第三章 到着 -3-

 〈アウストリ〉は着陸のため巡航を離脱し、高度を下げはじめた。

 目の前には暗い色をした〈朔〉の木星がある。半分ほど顔を覗かせたその姿の地平線にかかる部分が、わずかに明るい。これから日が経つにつれ、木星はその明るさを増してゆき、夜明けをピークに〈望〉を迎える。これが〈表〉と〈裏〉とのほぼ境界に位置する、〈森の精〉ヴァルトガイストから見た木星の姿だ。

 木星は太陽系最大の惑星であるが、ここから見るその姿は、タイタンから見る土星よりも若干小さいようにエビネは感じた。それでも、伸ばした腕の先にある握りこぶしぐらいはあるだろう。

 高度が下がるにつれ、かすかな木星光に照らされた地上の様子がはっきりしてくる。波のように繰り返される陰影が、大地の起伏の多さを物語っていた。その中でも一段高くなっている部分が前方にシルエットのように浮かび上がってくると、〈アウストリ〉はアプローチに入った。

 機はクレーターの外縁に沿って、ゆっくりと旋回する。盆地の中央付近に〈森の精〉ヴァルトガイスト基地の照明が見えた。それを目指して機体は弧を描き、最終進入経路へと機首を向けた。

 と、その時――。

 〈森の精〉ヴァルトガイストの灯が消えた。クレーター内は突如闇と化し、基地を取り囲む森と基地施設の区別がつかなくなった。着陸目標を見失ったアダルは、迷わず再アプローチを決心した。

〈森の精〉ヴァルトガイスト進入管制アプローチ、〈アウストリ〉進入復行ミスドアプローチ。上昇して待機する」

「〈アウストリ〉了解っ」

 管制官の慌てた声が、コンソールのスピーカーから聞こえてきた。それに呼応して、〈アウストリ〉の機体が上昇へ転じる。再び場周経路での旋回運動に戻ると、アダルは管制官に声をかけた。

「何があった?」

「司令部からの連絡では、その……〈グレムリン〉だそうです、はい」

 管制官は言いにくそうに伝えてきた。〈グレムリン〉と聞いて、アダルの形のいい眉が跳ね上がった。心持ち声がかたくなる。

「何か問題は?」

「灯火関係以外、これといってありません。レーダーも生きてますので、こちらから〈アウストリ〉は見えています。現在〈森の精〉ヴァルトガイスト上空には、他の機はありません。気兼ねせずに回遊しててください」

 問題の解決は遠そうだと、管制官はほのめかした。それを聞いてパイロットは顔を曇らせる。

「そうしたいところだけど、経理が燃料をケチって充分に補給させてくれなかったんだよ。その上この『お嬢さん』は、意外と大食いみたいでね。できればあと三周まわる間に、何とかしてくれるとありがたいんだけど」

「なんてこった!」

 管制官は小さく、神への嘆きと、経理部に対する罵りの声を上げた。そして苦しそうに「善処します」とだけ答え、一旦通信を切る。アダルは燃料の消費を抑えるため手早く自動操縦に切り替えると、軽く息をついた。

「あの……」

小悪魔グレムリンのいたずらだよ」

 ただならぬ雰囲気に、不安になったエビネが口を開きかける。が、少佐の方が一歩早かった。出鼻をくじかれた士官候補は、間抜けな顔をして聞き返す。

「グレムリン?」

「飛行機なんかに悪さする小悪魔のことだよ。どこの航空隊にも、大抵一匹や二匹いるんだ。〈森の精うち〉には、とびっきりのが二匹いてね、毎日退屈しないよ」

「はぁ……」

 理解わかったような、理解わからないような。エビネは曖昧な相槌を打ちながら、額にしわを寄せた。

「意表を衝かれてみんな慌ててるけど、それほど深刻なコトにはならないと思うよ。だってこれは、彼らが君を歓迎するためにやってるんだから」

「歓迎?」

「そう、歓迎」

「誰が?」

「だから、〈グレムリン〉」

「……はぁ」

 エビネはただ首を捻るばかりだ。〈グレムリン〉という符丁が、さっぱり解からない。どうやら「航空隊用語」で、「アクシデント」を指すようだが、「彼ら」で「歓迎」とはどういうことか。

 理解に苦しんでいるエビネにアダルは笑いをかみ殺していたが、計器に反応が現れるや否や、管制を呼び出した。

「レーダー管制室。滑走路ランウェイ14Aのマーカーを捉えたけど、ここに降りてもいいの?」

 〈森の精〉ヴァルトガイストには交差する二本の滑走路があるが、先ほど着陸を許可されたのとは違う方の滑走路からも、計器着陸用のビーコンが発せられていた。通常は風向きを考慮して、どちらか一方の滑走路しか使わないため、二つの誘導装置が同時に働くことはない。そして風のないこの時間帯、しかも視界の利かない時に、滑走路を変更するのは奇妙だ。

 そうアダルが考えていると、管制官の憮然とした声が返ってきた。

「いえ、そちらは『勝手に』起動したんです。予定通り、滑走路22Bから降りてください」

「勝手に……ああ!」

 アダルは得心した。〈グレムリン〉は「ここに降りろ」と言っているのだ。彼らが何をするつもりなのか、何となくアダルには見当がついた。だから部隊幹部の中でも〈グレムリン〉擁護派の筆頭である彼は、瞬時に着陸を決意した。

「やっぱ、14Aに降りよう。次の周回でアプローチに入る」

「ちょっと待ってください!」

 管制官が悲痛な叫びを上げる。

「彼らは14Aにこの機を降ろしたがってる。だったらそれに従うまで、基地の機能が正常に戻るとは思えない。彼らはただ、僕たちにあっと言わせたいだけなんだよ。このまま燃料切れで墜ちるぐらいなら、〈グレムリン〉にあっとと言わされる方がずっとましだし、面白いじゃないか」

「面白いって、少佐……」

 愉快そうな少佐の声に、管制官は絶句した。管制官だけでなく、副操縦士席でなすすべもなく座っているだけのエビネも、いきなりクスクスと笑い出したアダルの様子を呆気にとられて見ている。

了解わかりました。14Aへの進入を許可します」

 数秒の逡巡ののち、管制官は観念した。〈アウストリ〉のアプローチ先の変更を認め、進入手順を伝える。アダルは嬉しそうに礼を言うと、自動操縦を解除して指示通りに機体の向きを変えた。

 小さな旋回を終えると、〈アウストリ〉の尖った鼻先が滑走路14Aの正面に向く。航法システムが滑走路までの距離や高度を伝えるビーコンをキャッチすると、アダルは再び自動操縦に切り替えた。普段なら手動で降りるところだが、今回はあえてこの方法をとった。

 全てを〈グレムリン〉に任せるつもりだった。事故にはならないという確信はある。それでも万一に備えて、操縦桿からは手を離さなかったが。

「僕の顔を見ているより、窓の外を見ている方が面白いよ」

 呆然と自分を見つめている士官候補に、アダルは声をかけた。

 エビネは我に返ると、居住まいを正し、シートベルトを締めなおした。アクシデントに緊張しているが、なぜか怖いという気持ちはなかった。多分クリストッフェル少佐が落ち着いているからだろう。「少佐に任せておけば、絶対安心だ」という確信が、不思議と持てた。

 そう、とても不思議な気分だった。頭の中は自分でも驚くぐらい冷めている。でも身体の奥底からは、これから起こることに対する興奮や期待みたいなものが、じわじわと滲み出てくるのだ。

 エビネはそれらが一気に噴出さないように、ひとつ深呼吸した。

「ギアダウン」

 俄かにエンジン音が変わり、機体がランディングアプローチに入る。少佐は自動で行われている着陸手順に誤りがないか、計器を読み上げながらチェックしていく。

 少しでも視界を得るために照明が落とされたコクピットで、エビネは目を凝らした。暗闇の向こうに、うっすらと滑走路の末端が見えた。白で書かれた滑走路の方位を示す「14」という指示標識が、ぼうっと浮かび上がる。

 このまま闇に吸い込まれる――。そう思った時。

 突然、滑走路手前に設置された進入灯が点灯した。

「あ!」

 瞬く間に〈アウストリ〉はその上を通過する。すると滑走路の縁や中心、接地帯などを示す滑走路灯が、手前の方から順番に光を取り戻しはじめた。〈アウストリ〉の一歩前を行く白い小さな光の点が、機体の速度に合わせ、誘導するかのように走る。

 甲高いエンジン音を響かせて、試験機の高度が下がっていく。コクピットでは、高度を読み上げるアダルの声だけが聞こえた。

「三〇――」

 高度三〇フィートを切ると、〈アウストリ〉は機首を引き起こした。しばらくそのまま滑空する。

 光にエスコートされた機が、静かに滑走路へ滑り込む。地面に接触する軽い衝撃が機体を揺らす。それに合わせて、全ての滑走路灯が一斉に点灯し、そして消えた。

 暗闇の中、機体は急速にスピードを落とし、滑走路の四分の三を過ぎたあたりで停止した。アダルは素早く操縦を手動に切り替え、管制からの地上走行タキシング許可に備える。しかし管制官からの指示より早く、滑走路脇に敷設された誘導案内灯が点き、〈アウストリ〉を誘導路タキシーウェイへといざなう。アダルは迷わずそれに従った。管制官はもう何も言わなかった。

 誘導路に入った〈アウストリ〉は、示された緑色のラインに沿って、ゆっくりと地上を走った。光の道は、右手方向になる司令部ビル前の駐機場へは直行せず、反対側の、先ほど着陸した滑走路と並行する誘導路へと続いている。

 左手に滑走路を見ながら、機体はタキシーウェイをもと来た方向へと移動した。滑走路の半ばにある分岐点まで来ると、今度は左手に進路を変え、再び滑走路へ入る。そこで、停止の案内灯が点灯した。

 〈アウストリ〉は、滑走路の真ん中で止まった。時の間、〈森の精〉ヴァルトガイストが静寂に包まれた。

 そして。

「あ……」

 前触れもなく始まった外の変化に、エビネは思わず身を乗り出した。

 ひとつ、またひとつと、小さな光が灯ってゆく。初めは機体を取り囲むように、しかしそれは徐々に範囲を広げ、やがて空港全体に広がっていった。

 地上に星が生まれた。

 青、白、赤、緑。暗い地面に埋め込まれた飛行場灯火が、ゆっくりと、不規則に明滅する。星空を鏡に映したかのように、地の星々は瞬く。

 〈森の精〉ヴァルトガイストが宇宙と同化した。

 エビネだけでなく、〈森の精〉ヴァルトガイストの誰もが言葉を失い、その光景に目を奪われた。ウィルも、アダルも、イザークも。みな我を忘れて、しばしその神秘的な輝きを見つめ続けた。

 あの光の中に立ち、両手を広げて三六〇度見渡してみたら、どんな気分だろう。

 エビネは無性に飛び出していきたい衝動に駈られた。そうするには〈外〉へ出なければならないのだが、そんなことは全く頭になかった。ただ言い知れぬ高揚感に、頭の中が痺れたようにぼうっとなった。エビネは瞬きもせずに、大地に散りばめられた煌きに魅入った。

 と、不意に地上の星が消えた。三たび〈森の精〉ヴァルトガイストは闇に包まれる。が、それも束の間。

 〈森の精〉ヴァルトガイストの灯かりという灯かりが、光を放った。眩しさのあまり、エビネは目を閉じた。しかし、アダルの吐息のような嘆声に、ゆっくりと目を開き、息を呑んだ。

 〈森の精〉ヴァルトガイストの象徴である司令部ビルが、黒々とした森を従えて、そこにあった。距離にするとここから数百メートルは離れているが、煌々とライトアップされたその姿は、エビネの目にはとても大きく映った。そしてそれは、先ほどの地上の星々とともに彼の目に焼きつき、一生忘れることができないほど、心の深い部分に刻み込まれた。

 エビネは〈森の精〉ヴァルトガイストへ到着した。


 〈グレムリン〉によるイルミネーションショーが、最高潮に達した。

 司令部ビルのオフィスでその様子を見ていたウィルたちは、日々の任務の中で忘れがちだった夜の飛行場の美しさに、あらためて感動していた。各々が、初めて〈森の精〉ヴァルトガイストに赴任してきた時のことを思い出し、少し感傷的な気分になった。そんな自分に思わず照れて、苦笑してしまう。

 心ならずもこのイベントに感動してしまったウィルは、素直に負けを認めた。全くの完敗だった。子供たちの想像力と行動力に、彼は舌を巻いた。だが悔しさはなく、このように〈森の精〉ヴァルトガイストを大切に扱った我が子を誇らしく思い、かすかに口元をほころばせた。

 ショーは次の段階へ移ろうとしていた。

 ビルを照らしているライトが暗転する。

 しかし、それきり続きは演じられなかった。待てど暮らせど照明は消えたままだ。

「どうしたんだ?」

 ウィルの隣で同じように窓の外を見ていたイザークが呟いた。彼同様、続きを期待していた誰もが、テンポの乱れを訝しく思った。子供だてらに徹底主義の〈グレムリン〉が、こんな中途半端で終わらせるはずがない。彼らを知る者であれば、当然そう考える。

 〈森の精〉ヴァルトガイストが、ざわめきはじめた。

 そんな中、突如サイレンが鳴り響く。

 異常事態を告げる警報に、ウィルたちは緊張し、顔を強張らせた。そこへ前触れもなく、いきなりシステム管理室から連絡が入る。

「大佐、アクセス権は奪い返せましたが、〈グレムリン〉たちが足跡を消去して逃げる前にログを保存しようとしたところ、メイン、サブの両システムが落ちました。現在、全てのシステムが止まっています!」

「なにぃぃっ!?」

 ウィルは目を剥いて叫んだ。ショーの余韻はどこかへ吹っ飛んでゆく。彼の驚愕もおかまいなしに、システム管理士官は淡々と報告を続ける。

「現在、システムの再起動中。サブシステムの起動によって、生命維持機構は一五分後に復帰。防衛システムもまもなく復帰します。しかし全システムが元通りになるには、最短でも一二時間近くかかると思われます」

 ウィルは愕然となった。

 ログの保存は、今後の〈グレムリン〉対策用に、自分が命じたことだった。その判断は間違っていないはずだ。しかし、まさか全システムが一度に落ちるとは思わなかった。システム管理士官のミスか、はたまた連中のトラップか。原因はどうあれ、システムの完全停止は非常にまずい。こんなことがカリスト司令本部にバレたら、ますます〈森の精〉ヴァルトガイストの立場が悪くなる。いや、経理部長とミス・バーバラの方が厄介か。さまざまな思惑がウィルの脳裏をかすめる。

 彼は混乱する頭を整理しつつ、隣室で控えている主席副官を呼び出した。

「ホルヴァース曹長、司令本部に緊急メンテでサーバを停止し、しばらくネットワークから外れると伝えろ。メンテナンス理由は、ええと――突っ込まれないものを、適当にでっち上げろ。いやその前に、この騒音うるさいのをなんとかしてくれっ」

「はい、大佐」

 同僚たちから〈氷の男〉と呼ばれる壮年の副官は、冷静を保ったまま答え、直ちに一番最後の命令を実行した。しばらくしてから、警報が止む。

 静まり返った暗い部屋の中で、〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官は茫然と呟いた。

「最低のエンディングだ……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る