側溝のアサガオ

鮎川 拓馬

側溝のアサガオ

 

 産まれた時から、僕は薄暗い場所に居た。


 自身の居る所が『どこ』という事も知らずに、ただそこに居た。

 そもそも、『自身が在る』というその状況に、僕は何の疑問も抱かなかった。


 ただただ、生きていた。僕の体がそうであることを求めていたから、ただただ生きていた。




 自分が居る、その場所が地獄だと知ったのは、外を知った時からだった。




―側溝


 僕の居る場所がそう呼ばれる場所と知ったのは、背が伸びて、初めて頭を網の間―その日までは天井としか思っていなかった、側溝の蓋―から出した時だった。




 僕が世界のすべてだと思っていた世界は、そうではなかった。

 世界の外にはまだ世界があり、そして、そこが本来、僕が居るべき世界、居て当たり前の世界であった。




 僕が顔を出したすぐ傍の地上には、自身と同じ存在、おそらく兄弟なのだろう者達が、竹でできた支柱で、日を浴びて、青々と葉を茂らせていた。


 そして僕は、自身の、ひ弱に黄色い姿を見つつ、思い知る。兄弟それこそが本来あるべき、アサガオの姿なのだと。



 その日から僕は、必死に彼らになろうとして、背を伸ばそうとした。

 背を伸ばせば、きっともっと日を浴びられるはず。そうしたら、きっと彼らのように活き活きと、本来のように輝けるはず―



 だけど、現実は無情だった。



 側溝の上を歩く、人間達の足で、僕の頭は踏まれ、枯れてしまう。

 それでも僕は何度も何度も、頭を伸ばし、側溝から脱出しようとする。


 いくら、踏みつけられようとも僕は諦めない。

 だって、頑張り続ければ、いつかはきっと、兄弟達のようになれると思っていたから―





 季節は夏となった。


 赤、青、白、桃色。兄弟達は、色とりどりの花を身に着けて、軒下のそよ風に吹かれている。そして、人間達の目を楽しませていた。

 十分な日を得られない僕には、花などとても身に着けられなかった。


 だけど、僕はまだ頑張り続けている。頑張り続ければ、きっといつかは報われると思っていたからだ。


―だって、この世に生まれて来たからには、意味があるはず―


 僕がアサガオとしてこの世に生まれて来たからには、自身が生まれてきた意味―花を咲かせ、人間達を楽しませ、そして実をつけ子孫を残す―という役割があるはずだから―




 頭を伸ばしては、人間の足に踏まれるという事を繰り返していただけの僕はある日、ついに頭―蔓を、側溝の傍に生えていた細い雑草に絡まらせることができた。


 僕は狂喜した。遅ればせながらも、これでやっと兄弟たちのように成長し、花をつける事が出来る―兄弟並みになれると―



 だけど、現実はいつも無情だった。



 いつもにも増して暑かったその日の午後、急に日が陰った。空はどんどん暗くなり、やがて大粒の雨をもたらした。

 側溝の中には、大量の水が流れた。


 僕はなすすべもなく、頭どころか、ほとんどの体を流されてしまった。





 季節は秋となった。


 兄弟達は、もう既にこの世の者ではなかった。茶色くなった葉を落とし、干からびた蔓を支柱に残していた。

 だが、その蔓には、翌年には目覚めるだろう生命いのち―黒々とした実を、確かに残していた。



 僕は、そんな兄弟達の姿を見る事はなかった。あの日、体の大半―根元から―を流された僕は、それでもを伸ばし続けたが、自身が生きられる間―季節が変わらないうち―に、側溝の蓋から、ついに頭を出すことはできなかったからだ。


 だけど、彼ら兄弟達の姿は見えずとも、僕は彼らが人生でやるべきこと―自身がアサガオとして生まれてきた意味を、きっちりと成し遂げて死んだだろうことは、容易に想像できた。



―僕は、一体、何のために生まれてきたんだろうね。



 アサガオとして生まれて来たくせに、アサガオとして生きられなかった僕。


 

 僕は、木枯らしが吹く、網越しの空を眺める。そして、思う。


―生まれ落ちた場所が間違っていた。


 僕の不幸の始まりはそこだろう。


―だけど、そんなの、産まれる前の僕には選びようもないじゃないか。


 産まれる前のことなんて、僕は知りもしないのだから。


―僕は、世界を知らなければ幸せだったのだろうか。


 何も知らず、自身が在るべき姿を知らなければ、僕は無知なまま、だけど地獄を地獄と知らずに幸せなままに死ねたのだろうか。


「……」


 この世で最後になるだろう景色を、僕は目を閉じ、遮断した。

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側溝のアサガオ 鮎川 拓馬 @sieboldii

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