5 黒檀と象牙

 さすがロードストーンというべきか、白鍵の表面には象牙が、黒鍵には黒檀が使われていた。

 象牙や黒檀には、多少ながら吸湿効果がある。

 そのおかげで長時間ピアノを弾いても、鍵盤が汗を吸って手が滑りにくいという特性があった。

 ご存じの通り、近年象牙の入手は非常に困難になっており、少なくとも国内生産のピアノには随分前から人工象牙やアクリルが使われている。


(やっぱ象牙はいいよなぁ)


 蔵人が本象牙のピアノに触れたのは、幼少期に参加したピアノ演奏会のとき、中規模の市民ホールには不釣り合いな、オーストリア製の高級グランドピアノに触れたのが最初だった。

 当時はバブルまっただ中で、どの地方自治体も予算を持て余しており、芸術振興の名の下に当時の市長が状態のいい中古品を引っ張ってきたとかなんとか、そんな話を蔵人は聞いたことがあった。


 触れた瞬間しっとりと吸い付いてくるような感触と、弾いても表面が滑らないことに随分と感動したのをいまでも覚えている。

 自宅の安いアップライトピアノに敷かれた、アクリル鍵盤の感触にがっかりしたことも。


(たしか黒鍵だけ交換してもらったんだったか)


 当時のわがままを思い出して、蔵人は苦笑を漏らした。

 輸入が禁止されてしまった象牙に比べれば、高級とはいえ黒檀はまだ手に入りやすく、決して安くはないが一般家庭でも手が出せないほどではない。

 白鍵のほうも人工象牙に張り替えるという話は出たが、当時のものはまだ質が悪く、手触りがざらざらしすぎていたのでそれは断った。

 アクリルの白鍵に黒檀の黒鍵というなんともアンバランスな鍵盤ではあったが、蔵人は当時、格段に弾きやすくなったと感じたものだ。

 まぁ、あとになって黒檀だと思っていたものが黒檀調木材だと知ったときは乾いた笑いが漏れたが、蔵人少年の指はそこまで繊細ではなかったらしい。


(そういやあのピアノのも、もうないんだったか……)  


 市民ホールの高級ピアノはバブル崩壊後の不景気によりメンテナンス費用が確保できず、売りに出された。

 その話を聞いたときは少なからずショックを受けたものだ。


「ねぇ」

「ん?」


 突然呼ばれてそちらを見ると、ライザが怪訝な表情で自分を見ていた。


「さっきからなにニヤニヤしてんのさ」

「あー……」


 それなりの時間物思いにふけっていたらしい蔵人は、いまさらながら彼女にずっと見られていたことに思いいたる。


「なんでもない。考え事だ」

「ふーん」


 軽い羞恥心を覚えた蔵人だったが、せっかくか話しかけてくれたのだからこの機会に気になることを聞いておくことにした。


「なぁ、このピアノって、どれくらい前に製造されたものかはわかるか?」

「んー、魔王戦役のあとに勇者が創ったもんだから、300年前とか?」


 ライザの口から魔王だ勇者だと、およそピアノとは無縁な言葉が次々に飛び出してくる。

 勇者が“創った”というのも気になるが、それ以上に――、


「300年前!? 本当か?」

「まぁロードストーンのピアノを創れるのは創成の勇者シオンだけだからね。戦後もしばらくはいろいろ創ってたみたいだけど、魔王戦役が終わって50年だが60年だかでく亡くなってるはずだから、新しいものでも200年以上前なのはたしかだよ」


 ロードストーン社がニューヨークで設立されたのが19世紀半ば、およそ160年前だ。

 つまり200年以上前にロードストーン社製のピアノは存在できない。

 ならばこのピアノは、蔵人の知るロードストーンとは別のものなのだろうか?


「いや、ありえない……」


 考えが思わず口をついて出る。

 側板がわいたの曲線、響板の作り、アクションの構造、どれをとってもロードストーン以外にはありえないものだ。

 しかもその作りから、ここ30年以内に製造された比較的新しいモデルであることもわかる。

 それが少なくとも200年以上前に製造されたという。


「嘘じゃないよな?」

「はぁ? そんな嘘ついてなにが楽しいのさ」


 ライザの言葉が事実であるという証拠はないが、彼女の言うとおりここで蔵人を騙す意味はまったくない。


(よし、じゃあ間を取って製造後250年としよう。だとすれば、この状態のよさはなんだ?)


 確かに最初は酷い状態だと診断した蔵人だったが、それはあくまで製造後20~30年程度と考えてのことだ。

 しかし想定より十倍ほどの時間が流れているとなると、話は全く変わってくる。

 そもそもこのモデルが200年以上前に存在したという不思議を無視したとしてもだ。


「これ、鍵盤の張り替えとかは何回かやってるのかな?」

「まさか! ロードストーンの鍵盤を替えるなんて狂気の沙汰だね」

「じゃあ200年以上この鍵盤を使ってるってことになるぞ?」

「そりゃそうなるだろうねぇ」

「にしては状態がよすぎるんだよ」


 いくら使用頻度が低かろうが、それだけ長期間使われていれば、白鍵に張られた象牙が摩耗して、下の木材がむき出しになってもよさそうなものだ。

 いや、まったく使われていなかったとしても、経年劣化でくすみのひとつもできるだろう。

 しかしこのピアノの白鍵はまるで新品の象牙を張ったような美しい乳白色をしており、汚れひとつついていない。

 しかも不自然に白くないことから、漂白もされていないことがわかる。


「そりゃ聖女さまの〈祝福〉がまだ効いてるからでしょ。なんせ千年はもつって話しだし」

「ふむう……」


(また〈祝福〉、それに聖女ときたか……。異世界の不思議パワーで護られている、くらいに考えておくか)


 だが弦は交換された形跡があるのはなぜか?

 そのあたりのことは、いずれ詳しく調べたほうがいいのかも知れない。


(一度ライザとじっくり話したほうがいいか……)


 しかし、いまはとにかく目の前のピアノをなんとかすべきだろうと思い、蔵人は軽く頭を振って雑念を振り払った。

 そしてわからないことを考えるのは後回しにして、蔵人は作業を再開するのだった。

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