嵐の到来
急使は真夜中に到着した。
それで俄かに城は目覚め、誰も彼もが声を押し殺しているのに騒然と落ち着かない雰囲気だ。
「さ、若様。こちらの御召し物を」
そう義母さんが差し出したのは、かなり上等な服だった。半ば礼服にも近い。
……これも守るべき礼節? とにかく言われるがまま袖を通す。
「何処からなんです? その急使は?」
「フィクス領より御越しとのことです」
代わって僕を待つ母上が教えて下さった。
ドゥリトルの北東に位置し……その北部には
なるほど。どうやら始まってしまったらしい。まだ何も実ってはいないというのに!
悔しさと怒り、そして無力感が綯い交ぜとなった思いに満たされていく。
僕は間に合わなかったようだ。とうとう追いつかれてしまった。
「何処が攻めてきたのか、お聞きに?」
「母も、まだ伺ってはおりません。しかし、このような折には、伝聞を交えないのが一番です。ささ、直接伺いに参るとしましょう」
それもそうだ。ここで母上と首を捻りあうより、急使本人へ問い質した方が早い。
これからを思い、気合を入れるべく自分で両の頬を張る。
「御武運を、リュカ」
大袈裟なと思いかけ、その声が震えていたのに気付いた。これは怖がりな義姉さんの精一杯だ。
……そして紛れもなく
「ありがとう、義姉さん。でも、安心して? 僕は運が良い方だと思うし」
どこへだろうと転生して二度目の人生を送れるのなら、ぶっちぎりで幸運だろう。……もう悪運が強いとすら?
「兄ちゃ! 兄ちゃは大丈夫だよね?」
姉を真似て礼儀正しくしていたエステルは、堪えきれなくなったのか抱き着いてきた。
怖ろしい想像でもしたのか涙ぐんでいたし、少し子供返りを起こしかけてる。
「心配なんて要らないよ! いつだって御兄様は慎重だっただろ?」
……あれ? おかしいぞ? どうして皆、納得のいかない顔して?
「ステラ! あたしは、そんな風に躾けた覚えはないよ! 武家の女であれば、殿方は笑顔で御見送りをするんだ。……自分の笑っている顔を思い出して欲しいなら、特に!」
なるほど。そんなものかもしれない。乱世では、女性も女性で大変だ。
そして泣き笑いのような顔で、なんとかエステルはやり直す。
「ご、ごめんなさい。――義兄上様、御武運をお祈りしております」
「大丈夫だよ? まだ何も始まっていない。これから何が起きているのか確かめに行くところだからね」
エステルの頭を撫で――これは正式な
僕には守りたい人達と帰るべき場所がある。だから決して負けられない。
「よし、いきましょう、母上! お待たせしました」
その部屋は謁見の間に次ぐ格式で、違いは密室になり大きな長方形のテーブルが用意されているぐらいか。
……なんといっても領主専用の椅子――玉座ならぬ領主座が常設されているし。
左右の長辺にはウルスを筆頭に城詰めの
対するに文官は
そして領主座がある短辺の反対――いわゆる下座の場所へ、見知らぬ男性が座っていた。おそらくフィクス領よりの使者だろう。
護衛役のティグレとブーデリカに先導された僕達の入室と共に、皆が一様に席を立つ。
軽い目礼と押し止める仕草で応えつつ、やや早足に上座へと向かう。
上座の中央――領主座は空席のままに空け、その左右が僕らの指定席だ。でも、それが最善手だろうか?
刹那の閃きに身を任せ、目で母上に問う。
一瞬、非常に驚かれたけれど、すぐに真顔へ戻って肯かれた。……意外と母上は冒険好きに思える。
とにかく領主座の前へ立って宣言してしまう。
「名代のリュカです。取り急ぎ子細を伺いたく。でも、とりあえず座らない? 長くなりそうだし?」
さすがに皆は騒めいた。むしろ、それが最小限度に留められていたのを褒めるべきですら?
しかし、武官筆頭のウルスが異議を申し立てないのなら、そういうことなのだろうと最後には納得の様子だ。
……うん、これは後で小言が長くなるかもしれない。
そして大きな領主座を持て余しかける寸前、誰かが椅子の調整を助けてくれた。
誰かと思えば、ティグレの従士として控えていた義兄さんだ。皆からの死角でニヤリと笑いながら――
「がんばれよ!」
と小声で励ましてもくれる。
……残念ながら表情を崩せないので、目で応えるのが精一杯だったけど。
誰か気の利いたものが用意してくれたのか、卓上には北方地図が広げてあった。
地図の左側にドゥリトルがあり、北東にフィクス領、南東にスペリティオ領、直接に領境は接しないが東にゼッション領と――近隣の位置関係が判るものだ。
もちろんプチマレ領のように、あちこちと小さな領地も点在はしている。
「先週のことです、ゲルマンの部族がレイルの街へ迫っているのが発見されたのは」
ユアンと名乗ったフィクス領の
そして地図上のレイルへは、街を示す駒が置かれている。
……拙い。フィクス領の右端――ゼッション領との境に近い街だ。
ドゥリトル、フィクス、ゼッション、スペリティオの領境で十文字が描かれているが、それは地図上のことでしかなかった。
現実には、何もない。まだ人類の版図ではなく、そこには原生林しかないのが普通だ。
さすがに
「先週? となれば、まだレイルは攻められておらぬのか?」
やや不機嫌さを隠しきれていないフォコンが問い質す。
……あれは叩き起こされたことより、先日に街で獲物を
しかし、いくらフォコンでも死の国へまでは追いかけれない。誰だか知らないが、ずる賢く蜥蜴の尾を切った。
「確かにレイルはまだですが、すでに通り道となった村が焼き払われて! どうか御助勢を! 古からの盟約に則り、そして同じ王を仰ぐ誼に免じ、我が同胞を御救い下さい!」
そう
まず領都ドゥリトルとレイルの街は、それほど近くない。
途中の村などで陳情するより遥かにマシとはいえ、ざっくり七、八〇キロと想定されるからだ。
伝令が馬を潰しても一日では届かない。行軍ならば四、五日は必須で、強行軍しようと三日はかかる。
現代日本の距離感でいえば、東京駅から小田原までが七〇キロ強といったところか。
「そもそも何処ぞの部族が相手で、フィクス領は如何に対応を?」
要領を得てないとばかりに、ウルスも問い質す。……ドゥリトルの所属だったら、この場で説教を開始していたかもしれない。
「敵はベザグモウ族、数はおおよそ千と。街を預かる指揮官は籠城を決意し、いまごろは近隣住人の収容も終わっていることでしょう!」
しかし、その千という数に、どよめきが起きた。
「千? 北方部族が千? 単独で、そのような規模となる訳が無かろう! そこもとは間違えておられる!」
人口十万のドゥリトルですら、外征に二千は苦しい。
より規模の小さい北方部族が千なんて、ありえないという指摘だ。
「それにベザグモウ族で間違いないのですか? 彼の部族はライン川の北側に居を定めていたような?」
思わずといった感じに母上も疑問を呈される。
ちなみに前世史でライン川といったら、ドイツ-フランスの国境線にも等しい。
ただ、これも例によってローマ化の影響なので、いわゆるゲルマン民族の大移動――ライン川西岸への入植が前倒しされてるようだ。
ようするに前世史と比較すれば、フランス北東部がドイツに浸食されたイメージが近い。
……最悪よりはマシだけど、そんなに良くもないぞ、これは。
「それでレイルの街には、どれだけの兵力が? 千はいるんだよね?」
「男手だけなら辛うじて。しかし、戦士が足りぬのです! ですから、どうか御助力を!」
再びユアンは懇願してくるけど、まあ納得だ。
ほぼ同じ兵力で籠城戦ということは、どれだけ援軍を呼べるかに勝敗が懸かっている。
おそらく今頃はゼッション領やスペリティオ領へも急使が到着し、各員が懸命に領主を掻き口説いていることだろう。
また『男手』という表現も絶妙だった。
これは中世の人口ピラミッドを理解していないと、実情を理解できない。
まず三割強から四割弱が十五歳未満であり、つまりは子供だ。
十五歳から四十五歳の――働き盛りの世代は、ちょうど人口の半分しかいない。
さらに男と限定したら、その半分で、つまりは四分の一だ。
つまり、ドゥリトル城下に一万人といっても、荒事に耐えうる男手は二千五百人以下となる。
そして全ての男手が戦士階級や軍属じゃない。
領都という特殊事情を考慮に入れても、武人は五百人がよいところだ。……いまは主力が国土防衛に出払ってもいるし。
おそらくレイルの街は五千人前後の規模で、壮健な男手は千人ぐらい捻出できる。
しかし、戦士は二百人程度しかおらず、千人を超える寄せ手を長くは阻めそうにない。
そんなところだろう。
だが同時に、この
なぜなら千人を外征へ出すのには、最低でも二万人の人口が必要となる
……あるいは民族大移動の持つ、隠れた恐ろしさというべきか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます