ねむる
藤村 綾
ねむる
どうしてこの人はあたしを眠たくさせるのだろう。
隣で寝息を立てている人の右側にいるあたしはその人の肩に唇をあてつつ重たくなってくる瞼をひっしに開けて横顔を盗み見る。
肌からは清潔な匂いがする。
家庭の匂い。アイコスの匂い。馴染んだ匂いが。
部屋は最小限までに明かりが落とされていてうまいこと顔の表情がつかめない。それでも輪郭だけはくっきりと切り取れそうなほど綺麗な稜線を描き、本当に切り取って持って帰りたいくらいだ。
あ、まずい。思考がだんだんと遮断されてゆく。
「ちょっと寝たらあたしがあとで起こすからさ」
そうやってさっき張り切っていったけれど、きっと隣にいる人の方が先に目を覚ますに違いない。
お願い。どうか。どうか、このまま時間がとまればいいのに。あたしは遠慮がちに肩から唇をはがした。そうっと、起こさないように。
場末のラブホテルの一室にいるあたしと彼。雨が降っている。きつく屋根に雨音を立てて。窓から細く入ってくる明かりは部屋の中にある埃を目立たせている。
《どどいた?》
朝、起きてスマホを開いたら、彼からメールが届いていた。以前何かの不都合でメールが送受信出来ないことがあって、あたしはずっと不安に苛まれていた。なので、メールを見たとき、あまりにも嬉しくて、わーい。と、声をあげながらバンザイー。と、手を挙げた。
しかし……。ふと、考える。
このままメールが来ないことを存外予想していたし、もう終わりにしようと心の中で誓ったはずだった。なのに、メールが来た瞬間にはその思考などどっかに吹っ飛んでしまっていたし、あげく
《あえる?》
また自分から《あえる》のこれはいかん文字を打ってしまった。意図も簡単に。あまりにも自分がアホすぎて呆気にとられるも、もうすっかり今日あえるだろうとゆうことを意識してしまい鼓動が早まった。
あたしはあの人のことをどんだけ好きなのだろう。
あっていても辛い。
あわなくても辛い。
あたしは、首を横にふって、またベッドに仰向けになる。空はあまり清々しいとはいえない天候だった。
《昼からならね。大丈夫》
返信はほどなくしてから来て、あうことになり、彼の仕事場らへんの最寄駅に向かうことになった。
彼には家庭がある。
たくさんの人に嘘をついてあっている。いつもそのことが頭の中で渦を巻く。許されない行為。誰にも祝福されない荊の恋。
約束の駅に到着したせつな、彼からメールが届き
《今駅前》
と、ナイスタイミングな文面に顔をほころばせ彼の車に乗り込んだ。
「お」
彼の車は仕事関係の(建築士)ものでごった返しているけれど、あたしを助手席に乗せることによって今日はすっかりと空いていた。
「ここ、踏んでも大丈夫かな」
助手席の下には図面だの本だのマスクだのがたくさん粗野に置いてあったけれど
「いいよ」
彼はすました顔で、踏んでも、と、付け足した。
あたしはクスクスと笑い
「住んでるね。相変わらずに」
下にある図面を横にずらし、つぶやく。
「まあな」
もはやこの言い合いには慣れているので彼は否定も肯定もしない。あたしたちは一体いつまでこんなことを続けるのだろう。わからなくなる。
「体調はどう?」
ちょっとだけ語尾をあげ訊ねる。彼はいっとき熱中症になったのだから。
「わるい」
いいわけないよね。あたしはそう付け足しつつ、次の言葉を待つ。
「この前さ、点滴を打ったんだよ」
「え? ご飯とうとう食べれなくなったの」
ううん。彼はたよりなく首を横に振る。食べれるけどね。なんとなく。横たわりたかったから。やっぱり頼りない声が返ってきた。
確かに疲れが顔に滲み出ている。仕事柄忙しいのは分かっているけれど、元々細身だった身体が最近会うたびに小さくなってゆく。
「そ、っか」
なにか気の利いたことをいってあげたくともなにも思い浮かない。あたしは窓の外に目を落とす。流れてゆく車。笑いあっているカップル。家族。あたしたちの曖昧な関係が特に罪みたいなように、急に雨がシャワーのようにどしゃと降ってきた。
「ゲゲゲ」
彼がカエルのようゲゲゲと半ば叫んで
「わ、こんな雨だと、まあ、現場がぁ」
と、半泣きで落胆をしていた。
建築業界の人はなにもかも天候に左右される。けれど工期は待ってはくれないし、責任者である彼はある程度の工程を組んであるため、それに添って職人を動かすので天気には一喜一憂をするのだ。
「はぁ」
ますますかける言葉を見失いあたしはすっかり途方に暮れて横を向いたままになる。
無言のままホテルの暖簾をくぐる。
車を下にとめ、階段で上に上がってゆく昔ながらのホテルだった。彼の後に倣って部屋に入った。
ちょっとだけ世間話をし暗黙の了解でシャワーを互いにし、ベッドに入る。
先にシャワーを浴びる彼はベッドで待っている間、いつも部屋を暗くする。
「これじゃ誰と抱き合っているかわからないわ」
以前あたしはちょっとだけ頬を膨らませつつ怒気を含んだ声を出したことがある。彼は
「別に。お前はお前だし」
あっさりいわれ、そっか、確かにと、あたしは妙に納得をした。
彼の横に寝そべる。巻きつくように身体を擦り寄せる彼の身体はまた一回り小さくなった気がしてならない。
あたしは必死で彼にしがみつき、ときおり爪を立てた。奥さんに少しでも痕跡を残そうとゆうとかではない。彼があたしを殺してくれないから。あたしはいつか彼を殺してしまうかもしれない。行為の最中、頭の中が混乱をする。この人の中に入ってしまいたい。取り込まれたい。あるいは取り込んでしまいたい。下半身が燃えるように熱い。身体に薄っすらと汗をかく。あたしは四つん這いにされ必死にシーツを握りしめる。涙を浮かべ、口の中に容赦なく入ってくる髪の毛を払いのけ、声を押し殺す。おもてむきにされたとき、彼の頬を両手に持って唇を重ねる。もう、死んでもいい。お願い。殺して。この思いは抱かれるたびに強固なものになってゆく。殺すか殺されるか。あたしたちにはこの先その二択しかないのかもしれない。あたしは涙をこらえ彼の決壊の声音を耳の中に聞き入れてからそっと彼の熱いものを受け入れた。
上に乗っかっている彼は肩で息をしながら背中に薄っすらと汗をかいていて、それが途轍もなく愛おしく柔らかな髪の毛を何度も何度も撫ぜた。まるで子どものように。何度も。何度も。
「眠いなぁ。朝さ、早かったしな」
やっと汗が引いてきたころ彼はボソッとつぶやき
「目覚めてからすでに8時間も経ってるし」
笑いながらそう付け足した。
あたしたちは布団を被って仮眠をする。少しだけね。それが口癖のように。
「起こしてあげるから」
「えー。嘘だ。この前だって俺が先に起きたじゃんか」
え、そうだっけか。
あたしはへへへと笑った。
案の定彼の方が先に目覚め
「おお、うちかと思った!」
まるで叫びのような素っ頓狂な声をあげ
「起きて」
完全に眠っているあたしを起こす。
「寝たわ。熟睡した感じ満載だし」
「あ、そう。あたしも、あたしも」
それだけいってあたしも起き、帰る支度をしだす。安心して眠ることが出来るとゆうのはあたしにとってまるで嬉しい言葉なのだ。
心を許している証拠だから。わからないけれど。そう、思いたいし、願いたい。
ホテルを出たらすっかり雨はやんでいた。
「やんだね」
「うん」
また会話が途切れる。それでももう気を使うこともない。あたしと彼は眠ることが出来るのだから。
今度はいつあえるの?
心の中で訊いている。バカだなぁ。あたしは全く。そう呟きながら。期待はしない。あたしたちの関係性などに肩書きなどはないのだから。
車が渋滞にはまってなかなか動かない。彼はびっくりするほど大きなあくびをひとつした。
ねむる 藤村 綾 @aya1228
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