関係に関係する関係の関係
日曜ヶ原ようこそ
エウリディケを嘆くな
「一つバイトを頼まれてほしいんだが」
そう打診を受けた時、
「一万円で、私の部屋で眠ってくれるだけでいいんだ」
「撮影?」
「ちがう。一回性の出来事がいい。カメラなんか持ち込んだら台無しだ……」
伏水は意味不明の手振りをした。
「お前、顔はいいだろう。私は最高だと思ってる。ただお前が眠ってるところを見たいだけなんだ。それでタルコフスキーみたいな時間を過ごしたい。睡眠薬はこっちで用意してある。お前には何もデメリットがない話だから受けた方がいい。私にとって大事なことなんだ……」
兎谷は中学一年生の頃から三年以上も伏水とつるんでいるから、彼女のバカさ加減はよくわかっていた。でも、こんな風にバカの矛先が自分に向けられるのは久しぶりだ。兎谷はフォークを置いた。
「一万円払って、私が眠っているところを見たい?」
「そう。見るだけ。他には何もしない。ただ眠っててくれればいい」
「タルコフスキー? 空中浮遊なんかできないけど?」
「構わない。やってくれるか」
「やだよ。きもちわるい……」
伏水は身を乗り出した。
「私だって気持ち悪い。私にとって大事なのはお前の顔と体型だけなのに、お前の人格を知ってるせいで台無しになりかねないんだ。でも我慢する。私はお願いしてるんだ。お前以外いないんだ。一万払う。足りないならいくらがいいか言え。私はお前のことを何も侵害したりしない。お前にデメリットはない。ただ鑑賞したいんだ。私が約束を絶対に守ることは知ってるよな」
兎谷は、これは断ることはできないなと思った。絶対しつこくされて絶対喧嘩になって絶対泣かれる。自分がもう詰んでいることを理解した。まあ私が眠っているところを見ることで、何だかわからないがよほどの満足を得るんだろう。じゃあ気持ち悪いけど、許してやるか、そのくらい。
「絶対……絶対やだ……百万円だして……」
駄目だった。あまりに気持ち悪すぎて口が勝手に動いてしまう。伏水は本格的な説得に向けて息を大きく吸った。
「この床で寝てくれ。枕は新品を用意した」
「低反発枕って睡眠の質によくないらしいよ」
「私は低反発枕の凍った波のような形とこの白さ、優しく包みこむ柔らかさが『惑星ソラリス』の感性のようで好きなんだ」
結局、兎谷は一万円で押し切られてしまった。
「睡眠薬は『マイスリー』5mg錠を用意した。半減期は2時間半だからすぐ代謝される。最も安全性が高いとされる睡眠導入剤の最低用量だ。こんな時間に眠ったら夜に眠れなくなるから、一錠渡しておく。寝る前に飲んでくれ」
「それより、すぐ突っ込むのも癪だから黙ってたけど、この燭台は?」
部屋のすべての壁に沿って、確実に100を超える数の燭台が並べられていた。壁にはたくさんの鏡が架かっていて、合わせ鏡のなかで燭台は数える気も起きないほどの数に増殖していた。
「きちんと床に固定してそうそう倒れないようにしているから、お前がゴロゴロ転がってぶつかったとしても大丈夫だ。ローソクも燭台に全部アロンアルファで留めた。アロンアルファ? 合ってるなアロンアルファだ。心配なのはお前の火傷だけだが、まあこれだけ距離があるんだから大丈夫だろ。そこまで寝相悪くないだろ? 消火器も三本用意したし、火災報知器も二つ設置した。もし私までお前を見ながら眠ってしまったとしても絶対に大丈夫な態勢を整えた」
外はもう薄暗くなっていた。12月の午後4時半。遮光防炎カーテンを閉めれば部屋はかなり暗くなる。
「飲んでくれ」伏水はコップの入った水と睡眠薬を兎谷に渡した。兎谷はそれを飲んで、床に寝そべった。衣服は、伏水の家に着いて早々、白いワンピースに着替えさせられている。天井からフックのついた紐が一本ぶら下がっているのが気になった。
伏水は「チャッカマン」を使って蝋燭に火を点していく。
「アンドレイ・タルコフスキーが幼少の頃、詩人であった父親のアルセニー・タルコフスキーは妻子を置いて家を出ていった。その年、納屋が火事になった。『鏡』で描写されているあの火事だな。タルコフスキーはその火事を見ながら、父親が帰ってきてくれるように祈ったんだそうだ。その火事はタルコフスキーにとっては生贄の炎だった。『サクリファイス』は観たか?」
伏水はこの上もなく厳粛に、優しく、蝋燭に火を点した。
「タルコフスキーのすべての映画で、火は祈りと結び付けられているんだ」
──知らねえよ、糞が……。
伏水が全ての燭台に火を点す頃には、睡眠導入剤が効いてきたのか、兎谷は半ば夢のなかにいた。そこで伏水はHuawayのスマホをいじってバッハ『マタイ受難曲』の “Erbarme dich, mein Gott”(憐れみ給え、わが神よ)のアリアを流し始めた。『サクリファイス』で印象的に使われていた曲だ。待て、思ったんだが「生贄」って私のことか? 私大丈夫なのか? 兎谷は目を覚ました。
伏水は続いてipodを操作し、複数の環境音素材を重ねたと思しき音源を再生した。水の滴る音や火の爆ぜる音、金属音などが重ね合わせられている。伏水は『マタイ受難曲』の音量を、辛うじてその環境音にかき消されない程度まで慎重に下げ、ループ設定にした。
「仕上げだな……」
伏水はつぶやいて外開きの扉を開けて出ていった。するとチリチリチリチリとたくさんの鈴が鳴る音が聴こえてきて、こちらに近づいてきた。伏水は何百という鈴をぶら下げた、シャンデリアのような形のよくわからない大型の祭具? を抱えてきた。こんなの買ったのか? 古いものに見えた。金色に鈍く輝いている。
それを、兎谷の腹から1.5mほど上方に吊り下げられたフックにセットする。鈴がシャンシャンシャンシャン鳴る。
「怖いんだけど……」
「何が?」
「お前が」
「大丈夫だ。80kgまで耐えられる金具を使ってるし、落ちたとしても怪我するほどの重さじゃない」
「だからお前が怖いんだって」
「なかなか寝ないな、お前。計画ではもう寝てるはずなんだ。もう1錠飲め。10mgまでは適用量だ。……いや、でも一応ピルカッターで半錠にしておこう。それで充分だろ」
伏水は半分に割った錠剤とコップを押し付けてきた。兎谷はそれを飲んだ。
伏水はサーキュレーターを持ち出してきて、鈴から外れた位置にごく弱い風を送った。それにより、鈴は時折チリチリとかすかな音をたてるようになった。その音に合わせ、さらに環境音と『マタイ受難曲』の音量に調整を加えた。ちょうど外では日が落ち、明りは蝋燭の炎と燃えるように輝く鏡だけになった。
「うん。よし……」
作業を終えると、伏水は兎谷の枕許に這いつくばった。しばらく兎谷を観察していたが、やがて髪や服のあちこちを引っぱって彼女の好みの感じに整え始めた。
「眠らせろよ……」
「いいぞ、非常にいい感じだ。お前は素晴らしい素材だ、お前と友達でよかった……」
「うるっせえ……」
「褒められて反射的に笑顔になってるぞ。パブロフか? 意外と自己肯定感低いよなお前」
「眠らせろよ!」
結局残った半錠も飲ませて兎谷を強制的に眠らせると、炎の金色と朱色の光のなかで、伏水は眠る兎谷をじっくりと眺めた。入眠後すぐにレム睡眠に入ることはないから、今は夢も見ないで眠っているはずだ。睫毛がたまに少し震えるが、眼球が動いている様子はない。彼女がアホな夢を見ているというのでは台無しだから、その方がよかった。悪夢とか、幼少期の夢というのなら許してやってもいいが……。顔の産毛がきらきらと光っていた。胸の上で組んだ手が深い呼吸につれて上下していた。細長い指が火の色に透き通って見える。均整の取れた額の曲線。静かさ。裸足になった足の爪はきれいに切り揃えられている。伏水は胡座をかいたり片膝を立てたりしながら、20分ほどのあいだ兎谷を見つめていたが、やがて立ち上がると部屋を出ていった。
部屋の戸を後ろ手に閉めると、そのままずるずるとへたり込んだ。扉に背中を押し付けて後頭部を擦り付け、恍惚とした表情を浮かべる。もはや彼女に見られるものでなくなることによって、完全に美しくなった兎谷の眠りを閉じ込めた部屋を背中で感じる。伏水という夾雑物を排することによって合わせ鏡は完全になり、火と眠りの純粋な姿を増殖させる。タルコフフキーのすべての映画にとって火は祈りと結び付けられている。
──母さん。
伏水は心の中で呟いた。版画家だった伏水の母は彼女がまだ小学生だった頃に亡くなっている。自殺だった。それを幇助したのは彼女だった。火は部屋のなかでゆらめき、鏡像がそれを繰り返す。
──母さん、私はちゃんとやっている。これに付き合ってくれる友達がいる。
合わせ鏡のなかで眠る兎谷の姿と炎はそれ以上この世の像が結べなくなる最後の消失点へ向かって反響しながら遠ざかってゆく。祈りは乱反射のなかで数限りなく反復され増幅され高められてゆく。伏水にはもう聴こえないかすかな鈴の音が眠る兎谷の上方で騒ぐ。ループ再生されるアリアのなかでルネ・ヤーコプスのアルトが罪を悔い、憐れみを乞う。通奏低音には死の甘美さと安らぎに焦がれるクリストフ・クノルのコラール旋律が隠されている。母さんは求めたものを得ただけだ。ルネ・ヤーコプスが繰り返し「憐れみ給え、わが神よ」と歌う。母さんは求めたものを得ただけだ……
兎谷が目を覚ますまで伏水は傍で見ていようと思った。『マタイ受難曲』は止めて、環境音だけが流れるようにしてある。蝋燭は消して、明るさを抑え気味に電灯をつけた。鏡も取り外した。だが8時になってもまだ目を覚まさないのでもう起こしてしまうことにした。親御さんも心配するだろう。
「おい、おーい、兎谷ー。終わったぞー。起きろー」
肩を揺すぶる。
「タイガー……マスク……?」
「タイガーマスクじゃねえ起きろ」
兎谷は目を覚ますと上体を起こし、眩しそうに目を擦った。
「大丈夫か、眠いか? 睡眠薬が残ってるとふらつくから気をつけろ。今は8時だ。悪い、調子に乗って飲ませすぎた。まだ5mgは残ってる計算だから帰るの危ない。送っていく」
「ん……」
兎谷はワンピースの腰のあたりをもぞもぞ探った。
「スマホか? 持ってくるから待ってろ」
服と一緒に持ってきて着替えさせた。
どうやらちゃんと目を覚ましているらしいことを確認して、一緒に家を出る。寒い。今年に入って一番寒いかもしれない。廃業したガソリンスタンドや、小さな神社、印鑑屋。いつもの道を歩いてゆく。
「空中浮遊……」
ずっと無言で歩いていると、兎谷が呟いた。
「ん?」
「再現できないかな、空中浮遊」
「ISSにでも気軽に行ければな」
「いい作品だった? 満足?」
「いい作品だった。満足した」
「そか……」
兎谷は慎重な足取りでゆっくりと歩いている。やがてバス停に着くと二人並んでベンチに座った。他には誰もいない。無言のままそうしていると、雪が降りはじめた。『ノスタルジア』の終幕のように。
「眠い。伏水、なんか面白いこと言って」
「ん? そうだな……」
伏水はしばらく考えた。
「あのな、映研でな、今度私が監督をやることになった。一年で監督だぞ。すごいだろ」
「お前じゃなくて部長とかがすごいよ。
「お前主演やってくれ。映研に籍入れろ。いいのを撮りたいんだ」
兎谷はため息をついた。
「絶対……絶対やだ……絶対よく思われないよ、お願いだからそれだけはやめてよ……」
「“子よ 走れ エウリディケを嘆くな
棒で銅の輪を 己の世界を追え
かすかにでも
一歩一歩の歩みに 陽気に 無情に
大地がざわめく限り”
アルセニー・タルコフスキー。いい詩だろ。母さんが好きだった」
「知らないよ、聞けよ」
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