは不自然に言葉を切った。

「僕は、……僕だけ、傍にいたから。君を庇って巫女様が駆け出したときに。そこにいたのが僕だったから、だから気がついたんだ」

「なにが言いたいかわからない、エディ」

 要点の見えない台詞に、苛立ったクリスが声を荒げる。

「同じだったからだよ」

 視線が突然に、クリスにひたと据えられた。

 つねには悪戯っぽくきらめく若草の瞳が、いまは苛烈なほどの眼光をやどしている。

「巫女様のそのときの眼と。僕がいつも君を見ている眼が、同じだと判ったから」

 エドマンドは右腕を伸ばして、そのてのひらでクリスの頬に触れる。

「そして君も――」

 まるであわれむようなまなざし。

「君も同じ眼をしてた。あのかたに――白珠の巫女様に、恋してる眼」


(騎士様は、恋をなさったことはありませんの)


 短剣がクリスの手から落ち、石の床でかつんと跳ねた。



「……知らなかったろ? ずっと君が好きだったんだよ、クリス」

 クリスの頬から手を離し、身をかがめて短剣を拾い上げながら、エドマンドは横顔を見せて笑った。

「望みがないのわかってたから、言うつもりなかったけど。好きな子と恋敵をくっつけるためにばらすってのも、凄絶に僕らしく馬鹿だよね」

 短剣を小卓に載せるとクリスの肩を押し、なかば強引に寝台に掛けさせる。自分は寝台から半歩離れた壁際に椅子を動かして、壁に背を預けて座った。

「あのかたも君が好きだよ」

 断定する物言い。

「知ってた?」

 一瞬の間を置いて、クリスが頷いた。

「……うん。そう言われた」

「君もあのかたが好きだよ」

 再びの断定に、今度はクリスは眉を寄せる。

「違うかい?」

「……わからない」

「じゃあ、巫女様のそばにいたい?」

 覗きこむように、低い位置から視線を合わせてエドマンドは問う。

 答えは、考えるより前にするりと口をついた。

「――居たい」

 エドマンドがゆっくりと笑む。

「それならどうして、辞めてきちゃったのさ」

「……だって私じゃ駄目なんだ」

 クリスはぎゅっと、唇を噛みしめた。

「私だと、エアは私を護ろうとしてしまうから。あのままいたら――いつかきっと私のためにエアが怪我をする」

 暴れる馬。裂けた緋のマント。あのときの恐怖が忘れられない。あんな想いをまたするくらいなら。大切な大切なあの人をまた危険に近づけるくらいなら。

「それくらいならそばにいられないほうがいい――まだいい」

 立場だとか誇りだとか。そんなものの為に辞めたのではなかった。

 偽りの理由を告げてエアリアスを傷つけたことも、寄せられた想いをはねつけたことさえも、すべてただひとり彼の為だ。

「そうまでしてあのかたを護りたがる理由、クリスは自分でわかってる?」

「それは――」

 エアリアスが白珠の巫女だから。巫女の守護騎士たる己の、唯一の主人だから。――その答えを口にする前にクリスは矛盾を見つけた。それでは、辞任だけは決して出来ない。あるじとして騎士としてだけ存在するのならば。

「それは、私が」


(私は、貴方が好きだから)


「――私が、エアを、……好きだから」

 口にするのと同時に納得する。

 それが、本音だ。

 ただそれだけだったのだ。

「やっと言ったね」

 エドマンドがにっこりと微笑んで、クリスの髪をなでた。

「とりあえずしばらくは決定待ちの謹慎だろ。やっと自覚したみたいだし、その時間でいろいろ考えてみるんだね。ほんとにずっと離れていられるのかどうか、とかさ」

 今日はもう休むといいよ、そう言い置いて立ち上がったエドマンドを、クリスがちいさく呼び止めた。

「迷惑かけてばっかりで悪いんだけど……ひとつお願いがあるんだ」

 恋をしたことはないのかと問うた少女と、もう一度話してみたかった。




*


 その月の終わる頃、フェデリアの下級貴族の男がひとり、王都から消えた。

 数十年ぶりの王都追放令に、退屈な貴族たちはひとしきりあれこれと噂話の種にしたが、それもごく短い期間のことであった。

 ひと月と経たぬ間に浮上した新しい噂が、あっという間にその話題を駆逐してしまったのだ。


 曰く。

 月の末に開かれるスタイン家の夜会において、フェデリア騎士隊の華「白珠の騎士」クリスタル=リーベル=スタインの婚約者が発表される――と。

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