第十八章「襲来」

18-1

「うーん……これは……」

 耳から聴診器を外しながら、キーファーは首を捻った。

「ちょっと押すよ。ここは痛くないかい?」

「うん、平気だよ」

 はだけた腹部をキーファーに押されながらヴェンシナは答えた。手を置く場所を幾度か変えて、キーファーは同じ質問を繰り返した。ヴェンシナの回答もまた同じである。

「おっかしいなあ、君の性格と状況から考えて、すっかり慢性化してるだろうって思ってたんだけどねえ……。急な精神的緊張による一過性の胃痛ってとこかな。明日牧師様たちの見立ても伺って、殿下にはご報告することにするよ。もういいから服を直しな」

「うん、ありがとう、キーファー」

 余計なことは一切言わずに、ヴェンシナは寝台に身を起こして手早く衣服を着付けなおした。急性の胃痛であったわけではないことは、自分で一番よくわかっている。


 キーファーは聴診器を持参してきた医療鞄の中に片付けると、今朝方までランディが使用していた寝台に腰を下ろした。今夜はもう遅いので、キーファーはシュレイサ村教会に泊めてもらうことになっていた。明日半日、教会で労働奉仕をしてから、トゥリアンに戻ればいいとランディに言われてきたそうだ。


「――素敵なお嬢さんだよねえ……」

 頭の後ろで指を組み、壁にもたれかかりながら、キーファーはため息混じりに呟いた。

「……フレイアのこと?」

「うん。すごく綺麗で、だけどそれを驕っていなくて……神秘的でさ。控え目で儚げな風情が堪らなくいいよねえ……。あの方がほおっておけなかった気持ちが良くわかるよ。あんなお嬢さんを魔女だなんて呼ぶ、この村の人たちの気がしれないや」

「どうしてキーファーがそんなこと知ってるの!?」

 キーファーの発言に、ヴェンシナは驚いて大きな目を丸くした。キーファーは起き上がって腿の上に肘を置き、今度は前のめりの姿勢に上体を倒した。


「エルミルトの離宮でね、仮病で療養中の殿下の主治医の真似事をしながら、僕はずっと秘書をやっていたんだ。君からの手紙も読ませて頂いたよ。エルアンリ様だっけ、決闘のお相手の動向を探っておいでだったし、あのお嬢さんのことはね、特に慎重に調べられていた」

「どうして?」

 ヴェンシナの問いに、キーファーは少し言い難そうに目を細めた。

「……酷な言い方かもしれないけどね、あの方と親密な関係を持たれる可能性がある女性に、罪人の血が混じっているようなら不味いからさ」

「そんな……! フレイアはフレイアだよ! 彼女には何の罪も穢れもないよ! 確かに盗賊の娘に違いないって、言い張っている人もいるけどっ……!」

「それは僕だってそう思うよ。だけどあの方は、特別なお血筋の方だからね」

「……」

 悔しいが、キーファーの意見はもっともなことと受け止めざるを得ない。ヴェンシナは反論できずに唇を噛んだ。


「あのお嬢さんは私生児で、父親がわからないときたもんだからさ、どうにかして出自が洗えないかって、ずいぶんたくさんの資料を集めて目を通されていた」

「資料って……、何の? 僕はわかる範囲のことは全て、手紙に書いてお知らせしたつもりだよ」

 フレイアシュテュアの素性について、アレフキースが知りたがることは目に見えていた。その為にヴェンシナは、彼女の出生に纏わる一連の噂を、王太子に宛てた手紙の中に、気が進まないながらも書き記しておいたのだ。


「うん、だから、それをもとに色々と――ね。シュレイサ村の戸籍簿は勿論、昔の盗賊事件の覚書や、【精霊の家】シルヴィナについての文献、それから何とかいう異境の国の、古文書の写しなんかもひもとかれていたよ」

「異境の古文書……? フレイアのことを調べるのに、どうしてそんな本が必要になったんだろう?」

「詳しいことはお話し下さらなかったけどね、フレイアシュテュアさんの母親のことで、州府にあった過去の記録に、何か気にかかる記述があったらしいんだよ」

 不思議がるヴェンシナに、キーファーは自分もよくわからないと肩をすくめた。

「……」

 アレフキースはフレイアシュテュアの出生について、果たして何を掴んだというのだろう? 小さくない不安がヴェンシナの胸をよぎった。フレイアシュテュアには、ヴェンシナが子供の頃から何度も言い聞かせて、絶対に隠しておくよう約束させている、他人ひとには明かせない秘密があるのだ。


「まあ、でも……、その調査結果も、もう必要なくなったけどね。フレイアシュテュアさんは尼僧院に行っちゃうんだからさ」

「……うん」

 それはあまりにも、悲しい決断であるとヴェンシナは思う。自分から飛び込んだランディの腕の中で、フレイアシュテュアは何を夢見たのだろう? 言葉に出して訴えることなど決してしないだろうが、ランディのものになることを、彼に村から攫ってゆかれることを、何より望んでいたのではないだろうか?


「あの方は、本当は、フレイアシュテュアさんがお傍に上がって下さるのを、ご希望なんだと思うよ」

 ヴェンシナの表情に何を察したのか、キーファーはランディを擁護するような目をして言った。

「だけどそれじゃあ、ね、愛妾として陽の光が射さない場所に閉じ込めることになっちゃうから……。あの方は遊び好きで得手勝手で、困ったところも多い方だけど、女性に対しては誠実でいらっしゃるからね。ご縁談もたくさん寄せられていることだし、お嬢さん自身と君の気持ちも考えて、断念されているようだ」


「……僕はね、キーファー」

「何だい?」

「フレイアには、本当に幸せになって欲しいんだ。フレイアは魔女だなんて呼ばれて、今までずっと辛い思いをしてきているから……。普通に恋人を作って、普通に結婚をして、普通の家庭を築いて……。

 なのに、実際はどうだろう? フレイアはまだ十七なのに、叶えられない辛い恋をして、わがままも言わずに身を引くことを決めて、神様に生涯を捧げようとしている。神々の御許でひっそり暮らすのと、たとえ日陰の身であっても、好きな人の傍で生きてゆくのと、彼女にとって、どっちが幸福なことなんだろう……?」

「どっちって、言われたって、さあ……」

 ヴェンシナの真剣な問いかけに、キーファーは返す言葉に詰まって低く唸った。

 沈黙が二人の間に横たわる。

 ひとときの静寂。

 そして――!!



*****



「きゃああああっ!!」

 唐突に響き渡った、恐怖に駆られた女の悲鳴が、眠りにつきかけていたシュレイサ村の平穏を引き裂いた。

「何!?」

 ヴェンシナとキーファーは顔を見合わせ、同時に反応し、窓辺に駆け寄って帳を開いた。

「!!」

 村外れの空に、きな臭い煙が立ち上っていた。隣り合う民家の屋根の向こうで、夜の一部が不自然に切り取られ、不気味な夕焼けのように赤く染まり始めている……。


「何――? 火事……?」

 ヴェンシナは眉を顰めた。キーファーはごくりと唾を飲み込んだ。

「いや――、ひょっとしたら、これは……。僕は君と一緒に、貧乏くじを引いちゃったんじゃないかなあ」

「え――?」

 聞き捨てならない発言をしたキーファーの顔をヴェンシナは振り仰いだ。青ざめたキーファーが言を継ぐよりも早く、非常を知らせる警鐘が激しく打ち鳴らされ、動揺してわめき散らす男の声が聞こえてきた。


「とっ、盗賊が出た――!! 逃げろ!! みんな逃げるんだ――!!」

「ほら!! 最悪だよ、ヴェン!!」

 キーファーは責めるようにヴェンシナを見た。

「僕のせいじゃないよっ!!」

 怒鳴り返しながらヴェンシナは、枕元に置いていた剣を引き寄せた。キーファーは一旦硝子窓を開放し、鎧戸からきっちりと閉め直すと、着崩していた制服の詰襟を正し、白いマントを手早く羽織った。

 ヴェンシナが剣を腰に佩き、急いでブーツに履き替えていると、今にも泣き出しそうな顔つきで、狼狽しきったラグジュリエが部屋に飛び込んできた。


「ヴェン! ヴェン! どうしよう! 盗賊が来たって!!」

「しっかりして、ラギィ、僕がいるから――。それにキーファーだっていてくれるんだからね!」

 ヴェンシナはラグジュリエを抱き留めると、腰を屈めて目線の高さを合わせ、怯える小さな『妹』に一言一句を言い聞かせた。

「みんなで手分けして、早く戸締りを確認するんだ! 全部の窓の鎧戸を閉ざして鍵をかけるのを忘れちゃいけないよっ。それが終わったら聖堂へ――。村の人は、みんな聖堂に避難してくるんだから責任重大だよ! できるねっ、ラギィ!」

「わっ、わかったわっ」

「いい子だね――」

 ヴェンシナはラグジュリエを勇気付けるように微笑みかけると、赤毛の頭を撫でてからすっくと立ち上がった。生真面目な榛色の瞳が崇高な決意を秘めて、ラグジュリエが見たことのないような毅然とした輝きを放つ。


「ヴェンはどこに行くのっ!?」

 頼もしさとともに不安を覚えながら、ラグジュリエはヴェンシナに詰問した。

「僕は教会の入り口を守らなきゃ。聖堂は大事な砦になるんだ。手伝ってくれる? キーファー」

「まーかしときなって」

 暗雲を晴らすようにキーファーはにやりと笑った。それからふと思いついたように、ラグジュリエの胸元に医療鞄を差し出した。


「そうだ、これを預かっといてもらえるかい?」

「うんっ……」

「ありがとう。それじゃ、よろしくね」

「じゃあ、ラギィ、行ってくるからねっ」

 口々に言い残すと、ヴェンシナとキーファーは、あうんの呼吸で肩を並べて駆け出した。

 ぎゅっと医療鞄を抱き締めながら二人を見送って、今にも破れそうな心臓を奮い立たせると、ラグジュリエも大急ぎで教会の『家族』のもとに向かった。大好きなヴェンシナの言いつけを守る為に――。

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