04. 安全な棺
嗚呼、俺はいつまでここにいなければいけないのだろう。
くそ、なんだってこんなことになっちまったんだ。俺は人工呼吸器によって生かされている己の身を思い知る。光も視えんし音も聞こえん、口をきくなど夢のまた夢だ。
だが分かる。
何故かは知らん。ただ分かるのだ。俺の横隔膜や胸郭が俺の肺を動かすことははもはやない。逆だ。それらは外から送り込まれた空気、その圧力が膨張させた肺によって、強制的に動かされている。体からはバイタルモニタを取得するための配線が伸び、腕には2本の点滴が刺されている。腰椎にはぐゎんぐゎんと地響きのような痛みを、右耳の裏側にはギョリギョリと錆びた釘を打ち付けるような痛みを感じる。麻酔は効いているのか?いやむしろ麻酔がなければあっさりと逝けるのだろうか?
なぜこんなことになってしまったのだろう?ああ、思い出した。俺は昼飯を食ってビールを飲み、ふと思い立って窓の雑巾掛けをしようと脚立に登った。そこで足を滑らせて腰と頭をしこたま打ったのだ。俺の計画とは少し違ったが、まぁこんな最期も悪くないかと思っていた。痛いのは嫌だったがそこまでの贅沢は言っていられん。蝉の声が少しずつ小さくなっていくのを好意的に受け入れた。クマゼミがここまで北上してきたのはいつからだったろうと思いながら。
無粋にもそんな静寂を打ち破ったのは救急車のサイレンの音だった。斜向かいの住人が倒れている俺を見つけて通報したのだ。全くもって余計なことをしてくれる。俺はこんな事態に陥ったら死を選ぶ決意をしていた。延命治療を拒否する書面は書いていたが、誰も見つけてくれなかったのか。やはり施錠可能な机の引き出しに大切にしまっておいたのは失敗だったようだ。妻が生きていれば違ったのだろうか。
亡き妻は俺より10歳若かった。残念ながら我々の間には子供はできなかったが、幸せな日々を過ごしていた。60歳を迎えた頃、俺は俺の最期のあり方について妻にだけはきちんと話しておいた。デスノートだかなんだかも書いておいた。若い頃から死に方についてばかり考えていた。終わり良ければすべて良し、だ。
だが先に逝ったのは妻だった。あちこちの関節の痛みを訴えていた妻はリウマチとの診断を受けていたが、精密検査の結果、それは悪性リンパ腫へ、しまいには血管肉腫という珍妙な病気へと名前を変えていった。葬儀には名も忘れた親戚が集った。俺自身は一人っ子でとうの昔に両親も無くしており、もはや天涯孤独と呼ぶに相応しい身の上となっていた。
そんな訳で、俺の行く末を握っているのは名も忘れた親戚だ。それも俺がここへ来て3日目に顔を見せて以来、1ヶ月近くほったらかしときた。こいつらに俺の望む決断ができるとは到底思えん。若かりし頃に契約してしまった医療保険を恨めしく思う。再来年には満期なので放置しておいたが、あんなものは速やかに解約しておくべきだった。
俺は生きたまま棺に入れられたのだ。それは「安全な棺」ではなかった。地上のベルを鳴らすための紐はついていない。どうすれば俺の意思を伝えられるのだ?どうすれば俺の肉体に終わりを与えられるのだ?
痛い。
虚しい。
痛い。
虚しい。
嗚呼、俺はいつまでここにいなければいけないのだろう。
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