病棟の記憶
坂鳥翼
記憶
何か話せと言われても何を話せばいいのやら。せめて、僕に指標をくれませんか。
「君には必要ないだろうに。浮かんだ事柄を言葉で教えてくれればいいんだ」
白一色の無味乾燥な部屋で考えられることなんて、たかが知れている。
そういえば、随分と長らく外を知らないので昨日の天気を教えてくれると嬉しいのですが。
「今日ではなく何故、昨日に拘るのかな」
僕は季節と暦を取り上げられてしまったので。この部屋には時計すらないでしょう。今日が果たして本当に今日なのかすら知れないし、何秒後に明日が訪れるのかも分からない。だから今日や明日という概念が、さほど意味を為さない。いつだっていいんです。昨日でも、1年前でも、100年前でも。太陽は、変わらずに健在でしたか。
「昨日は一日中晴れていたよ。太陽は恨めしいほどに元気だったね」
それはよかった。つまり、まだ僕たちは生きていられるようだ。僕らは一方的に振り回されている。太陽が死ねば、僕らも最後の呼吸を受け入れるしかない。行先を先導されているだけの、弱い星だ。しかし、強すぎても命は生じなかった。弱いからこそ、この星は同じようにか弱い命を内包出来たのでしょう。
ずっと以前に優しい人と話をしました。僕はそこで、何かを抱える事の出来る人間の条件を知りました。強き人は抱えることを選ばずに、棄てることを選びがちだ。強いとは未練がない事を言うのだと思っています。何かを抱き締め続けるには、多少の弱さが必要なんですよ。至った結論の一つです。幸い、太陽が死のうが、僕らには到底関係のない時間軸の話ですからね。喜ばしいことです。僕らが安全に息を重ねている事を鑑みるに、月も未だに存命のようですから。
「月も変わらない姿のままだ。君はいつも、とてつもなく遥か先の未来を見つめているね」
いいえ、ただの想像です。空想は良い。その瞬間、僕たちは過去現在未来の何処にだって立てるのだから。月を失った地球は、どうなるか知っていますか。
引き合う力を失えば、地球の自転は速度を増して、住めるような環境ではなくなる。僕らを振り落とすんですよ。さながら月は、逸る星の手綱を引く騎手のようなものですね。呪縛から放たれた星は呆気なく僕らを置き去りにしてしまう。
先生がいつも履いている靴、綺麗なままですね。暫く雨が降っていないのですか。
「そうだね、私たちは雨雲を拝めていないよ」
そうですか。水が侵されていくというのは、さぞ心細いでしょう。
そうだ、罪の重さを考えろと言われました。質量を伴わない概念に、僕が押し潰される日を彼らは夢見ているのでしょうか。月が満ちた日は残念な報せが多い。月こそが罪の重さなのではないかと思ったんです。私一人の罪の重さには興味がありませんが、人類の罪を一つ処に集めたのなら、月の重さに匹敵するのかも知れないと、考えました。
久しぶりに雨に濡れてみたいものですね。
「雨は好きかい? 」
長雨で腐った花や草の匂いが実に懐かしい。ここまで綺麗に整頓された空気を吸っていると、たちまち心が毒されていくような心持ちです。やはり、現世の、混沌と清廉が同等の数だけ混じり合った空気の方が、僕の性には合っている。
掌に収まるほどの小動物はどうにも苦手だから。僕の一存で一思いに握り潰してしまえる矮小な身体が視界に入らずに済む。それだけが現世に立ち籠める空気と引き換えに得た恩恵かも知れません。
思いの外、退屈はしていません。0と言えば嘘になりますが。魂が麻痺していく過程を感じて気味が悪いのは本当です。
人の声を聞けたのは行幸でした。静寂が耳に障るんです。人というものは、他者と世界から発せられる雑音より、自分から生じる音に耳を塞ぎたくなるものですね。思っているよりも、この身体は五月蝿かった。
26年前に産声をあげたときから、初めて知ることが多すぎる。
あのとき確かに、病棟が呻いたんです。
望まれて産み落とされた。
変わらない結末のために。
人は皆、楽園からの落とし児です。僕は天国と地獄の存在を信じていますから。
定義、ですか。
人がいる場所か、そうでないかの違いではないでしょうか。あのとき何故、蛇は彼女を唆したのでしょう。思うに、楽園を完成させたかったように思えて仕方がないんです。人が立って息をするだけで、その場所は地獄へと成り果てる。人を追い出して初めて、楽園は完成するんですよ。人は自らが営む場所を地獄へと造り変える。人が立てば、其処には悲劇が始まる。焔から延ばされる悲鳴が聞こえますね。それを手繰れば罪に辿り着ける。人は罪ありきの生き物だ。特に驚きはしません。
我儘を言ってもいいのなら、外に出たいものです。そして色んな人間と会って、話をしたい。
僕は僕自身を空虚だと思ったことは一度もありません。以前、僕のことを空っぽだと形容しましたね。言う通りなのであれば、それを補い、埋めるために外へ出たい。
こんなつまらない空気なんて比べ物にならないほど、人の営みに塗れた酸素を吸って、錆びていきたいものです。
手首の錠は、僕には要りません。
危害なんて、加える必要はありませんから。
勝手に恐れ、勝手に警戒しているだけです。手をつけるほどの価値は、此処の人たちには存在しませんよ。
明日は雨が降るといいですね。僕は雨の音が好きだったんです。どんな音をしていたか、もう思い出せないけれど。剃刀のように研ぎ澄まされた雨の滴が空気を縦に裂き、地面で砕ける音を聴けたのなら、僕は何を捧げられるでしょうか。
退屈は容赦なく人の心を殺しにかかってきますが、僕は当分は殺されるつもりはありませんよ。また来てくれますか、先生。
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