ラインの河畔

 パンを焼く匂いに珈琲の香りが混じった。

 半覚醒のまま寝返りをうつ。

 すごく空腹だ。このまま起きてもいい。ちょうど遅めの朝食も用意してくれてる。

 しかし、ちょっとした悪戯心から、そのまま目を瞑って待つ。

 瞼越しの光が強くなった。誰かが寝室の戸を開けたようだ。それで空気にも馴染みのない川の臭いが加わる。

「旦那様、そろそろ起きて下さい。もう昼になってしまいます」

 優しく僕を揺するグリムさんを薄目で観賞する。

 なんというか普通だ。いまや北王国デュノーでも指折りに高位な女性とは思えない。

 その辺の下町にでも居そうな新妻さんって感じだ。……もの凄く艶っぽいのを除けば。

 これは……しまっても構わないのではなかろうか? いま、この小屋コテージには、僕とグリムさんだけだし!?



 ……パンと珈琲が冷めてしまったことで、ひどく叱られた。

 まあグリムさんにすれば二度手間だし、気怠い身体で再調理は大変か。

 でも、作業そのものは厭わなかった辺り、印象を裏切らず家庭的だ。

 いや、そもそもグリム王妃は、自らパンを捏ねたり焼いたりしないでよかった。

 すぐ近くには金鵞きんが兵達が控えているし、炊事兵も帯同している。僕ら二人分が増えたところで、苦にもならない。

 それでもグリムさんは、自分の手でやりたかったのだと思う。

 僕が朝食の支度をする奥さんに、ぐずりながら起こされてみたかったように……女の子の方でも、対をなす憧れはあるのかもしれない。

 まあ、そんな女性を職業婦人バリキャリかつ化学部門の総責任者CEOにとか……大いに問題あり? 本人は家庭志向だったろうし!?

 だけどグリムさんには、もう一生傍にいて貰うしかない。……たとえ彼女が嫌がろうと。

 もはや運命にも近く、そのように因果も縒られてしまった。


 罪から目を逸らすかのように、ライン川南岸の開拓風景を眺める。

 まだ全然だ。

 畑とする拓いた場所は足りなかったし、城と称するものも丸太塀で囲った避難所にしか思えない。

 それらを足したよりも伐り株の並ぶ荒地の方が広いくらいだ。もう開拓の風景というより、伐採業者の前進基地とすら?

 だが、作業する人々の表情は明るい。

 何年後かに得られるであろう収穫を、まったく疑ってないようだった。

 ……どうやら僕は、かなりの信頼を勝ち得ていたらしい。



 真面目に土地を耕していれば、堅実な収入が約束される。少なくとも失業者のように、明日の食べ物を心配せずともよい。

 残念ながら、それに近くなったのは、近代からだ。

 人類が農業を始めて一万五千年というが、つい最近まで『おてんとうさまを相手にした露天博打』と考えられていた。

 なるほど、分のいい博打ギャンブルではある。大きく儲けられそうにないけれど、平均アベレージがよい。

 しかし、一回の負けで――干ばつや日照り、水害、天候不順などで、数年分の蓄え勝ちが吹き飛ぶ。

 マクロ視点で見れば人類が絶滅していない以上、農業の選択は正解だったし、トータルでも勝ち越している。

 だが、ミクロ視点で見れば――各農村レベルで見れば、農業もまた、死と隣り合わせの稼業でしかない。


 これをなんとかしたのが生産性の向上――農業改革と硝石の導入だ。

 つまり、何年かに一回は負けようと、それ以外の年で大きく勝っておけばよい。

 さらには各農村ミクロでの負けも、国家マクロが補えば済む。

 なぜなら国家自体も、生産性の向上で大きく勝っている。国内全土が大凶作でもなければ困らない。

 これは不作な農村だけでなく、ほぼ生産の無かった開拓村でも理屈は同じだ。

 今年は駄目だったとしても、来年を頑張る為に食糧が援助される。

 それが約束されているかどうか、それが信じられているかどうかで、やはり全く違う。

 踏まえると前世史の大ローマ帝国が潤沢な資金を使った開拓――ゴリ押しな人海戦術とは、まったく異なる。

 今生のライン南岸へ入植は、実のところ現代科学チートの賜物だ。



 遅い朝食後、開拓民から差し入れされた野生牛オーロックスの肉で、グリムさんに叱られながらハンバーグを作っていたら、ライン南岸代官のウシュリバンが客を連れてきた。

 なぜ叱られながらか理解に苦しむ?

 そりゃ真面目な奥さんが怒る類の、不埒な振る舞いを繰り返したからだ。それしか考えようないだろうし、どこに疑問が?

 むしろ新婚旅行の滞在先まで仕事を持ち込むウシュリバンこそ、断罪されるべきなんだけど……そう段取りしたのは僕自身だから、まあ仕方がない。

「早かったね、ウシュリバン。もうすぐ料理が出来上がる所だから、食べていくかい? もちろん、お客人の分も作るし?」

「オーロックスに御座いますか。御厚情は有難きことなれど、我らは昨夜に堪能致しましたし……夕餉も用意するよう申し付けて来てしまいました」

 どうにも遠慮しているようだ。……まあ僕らは新婚旅行の最中だし、当然?

 それにオーロックスは、想像していたより不人気のようだった。

 前世史では乱獲され絶滅してしまう程、狩りの獲物として持て囃されたらしいのに。

 もしかして味より立派さが評価されて? 角とか凄く立派だし?

 ……念の為に寄生虫対策で肉を挽いたけれど、大正解だったかもしれない。


 とにかく仕事へ執りかかるべく、エプロンやら何やらをグリムさんへ手渡す。

 ウシュリバンの連れてきた客人は跪いたままだし、その二人を見張る金鵞きんが兵の子らもピリピリしている。

 さっさっと用件を済ませ、楽にして貰うべきだろう。

「その御二人は?」

「この者らは、ヴァンダル族のアダルベルトとリュージイ族のヘルマンに御座います」

 どうやら古フランスガリア語が分かるらしく、その紹介に二人は身じろぐ。



 しかし、リュージイ族はともかくヴァンダル族は……その名を聞かされただけで頭が痛い。

 前世史では、ちょうど今時分にゲルマニアからガリアとイスパニアを横断。さらには北アフリカへ渡ってヴァンダル王国を興す――

 民族大移動で名を馳せた最大手の一角だ。

 本来は部族名でしかないヴァンダルという言葉が『文化の破壊者』とか『文化の破壊』なんて意味を持つようになったといえば、彼らの凄さを分かって貰えるだろうか?

 前世史的には、フン族やゴート人に比肩し得る暴れん坊だったし。



 ただ、伝説にも近いヴァンダルの王とは名前が違ったから、ヴァンダル族の本流ではなさそうだ。

 ……前世史との相違から、ヴァンダル族が分裂してたら万々歳だし!

「まあ、なんとなく用件は予想できるけど……是非とも本人の口から聞きたいな。

 えっと……直答を許します。二人とも、面を上げて」

 これを聞いてアダルベルトが代表するかのように口を開いた。……驚くべきことに、全く物怖じしてない。

「偉大なる北王! 光を統べしリュカ陛下! 我らは御身が召集に応じ、その旗下へ馳せ参じました!」

「ウシュリバンより、御身らの献身は聞き及んでおります」

「な、なれば! 伏して願い出たき議が!」

「我らが妻子を呼び寄せるを、御許し賜りたく!」

 さすがに事情の説明は受けている。こんなややこしい問題を即興で解決する趣味はない。

 それでも――

「リュカめの答えは、いつでも同じです。我が臣下であれば、この名に懸けて守りましょう。

 しかし、御身らは一族が名を捨て、北王国デュノーへ降られましょうか?」

 と厳しい問い掛けをせねばならなかった。

「陛下の軍勢へ、末席たろうと加われるのならば、それは望外というもの!」

「数ならぬ身なれど、我らが忠誠を受けとられ賜いたく!」

 そう答えるなり二人は剣を抜き、その刀身を自らへと向けた。

 ……ことさらにゆっくり動いたのは、見張る金鵞きんが兵の子らを刺激せぬようにだろう。

 緊張に震える剣を受け取り、祝福して返す。……慣れてきたのが、自分でもよくわかる。



 これで二部族が――もしくは、その一部が新しく北王国デュノーの傘下へ加わった。

 ライン川防衛構想としては戦力の安定化が図れるし、さらには開拓民を誘致とも見做せる。

 ……対価として何年かは、暮らしていけるよう援助せねばならないが。

 まあ来期からは傭兵としての支払いが不要だから、額面よりは安く済むのかもしれない。


 ただ客観的に考えると、ゲルマン人が南下を果たしたともいえる。

 つまり、民族大移動の成立だ。

 上手く事を運べているはずなのに、時折、歴史の強制力とかいうオカルトな言葉が脳裏によぎる。

 もしかしたら北王国デュノーを、ゲルマン移民で大混乱へ導いてしまって?

 こんな不安に僕は、一生悩まさせられるのかもしれない。

 でも、今回は正解だろう。ベストではなくとも、ベターを選べてる。そう自分へ言い聞かせ、胃痛と共に不安を押し殺す。



 ……どうやら胃薬も開発せねばならない?

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