永遠
私もリア充のテンションについてゆける人間では全然ないから、ルームメイトがいつも大きなクッションにもたれて瞠目し、全身の力を抜いてただ安らかに息をしている、石に生えた苔みたいな人物だったのはとてもラッキーだった。
部屋が同じになっても、はじめの数ヶ月間はほとんど何も話さなかった。彼女が他人とのお喋りを必要としていないのはどう見ても明らかだったし、私にも無理に人と話す理由はどこにもなかった。私たちは朝も放課も寝る前も挨拶ひとつ交わさず、ただ彼女が香を焚く前に私に許可を求めるのが概ね一日の会話のすべてだった。私はお菓子や飲み物の香りを楽しみたいというのでもなければそれを了承した。
彼女は他人というものを、怖がるでも嫌うでもなく、ただ全くの無関心ゆえに拒絶している風に見えた。そういう態度は学校ではあまり良く思われてはいなかったし、蔑みに近い目で見られてさえいたが、本人は意に介していないようだった。
ある日、勉強の合間に気分転換がほしくなった私は、横たわって安らいでいる篠川に話しかけた。
「ねえ、篠川さん」
「……何?」
篠川は機嫌よさそうに、微笑みに見える表情を浮かべている。彼女は私のことを少しだけ気に入ってくれているんじゃないかと思うことがたまにあった。
「篠川さんはそうしてる時、何かを考えているの?」
「ん……? あまり考えてない」
彼女は言った。
「いろいろな光や音や匂いを、感覚器が生きてる限り私は遮断できない。精神は常にそういった刺激の影響を受け続ける。こうしている間は、ただそういう、精神への入力を感じているの」
彼女は静かに、ぽつぽつと喋った。まさかこんなにちゃんと話してくれるとは思ってなくて、私は驚いていた。
「厨二病的に聞こえるかもだけど」
彼女は続けた。
「こうしていると生きている事と死んでいる事に大した断絶はないように思えてくる。生っていうのは、こういう夥しい感覚という形式で現れた死であって、死というのは反対に、感覚のない生に思えてくる。
実際、私が生きていようが死んでいようが、世界は同じように存在していると思うし、生も死も基盤は同じでしょ? ……だからと言って死ぬのが怖くなくなるわけではないけど」
彼女は言葉を切り、少し笑った。
「凡庸なことを言っているとは思うけど、でもこれは私にとって重要な凡庸さなんだと思う」
彼女は目を閉じた。感覚のある死。
「生きるとか死ぬとかを考えるのが好きな人って、生きることにも死ぬことにも向いてなさそう」
私は言った。篠川を見ての率直な感想だった。篠川は珍しくくっきりした笑顔を見せた。
「生きることとか死ぬことに向いてる人って、どんな人なのかな」
***
ここで読者に伝えなくてはいけないことがある。
それは、二人がこのような会話を交わすことは全くありえなかったということだ。
なぜなら、篠川清冽の母である
そのため、二人がこの世に生まれてくることはなかったのである。
***
放課後は部屋の明かりを消すか常夜灯だけにして、私が何かしたい時は電気スタンドを点ける。でもその日は私もぼうっとしていたい気分だったから、彼女に倣って買った大型クッションに背中をうずめていた。香は沈香ベースの、白檀や何かが色々混じっている印香が焚かれていた。雨が降っていた。雨は十億年の昔からずっと雨だ。倉庫のトタンや色々なものに落ちかかり様々な音を立てる雨は、自分がどこに落ちるのか、それを誰が聴くのかを何も気にしない。雨の前では人も文明も一過性のものだ。ちょうどお天気のように。植物もまた数億年の昔から雨水を飲んでいるだろう。たまに植物の苦しみについて考える。もしもこの世の植物のすべてが生きる限り私たちと同じように苦しんでいるとしたら、それに意味を与える機能を持たずただ苦しみだけが現れるのなら、そしてもしも雨や石に苦しみがあるのなら(デイヴィッド・チャーマーズは、物理的に情報処理が実現されているところには、意識もまた存在しているのだと論じている)、すべては気まぐれに現れてはなんとなく消え去る苦しみに過ぎないのなら、
「篠川」
この部屋ではどんなにかすかな囁きも相手に届く。
「何」
雨音の隙間から応答が聞こえる。
「何もかもの完全な終わりってあると思う?」
「無い」
沈香の煙は甘かった。遠くで誰かの笑い声が聞こえた。
雨が止み、夜が来て、常夜灯を点ける。香を白檀ベースのものに変える。
ヒュームは人間を「知覚の束」であると表現し、精神や自我、因果法則というのは錯覚に過ぎず、存在するのは継起する知覚の集合のみであると説いた。
すると、思考を止め、同じ光と音と温度と時間と延長のなかで同じ香りを聞いているとき(香は「嗅ぐ」のではなく「聞く」と表現するのだということを私は篠川から教わった)、篠川清冽と
私はいつしか眠っていた。篠川は私が寝ていたって起こしたりはしない。目が覚めると朝で、白檀は微かな残り香になって陽光と交じっていた。
***
邃深はとても貴重なものを見るように私を見た。まるで伽羅を扱うように私に接した。きっと邃深は無意味を求めていて、私の無内容を愛していた。私は彼女にとって素晴らしい調度品だったのだろう。そう言ったら自惚れが過ぎるだろうか。
私は動物が少し好きだったが寮では動物を飼えないので邃深を見て満足することにしていた。世話をする必要がないから楽だった。大きい動物が好きだから人間はかなり好みだった。
「また私を見てるの」
勉強に飽きた邃深が私を見て、呆れたような困ったような顔をした。彼女はどういうわけかいつも囁き声で話した。
「動いているものがあると見ちゃうの。生き物の習性じゃない?」
私は言った。
「動いているものかあ」
邃深はそう呟くとしばらく何かを考えている様子だったが、やがて自分のクッションに向かい、身をうずめた。
「動かないものが顧みられることはないんだろうね……」
***
篠川は中学二年の終わり頃から香を聞く以外のことを何もしなくなったそうだが、小学生の頃は詩歌ばかり読んでいたらしい。カヴァフィスと葛原妙子が好きだったという。
それでなのか、たまに詩のようなことを呟くことがあった。
ある肌寒い夜、炭に焚べた乳香を聞いている時、篠川が言った。
「目覚めとともに焼き払われる、夢で書かれた書物」
少し待っても続きはないようだったから、私が続けた。
「炎が読み上げるページの、光に変わる文字」
少し待っていると、応答がある。
「煙を読み上げて凪ぐ風」
「恍惚のなかで書かれた太陽の文字」
「夜の両手から滴り落ちる文節」
「人は装飾写本を造る」
「永遠という題の書物の」
「ちぎり取られたページ」
「風に攫われ」
「空にひらめく」
「永遠という題の書物の一枚のページ」
私が黙ると彼女も黙り、それから翌朝まで一言も話さなかった。
***
私と篠川は別の大学に通うことになった。
別れはあっさりしたもので、挨拶や目配せの一つもなく、知らない者同士のように別れた。彼女と離れることは私にとって生命の多くの部分を喪うことに等しかった。三年というもの、彼女とともに沈香を、白檀を、伽羅を、乳香を、没薬を、麝香を、竜涎香を、丁子を、甘松香を、竜脳を、安息香を聞き、ただその芳香の知覚となって漂うことが、私にとっては生きるということだった。私たちは連絡先の交換さえしなかった。
それから十七年間、彼女と会うことはなかった。私はたまに香を買って聞いた。かつて彼女の掌のなかに見かけたパッケージのものを選ぶことが多かった。
香を聞くと、不思議なもので何年もの時間が経ったあとでも、かつてその香を聞いた時の天候や時刻や、交わした言葉を鮮明に思い出すことができた。十七年間、香を聞いていると、いつもその香は高校生のままの篠川を少し含んでいた。
私が彼女と再会したとき、用意されていたのは沈香だった。すぐにとても良質なものだとわかった。私はその抹香を昔とあまり変わらない彼女の写真と躰の前でつまみ、香爐に焚べた。生は感覚のある死で、死は感覚のない生で、どちらも底にあるものは同じ、と彼女は言っていた。でもそれは私たちにとってはずいぶんな違いだ。私は思った。私はこれからもう沈香を焚くことはないだろう。これから私が焚く沈香のなかに彼女はもういないだろう。かつて沈香は私であり彼女だった。だが今は、彼女の欠落でしかない。目の前で昔と同じように篠川は安らかに横たわっているのに、この芳香を知覚しているのは私だけなのだ。
私は彼女の近況を何も知らなかった。喪主であった彼女の妹の
彼女は病床の姉から私のことを聞いて、ずいぶん調べて今の連絡先にたどり着いたのだという。葬儀には呼ぶようにしてほしい、と言う清冽に、生きている間に会わなくていいのかと訊ねると、奇妙に穏やかな笑みを浮かべて首を振ったという。
「姉とは高校の寮で同室だったと聞いています。仲がよろしかったんですか?」
私はなんと言ったものか迷った。
「清冽さんはとても思い出深い友達でした」
とだけ言った。私がそれから四年を一緒に暮らすことになる人形作家は、不思議そうに興味深そうに私を見ていた。きっとあの清冽に友達がいたということが信じられないんだろう。
***
実在の人間をモデルに制作した人形はこれまでに一つしかない。邃深自身にも見せたことのないその子は今も木箱に仕舞ってある。
邃深が話してくれた姉の記憶は常に香とともにあって、それは彼女にとって大切な記憶なのだと知れた。なぜなら彼女は一度も私と一緒にいる時に香を焚こうとはしなかったから。
邃深の少女時代を模して作ったはずのその人形は、顔のつくりに似通ったところはないはずなのに、どこか佇まいが姉に似ている気がして、それが癪だった。
私はときどきその人形を箱から出して、一緒に香を聞く。
***
斎場を出る前に、綺は私に包みをひとつ渡してくれた。
「姉が、正司さんがいらしたら渡すようにと」
私はそれを受け取り、礼を言って退出しようとした。
「あの、庄司さん。不躾ですが、またご連絡させていただいてよろしいでしょうか。姉の話を聞かせていただきたいんです。家を離れていた頃のことを何も知らないから」
もちろん構わないですよ、いつでもご連絡ください、と言って私は彼女の前を辞した。
秋だった。蜻蛉の多い年だった。家に着く頃には、夕焼けのなかに金色の陽が溶けていた。私は着替えをし、礼服を仕舞い終えると、清冽が私に残した包みを開けた。
香り袋だった。いかにも清冽らしい、飾り気のない端正な造形。白檀に麝香とおそらく丁子がブレンドされている。
清冽と一緒に聞いた覚えはない香りだったが、どういうわけかその香は清冽との日々を強く思い出させた。それも、とても美しく、かぐわしいものとして。
清冽はあの日々をこの香り袋に閉じ込めようとしたんだなと私は思った。
***
灰だけを香爐に残して放たれ、やがて薄れゆく芳香。
あるいは永遠という題の書物の、風に攫われ空にひらめく一枚のページ。
そのなかで私たちは生きてる。
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