その人の名を呼ぶとき

小笠原寿夫

第1話

 その人の名を、野村萬斎といいました。狂言師をしている男です。

彼には、許婚がおりました。許婚の名を誰も知り得ません。しかし、彼女に惚れた男がおりました。田園で働く、それはそれは面白い男でした。名を、政宗といいました。勿論、伊達政宗とは、縁も所縁も無い男でしたが、仕事だけに従事し、政宗は、懸命に働いておりました。そして、二人は田園で出会いました。地位故に、叶わぬ恋でした。

 それでも惚れてしまったことに、罪はありません。政宗は、彼女を、しっかりと笑わせようと、努力を重ねました。彼が、彼女を笑わせようとしたことと、彼女の許婚が、笑いを生業にしていることに、悲劇が始まったのです。

 許婚に、悪い虫がくっついていることに、野村萬斎は、動じません。政宗が、許婚を笑わせようと、必死でネタを書いている最中、野村萬斎は、髭を剃りながら、

「プロならこうするね。」

と言いました。身だしなみを整えるところから、プロとアマの差は歴然だったのです。

 笑いのライブを一講演を終えたとき、政宗は、彼女の過去が欲しいと思いました。本気で恋に落ちた政宗に、ある占い師が、青い硝子球をくれました。

「これで、十年そこらの未来や過去へは、行けるよ。」

政宗は、いたく喜びました。青い硝子球の中に、政宗の顔が反射し、屈折すると同時に、青い硝子球は、ころころと漏斗を転がっていったのです。

 あれよあれよという間に、2015年にタイムスリップしていました。政宗は、当時のシステム手帳を用意しました。そこには、2015年の5月から11月にかけての使った家賃、携帯代、弁当代、高熱水費、保険料、新聞代が、表にして、事細かに、書かれています。これだけの経費を回していたのか、と若干、政宗は、誇りを持ちました。

「楽しようとするから、ネガティブになる。前向きになるには、努力が必要。」

と、走り書きがしてありました。

 そして、「目標 結婚」と。当時、彼が、野村萬斎になる男だと、誰が予測したでしょう。そして、2020年のオリンピックの開幕式の総監督に就任することも。和を大切に思う心。

 それが、当時の政宗には、覗えました。

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