第二部 エピローグ

カターニア・フォンターナロッサ空港で帰国の途につく前に、空港まで5キロほど離れたシチリア第二の大都市。

ユネスコ世界遺産に登録されたカターニアの街を訪れたいと蓮が申し出たのは、帰国前日のディナーの席でのことだ。



10のホテルのオーナー全員の、共同経営を了承するサインが揃ったのは、意向表明書を提示し、説明会を開いてから3日後のことだ。

すぐに答えが出されると思っていたものの、これまでにない事例ということもあり、経営者にアドバイスするコンサルタント達が尻込みした結果、それぞれのホテルごとに試算することを提案してあの日の会合は終わった。


説明会の翌朝。

試算が終わった順に、個別に契約書類を取り交わすという算段になったとスチュワートから説明され、それまでは待ちぼうけの日々となる。


結局その日はディーンから誘われ、銃撃騒動で棚上げしていたタオルミーナの観光を再開する。

さらにその翌日には、タオルミーナから約50km、車で1時間ほど北上したシチリア島の第三の都市のメッシーナまで足を延ばし、大聖堂ドゥオーモの隣にある鐘楼の、世界一大きいと言われるからくり時計が動く様を見上げた。

オーナー全員のサインが入った書類が届くまで、期せずしてそれまでの二日間、二人はシチリア島北西部を、すっかり観光客気分で堪能していた。


ただ、蓮はひとつ忘れていたことがあった。

シチリア島を訪れることが決まり、その際に寄せられた、イタリア在住のハッキング仲間からのお土産情報。

「シチリアに行くなら、絶対お勧めのお土産があるよ」と勧めてくれたのは、ピスタチオクリームだ。

ピスタチオは、シチリア島でも収穫、そしてクリームなどにも加工され、商業べースになっている人気のお土産品で、ピスタチオクリームはエメラルドグリーンのピスタチオをローストして贅沢に使い、ナッツクリームにしたものだ。パンに塗ったりタルト生地のベースに塗るなど、バターやチーズとは一味違った濃厚な味わいが楽しめる。

ハッカー仲間は、多種多様にあるピスタチオクリームの中での、彼の超お勧めを教えてくれた。

それも、カターニアにあるレストランのオリジナルの物が、数あるピスタチオクリームの中で絶品だと大絶賛していたこともあり、カターニア市内にあるそのレストランの名を教えてもらっていた。


話を切り出した当初は「ネット仲間ねえ」と眉をひそめ、「それを買うためだけに寄るのか?」「時は金なりのポリシーはどうした?」と揶揄していたディーンからも、最後は蓮の熱意に根負けして「お前の好きにしろ」との承諾をもらえた。

さっそく、銃撃されたピンチから救ってもらったお礼のランチも兼ね、昨晩のうちにレストランに予約を入れた。

財布には痛いが、スチュワートとジャクソン。そして、ミラー以下30人の黒服たちも含むため、結果的に店は貸し切りとなった。

だが、これで厳つい警備担当も、文句のひとつもなく納得するはずだ。

決して高級と言う訳ではないが、新鮮で上質な素材を用いて作られる家庭的なイタリア料理は、おそらく舌の肥えているディーンも満足させられるだろう。



明るくカジュアルな店内で、レテセント・リージェント・グループのオーナー一行は、素朴だが絶品のイタリア料理を堪能していた。

だが、ランチにも関わらず特産のエトナワインを豪快にラッパ飲みしはじめたミラーが、スチュワートと怒鳴り合いの喧嘩を始め、別の意味で貸し切りにしておいて良かったと、蓮は騒ぎから離れた奥まった二人掛けのテーブルでため息をついた。


「気にするな。あいつらを同席させるとああなる。だからジャクソンも、平然としているだろう? つまりは、あれが奴らの通常運転だ」

ディーンは、二人でシェアしていた、フレッシュなバジルとモッツァレラチーズが乗るマルゲリータへと手を伸ばしながら解説するが、あまりのヒートアップした様子に、人傷沙汰にならないかと、蓮は気が気ではない。

そうは言っても、二人の勢いに気圧されて止めに入ることも憚れ、見かねた蓮は、とりあえずディーンに断りを入れ、先にお土産を注文しようとレジへと向かった。

相手は大人だ。

器物損壊等、責任は大人の彼らが負うのが筋だ。


そう自分に言い訳して、店の入り口の横にあるレジに向かい、一旦客席のある部屋のドアを開けて廊下に出る。

その廊下を歩いていれば、不意にレストルームの扉が開かれ、中から出てきた男にぶつかりそうになった。


「ごめんなさい、スィニョ―レ。 お怪我はありませんか?」

よろけた男に詫びれば、洒落たイタリアンカジュアルな井出達に身を包んだ、ハイセンスな老人が、にっこりと好々爺の笑みを向けてきた。

「おや、貴方は!」

その拙い英語に、蓮がどこかで会ったのかと小首を傾げれば、老人はさらに笑みを深めて蓮の手を取った。

「いつぞやは、ミルクティをごちそう頂き、ありがとうございました。大変、美味しゅうございましたよ」

その言葉に、蓮はハッと思い出した。

ニューヨーク市のマンハッタンで、ちょっとしたトラブルからお気に入りのミルクティを諦めた時、それを渡した老人の顔が記憶の奥底から浮上した。


「あの時は、大変失礼しました。本当に急ぐ状況だったので、貰って頂いて感謝します」

そしてにっこりと微笑めば、老人もまた、人の良さそうな笑みを返した。

「早朝からの仕事で、ちょうど体が冷えていたので、とても有難かったですよ。こうして、直接お礼が言えてよかったです」

そして、老人は蓮の手を解放した。

「では、今日は私が少し急いでいるので、これで失礼します」

肩をすくめ、「またどこかでお会いできる日を、楽しみにしていますよ」と言い残し、蓮は店の外へと向かう老人の背を見送っていたが、唐突に我に返った。


慌ててドアの外に消えた老人を追いかける。

だが、勢いよく開け放った入り口ドアの外、石畳みの路地にはすでにその姿はない。


――どうして、ここに? 

冬にもかかわらず、背筋を冷や汗が伝った時、恰幅のいい店の女店主が声をかけてきた。

「どうしたんだい、坊や?」

その言葉に、蓮はひとつ息を吸って気持ちを静めると、動揺を悟られないように作った笑顔を浮かべて振り返った。

「なんでもありません、マダム。ところで、確か今は、オレ達がお店を貸し切っていますよね?」

その問いに、女主人は豪快に笑った。

「当たり前だよ! 店の客席より多い人数をさばくんだ。他の客なんて相手にしている暇はないよ」

その言葉に、蓮は問いかけようとした言葉を飲み込んだ。


――ではなぜ、あの老人は店の中に居たのだろうか。一体、何の為に。



店を出た老人は、老人とは思えないくらい軽やかな身のこなしで、そそくさと店の前で待機していた真っ白いリムジンの助手席に滑り込み、収まる。

そして、老人が乗り込みドアが閉まったと同時に、リムジンは急発進した。

丁度その時、後方でレストランの入り口ドアが開け放たれたが、中から飛び出してきた黒髪の青年が、走り去るリムジンに気付いた様子はない。


サイドミラーでそれを確認した老人は、ひとつ安堵の息を吐き、肩掛けカバンの中から小型のカメラを取り出した。

そして後部座席を振り返り、それを間仕切りの小窓から優雅に足を組んで座る主へと手渡す。

「美味しかったミルクティのお礼は、ちゃんと言えたのかい、セバスティアーノ?」

小型カメラを受け取りながら、薄茶の癖の強い髪の男が揶揄するように問いかける。

年の頃は30代半ばくらいか。

オフホワイトのスラックスに、夏のイタリアを象徴するグランブルーのカラーシャツが気障ったらしい。

だが、それを嫌味なく着こなすのは、男の醸し出す寛容で柔和な雰囲気に因るところが大きい。

「はい。ニューヨークではお礼が言えませんでしたので、ようやくお話が出来て嬉しゅうございました」


その言葉に、後部座席の男は満足そうな笑みを浮かべると、「さてと、さっそく」と呟き、いそいそとカメラと膝の上に乗るノート型パソコンとケーブルでつなぐ。

そして、再生ボタンを押して膝の上の画面をひと目見ると、短い口笛を吹き、面白そうに口元に笑みを湛えた。

「ただの緑の瞳を持った黒髪の日本人って聞いていたけど、これはこれは……」

そして、その金色に近いアンバーの瞳を輝かせた。

「あの彼が、隠したがるのも分かる気がするよ。確かに、この子の外見は魅力的だ。オリエンタルな上品でいて繊細な感じと、西欧の持つ高級さと洗練性。その両方の良さを持つこの見た目は、一級品じゃないか。しかも、中身もM&Aディールの天才なんだろう? ――あの彼が気に入るのも、無理はないよ」


そんなはしゃぐ主人に、老人は心配そうに助言する。

「ですが、とても心優しく礼儀正しい青年です。あまり、お心を悩ませたくは御座いませんし、迂闊に手を出せば火傷では済みませんよ」

そんな老執事の杞憂に、男は肩をすくめてみせた。

「馬鹿を言うなよ。そんな事をしたら、こちらの首が飛ぶことは判っているさ。でもなあ……」

尚も未練が残る沈黙に、老人がため息をついた。

「とにかく、眠れる金狼のご不興を買わないよう、余計な事は極力お控え下さい。今回の接触も、あの方の知るところになれば、絶対に泣かされますよ。――カエサル様」

その牽制混じりの言葉を以って、後部座席と助手席を隔てる間仕切りが窓が閉じられる。



たった一人となった後部座席に座り、パソコンの画面に写る静止画像の青年の姿を、まずはスクリーンショットで保存しつつ、自身のスマホへと転送する。

そして、少しの間考えた後、カエサルと呼ばれた男は胸ポケットからスマホを取り出し、短いメッセージを打ち始めた。



件名。

――エンペラーの、アンタッチャブル。

本文。

――見たい奴は、取引しようよ。



カエサルは、この一文に興味を抱き、一体、王と呼ばれる何人の者が喰いついてくるのか。

その反響への期待感に、小さく口元に笑みを浮かべた。

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