I'm hungry

紫檀田紫苑

第1話 齧られた島



 月も星も雲に隠れてしまって、墨を流し込んだような黒い海の上。小さな漁船の上で、船の光に乱反射した波の様子をぼーっと眺めていた。


「…ねみぃ」


 小遣い稼ぎに父の船に乗ったものはいいものの、出航したのはまだ日も出ていない早朝。いつもなら朝の七時八時までぐっすりと眠っている俺の目は今にも閉じてしまいそうだ。

 船に乗ると眠くなる。ゆったりとした波に揺れる船の上は心地良くて、ついついまどろんでしまうのだ。


 ああ…睡魔が…近づいてくる…。





 バシィン!


「っ~~~!」


 頭に響く痛みに睡魔が遠ざかった。耳の奥でキーンという耳鳴りが響く中、振り返ってみると日焼けしまくった小麦色の肌が特徴的な父が立っていた。


「ガハハハ! 案外いい音が鳴るもんだな!」

「親父ぃ! 俺の頭は太鼓じゃないぞ!」

「でも、目ぇは覚めただろ?」


 確かにすっかり目も覚めてツッコミ芸人も顔負けないい音が鳴ったが、痛みはかなりなもんだ。ボケ担当の芸人は偉い、こんな痛みを堪えて人を笑わせるのだから。


「叩くこたぁねえだろ」

「いいじゃねえか、いいじゃねえか。網を設置したところまで後もう少しなんだから、寝るなよ~」


 そう言ってヒラヒラと手を振り、船の上でたむろしている漁師達へのもとへ戻る父の背に、俺の睨みを効かせる。俺の視線に気付かない父親は、漁師仲間と楽しそうに話していて、一つため息を吐いた。

 まだ痛みを感じる頭を摩りながら視線を海に戻すと、海は雲隠れしていた月が現れて、水平線の向こうに大きな影が見えるようになっていた。大きな影の中には小さな光が一見散りばめられているように見えるが、きっと昼になれば見えるであろう建物たちの光であるのだとわかる。


「あ、九ノ島だ」


 この漁船が出港した港町、九十九町から一番近い離島。工場が立ち並び青いインクをぶちまけたような海が見える九十九町と違い、九ノ島から見える海はとても透き通っているため、サーフィンや海水浴目的の観光者が毎年来る。

 夏休みになったら必ず父が連れて行ってくれて、兄弟でどこまで泳げるか勝負していた。負けず嫌いの俺は弟だから妹だからと手加減はせず、勝利を勝ち取った時は決まって「お兄ちゃんなんだから手加減しなさい」と、親に咎められたものだ。そして家に帰ったあと、お風呂で兄弟達の復讐が始まるのだ。日焼けした背中にお湯をかけられ、水鉄砲を顔にあてられるという制裁を受ける。しかし、俺は黙ってやられるような優しい兄ではなかったので、冷たいシャワーを掛けて反撃を繰り出し、最終的にはただの水の掛け合いっこになって、兄弟仲良く母の説教を受けたものだ。


 思い出に浸りながら、九ノ島の島影を眺めていると島影に異変が生じた。


「なんだ、あれは…」


 ぐぐっと目を凝らしてみると、島の片方がまるで風船のようなものがどんどん膨らんでいくのが見えた。その大きさは島の三分の一を覆いつくしており、街の光が見えなくなってしまい、言いようもできない不安が生まれる。そしてその風船のような黒い塊が、むくりと蠢いた。

 小さく胸騒ぎがするも未だに何が起こっているのか分からないがため、ずっと島を見ていると、島のほうから飛び魚が逃げるように海の上を飛び跳ねてきた。数匹船の上に乗っかって、船員が「なんじゃ!?」と驚いた声を上げる。網で捕まえたわけではない飛び魚を海へ返すと、飛び魚は海の上を飛び跳ねながら島の反対方向へと泳いでいった。


 まるで逃げるようだった飛び魚の動きに違和感を感じ、もう一度九ノ島の方へ目を向けると、ごく、と唾を飲み込んだ。






 目が合った。





 なにと?と問われれば、少し応答に困る。あれがなんなのか、少なくとも自分の知識の範疇外であるナニカであることが確かだからだ。


 しかしあえて描写するなら、島を覆い尽くしている黒い塊の見開かれている一つの目玉、というしかないだろう。それは、時折、ゆっくりと目を閉じ、開いて、尚もこちらを見ている。

 どこまでも暗闇しか映さない瞳は、俺を捉えて目を離さないでいる。まるでじっとりと舐められるような視線に、熊と対峙しているような錯覚をする。いや、あれに近づいてしまったら、熊どころではないだろう。

 まるでペンで塗りつぶしたかのような瞳が貪欲を孕んでギラギラと光る瞳は、俺を捉えたままである。






 獲物を片時も見逃さないよう、こちらを見ている。








「おーい、誰か手伝ってくれ! こりゃあ、大漁じゃあ!」


 父親の大声に一気に現実に引き戻され、自分が何をしにこの船に乗っているのか思い出す。すでに設置した網のところまで来ていたらしい。


「手伝わんと小遣いやらんぞー!!」


 父親に急かされて網を引き上げている父親たちの中に入り、網を引くのを手伝う。


「おっも!!!」


 腕に負荷がかかった重さは相当なものだった。網へと目をやると魚で溢れそうなくらいぎゅうぎゅう詰められていて、数匹網から逃げていった。

 ようやく網が船へ引き上げられたあとは、しばらく腕が痛んだ。


「ふう…、水揚げ最盛期でもないというのに、なんだこの量は」


 額の汗を袖で拭きながら、一人の漁師が呟いた。俺は一つ、この大漁の原因に心当たりがあった。小さな胸騒ぎが大きくなって、もう一度九ノ島の方へ目を向けると、俺は目を大きく見張った。


 島の…九ノ島の島影の大きさが半分以上消えていた。


 先程見たものを思い出して、一つ嫌なことを思い浮かんでしまう。


「…親父、あれって、九ノ島だよな?」


 杞憂であれ、と祈りながら父親に問う。


「ん? ここから見える島なんて、九ノ島しかねえだろ」

「…じゃあ、九ノ島ってあんなに小さかったっけ?」


 そう言われて父親は九ノ島の方へ目を向ける。…確かに、息子に言われてみれば、この位置から見える九ノ島はあんなに小さいものではなかった気がする。望遠鏡を持ち出して、九ノ島をよく観察する。大分空が白んできたが、島影からだと父親は九ノ島に何が起こっているのか分からなかった。

 だが丁度日が明けてきて、九ノ島の様子がよく分かるようになると、父親も俺と同じように目を大きく見張った。


「おい! 今すぐ九ノ島へ向かってくれ! 災害が起きたのか知らんが、街が消えているぞ!」


 父親の声によって船は九ノ島へと向かった。






「なんだ、これは…」


 船が九ノ島に着いたとき、船に乗っていた全員が唖然とし、俺は天を仰いだ。


 綺麗に漁船が並び漁帰りの漁師達の笑い声も、岸から緩やかな傾斜に合わせて立ち並んでいた住宅も、自動車は通らず子供達が楽しそうに自転車を乗り回して、婦人と犬の散歩をしている姿も、この船に乗っている全員の記憶にある九ノ島の日常はなかった。






 あったのはまるで巨大生物に齧られたような断崖絶壁と、森しかない孤島となった九ノ島だった。

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